2-07 再来

 部活の時間となったが、残念ながら今日は弓道場を使えないため、学校内での自主トレとなる。実は銀ヶ丘高校に弓道場はなく、学校に隣接する市営弓道場を借りて練習を行っているため、利用できる日が限られている――というのも、その小さな道場は一般客も利用することから、毎日四十人余りが押し掛ける訳にもいかないのだ。

 それで弓道部においての自主トレは、腹筋、背筋や内太ももの筋トレと、練習用のゴム弓での型の練習である。弓道を始めるまで俺も知らなかったのだが、弓は背筋で引くものであり、意外にも腕力はあまり必要ない。もちろんあるに越したことはないが、現に八十超えの細腕の老人が若者よりも上手いくらいなので、その程度ということだ。むしろ身体を支えるための足腰や胴体の筋力──いわゆる体幹の鍛錬、そして何より精神力の向上が重要となる。身体と心をよどみなく静止できなければ、当たりなどしないということである。

 練習スペースとしている廊下を眺めてみれば、始めたての一年生はまだ型もろくにできていないため、延々とゴム弓による反復練習をしている。対して俺は、三年生にもなってゴム弓で長々と練習するのも退屈なので――こんなことを言うと、基礎を疎かにするなと師範に怒られるが――早めに切り上げて帰宅することにした。

 下校途中、幸いにも誰かが後を付けてくる様子はなかった。どうやら、昨日言って聞かせたのが効いたらしい。


   ◇◆◆


 家に着いた時にはちょうど十八時、初夏のこの時間ではまだ陽が少し残っており、外はまだ薄っすらと明るい。私服に着替えて茶の間で一服していると、玄関のチャイムが鳴った。

 ピンポンダッシュでない限り来客なわけだが、この家に客が訪れる事は滅多にない。ヤスか、まれだが後見人の伯父か叔母くらいだが、いずれも特に約束はしていない。

 新聞の勧誘あたりだろうと予想し、億劫おっくうながらも玄関に向かう。


「はい、どちら様ですか」


 戸を開けながら尋ねると、返ってきた返事は予想外なものだった。


「やっほーパパ、遊びにきたよん」


 そこには例の不思議ちゃんが立っており、人懐っこい笑顔を向けてきた。


「帰れ」


 俺はそう告げて即座に戸を閉めようとしたところ、閉まりきる寸前で止まってしまった。どうした事かと戸の隙間すきまを追って下に目線を向ければ、なんと靴──もとい少女の足が挟まっていた。


「ぱぱぁ、それはぁ、ちょぉっと、つれなすぎるんじゃぁ、ないかなぁぁ?」


 少女は戸を開けようと全身をぷるぷるさせて踏ん張りながら、そう文句を言ってくる。だが悲しいかな、少女のか弱い力では閉めようとする俺の力には遠くおよばず、一向に開く様子はない。とは言え、こちらも少女の足が挟まっていて閉められないので、両者進退きわまっているのだが。


「ふんにぃぃぃ」

「しつこいやつだなぁ……頼むから帰ってくれよ」


 血痕けっこんやら吸魂やらの勧誘は勘弁して欲しいもので、これなら新聞の勧誘の方がまだマシだった。

 そうこうしていると、「ぅっ」とか細い声が聞こえ、突然少女の小さな手が戸から外される。ようやくあきらめてくれたことに安堵あんどしかけたところで、戸の向こう側で何かが倒れる音が続いた。普通に考えれば少女が倒れた訳で、少々心配になり戸を開けようとして──っとぉ、危ない危ない!


「おーい、だいじょぶかー? 倒れたふりして開けさせようったって、そうはいかんぞー?」


 倒れた演技かもしれないので、まずは声掛け確認。用心用心、幼児用心。


「……」


 反応なし、か……とりあえず挟まった足を外に押しやっておいた。それでも反応がないので、戸を閉めてしばらく待ってみるが……向こう側で起き上がる様子はない。本当に何かあって倒れたのだとすれば放置はマズイし、演技だったらなら今度こそ閉めれば良いと考えて、念のため安否確認することにした。

 そっと戸を開けてみるが、少女は仰向けで目をつむったままピクリともせず、突然ゾンビよろしく飛びかかってくることもない。……ふむ、どうやらこれは演技ではなさそうだ。


「おーい」


 近寄って呼びかけてみるが、返事はない。ただのしかばねかもしれない。次いで少女のわきに屈み、ぷにぷにのほおを突いてみる。


「んぁぁっ」


 ぷるぷるっと反応有り。おっと、ただの屍ではないようだ。


「突然どうしたってんだ?」


 そう尋ねてみると、


 くぅぅぅぅぅぅ…………


 小動物の鳴き声のような、なんとも可愛らしい返事が返ってきた。想定していたよりも下の方からだったが。


「はうぅぁっ!」


 少女の頬が鮮やかな桃色に染まり、小さな両手が力なく腹部に添えられる。


「おい、今の――」

「二日ほど何も食べてないの……」

「お前どこのスラム孤児だよ!」


 言い訳を一蹴いっしゅうする。


「パ、パパの子……」


 そう答えると、再び目を瞑ってしゃべらなくなった。

 …………よぉし、確認しようか。ここは二十一世紀の日本で合ってるよな? そして目の前に倒れてるやつは、家無き子ではないよな? ああ、驚くべきことにも正解だよ! そもそも、街中で行き倒れてるヤツなんて初めて見たんだが……腹が減って動けないとか、喋るカバじゃあるまいし……そうだとしても、俺の顔は食用じゃないし替えも利かないから分けてやれん。

 さて、ここで俺が取れる選択肢としては、①放置、②救急車、③何か食わす(顔以外)、あたりだろうか。

 まず①、明日の朝に本当にただの屍になっていたら寝覚めが悪すぎる。却下。

 次に②、腹減った程度で呼んでいては救急車がいくらあっても足りない。最近は蚊にさされたとかで呼ぶヤツがいるらしいが、まずは頭の中を診てもらうべき。

 そうなると……おい、③しか残ってないじゃないか、どうしてこうなった!? もしや、これも含めてこいつの策略か?

 はぁ……諦めて中に運ぶか。面倒な事になったなぁ。


「おい、自分で立てるか? 無理なら逆さりで運ぶぞ? いいのか?」


 ちなみに少女はスカート姿であり、そんなことをすれば大変なことになるので、もしやれと言われても俺には絶対に無理である。つまりただのブラフなのだが、ほぼ初対面となれば見抜けはしまい。

 少女は俺の脅しにびくっと肩を震わせたが、


「でも……む……り……」


 少し間を置いて辛そうにそう答えた。つまり本当に立てないことになるので、運んであげるしかないようだ。仕方なく少女の肩とひざの下に手を入れて持ち上げたところで、ふと思う……なぜ、俺はお姫様抱っこをさせられてるんだ? ほんとねぇ、どうしてこうなった?

 不思議ちゃんを茶の間に運び、座布団を頭の下に敷いて寝かせてみるが、依然とぐったりしている。


「アレルギーはあるか?」

「な……い……すききらいも、ない……」

「そうか。いい事だ」

「パパに……怒られる……もん」

「ハハッ、素晴らしい教育だな」


 ついでにもっと食糧を家において欲しかったし、もう少し一般常識を教えておいて欲しかったものだ。人の家の木に登って中をのぞいちゃだめとかさ。

 それで半分皮肉を混ぜたつもりだったが、少女は小さくうなずくと、嬉しそうに頬を少し緩めた。なるほど、よほどのパパ大好きっ子のようだ。

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