第26話
エルは石切場の四層目から身を乗り出し、下の様子を見守っていた。
騎士や従士たちも、アルケタらしい若者を先頭に石切場からいなくなった。そしていま、石工たちが大歓声をあげている。
いったいどうなってるんだ?
石切場に反響する野太い声を聞きながら、エルは眼下の光景に目を丸くしていた。
魔法のようにセウ家の男たちが消えた。
奇跡みたいだ。
俺は助かったんだ――。
夢を見ているかのような気分で見下ろしていると、イオアンに付き添っていたドワーフが立ち上がり、誰かを探すように、きょろきょろと上を見回している。
あれは、もしかしてバルバドスか!?
エルは驚いた。
じゃあ、あのドワーフのおっさんも、俺を追いかけてきてたのか。セウ家の軍団に入ってるって話してたもんな――。
そんなことを考えていると、バルバドスがエルのほうへ顔を向けたので、慌ててエルは頭を引っ込めた。やばい、見つかったかな?
甲高い指笛が聞こえた。
恐る恐るエルがふたたび顔を出すと、まだバルバドスがこちらを見ていて、さかんに手招きするような仕草をしている。
降りてこいってこと?
頭を引っ込め、エルは考えた。
おっさんは悪い奴じゃないみたいだし、ずっと隠れてるわけにもいかない。それに、セウ家の連中はいなくなった。石工たちも助けてくれるだろう――。
立ち上がると、エルは窪みに戻り、ブケラトムに跨った。
石切場の底へ降っていると、バルバドスが駆け上がってきた。これ以上、エルが進むのを阻止するかのように、両手を上げている。バルバドスが目の前に来ると、驚いたブケラトムが後ろ足で立ち上がり、いなないた。
とっさにエルは甲高い裏声で叫んだ。
「何をするのです!」
「馬鹿野郎!」とバルバドスが叫んだ。
「いきなり、馬鹿とは無礼な――」
エルが金切り声をあげると、バルバドスはエルに近づき、押し殺した声を出した。
「下手な演技はやめろ。おまえが、あの小僧なのは俺には分かってる」
「あ、そうなんだ」エルは拍子抜けした。
「だが石工たちは、おまえが女盗賊だと信じてる。俺が案内するから、そのあいだ、おまえは黙ってろ」
「案内って?」
「イオアン様のところだ」
「大丈夫なのか、倒れてるのが見えたけど」
「命に別状はない」
バルバドスが受け合った。
「発作を起こしたんだ。いまは休んでる。とにかく、石工たちが登ってくる前に移動するぞ」
底に降りると、石工たちから歓声があがった。エルに手を振っている者もいる。エルは頷いてみせた。
石工の親方が、ブケラトムに近づいてきた。
「ご覧になりましたか、お嬢様。あいつらを、やっつけてやりましたぞ!」
親方は誇らしげに胸を張っている。
「すまんが、お嬢様を通してくれ」
バルバドスが間に割って入った。
「これから、あの方のところへ行きたいんだ」
「あの方?」
親方がバルバドスに尋ねた。
「あの修道僧のような方のことか。あの方はいったい何者だ。伯爵が、おまえはセウ家の跡――」
「まあまあまあ」
バルバドスが大声で遮った。
「細かい話はあとだ。お嬢様はいますぐ、あの方の看病を希望している」
「それは失礼した」
親方は頭を下げると、顎髭をいじりながら尋ねた。
「あの方とお嬢様は、いったいどのような関係で?」
バルバドスは声をひそめた。
「世を忍ぶ関係だ。さあ、通してくれないか」
「最後にひとつだけ――」
と親方がバルバドスを引き留めた。
「これは、あんたへの質問なんだが、なんでドワーフのあんたが、あんなエルフの連中と一緒にいる?」
「俺の理由か?」
バルバドスは肩をすくめた。
「そりゃ、理解できないような連中と一緒にいるほうが、多くを学べるからさ」
バルバドスは、ブケラトムを川岸の静かな場所に曳いていった。石工たちが休むための休憩所らしく、木陰の下にはテーブルや椅子が置いてあった。ベンチにはイオアンが仰向けで寝ていた。
エルはブケラトムに水を飲ませ、ククルビタと同じ木につなげた。ポカテルが木の根元で休んでいる。川から涼しい風も通り、気持ちのいいところだ。エルは、少し離れたところからイオアンを眺めた。
青ざめた顔をして目は閉じている。窪みの中では暗くて分からなかったが、日の光の下で見ると、イオアンの表情はくたびれきっているように見えた。額から流れ出た血が、色褪せたローブを汚していた。
近寄ってきたバルバドスが、ドレス姿のエルをしげしげと眺めると、
「ほんと、お似合いですな!」
と笑い声をあげた。
「やめてくれよ。息苦しくて、いますぐにだって、これを脱ぎたいんだ」
エルはヴェールに手をかけた。
「おっと、待った」
バルバドスがエルの手を押さえた。
「その可愛いドレスを脱ぐのはまだ先だ。石工たちの夢を壊すことになるからな。それは、ここを出てからにしてくれ」
「これって、あの人が盗み出したのか」
「まあ、そういうだな」
「よく盗み出せたな。これって伯爵夫人のなんだろ、大丈夫なのかよ」
「おまえが捕まらなければな」
エルはイオアンへ顔を向けた。
「あの人はずっと気を失ったまま?」
「いや、一度目を覚ましたんだが、また寝てしまった。容態は安定してるから、いずれ目を覚ますだろう。どちらにせよ、もう少し休ませたほうがいい」
エルの顔が曇った。
「あの人が倒れたのは、俺を助けようとしたから?」
「間接的には、そうなるかもな」
バルバドスは頷いた。
「おまえとブケラトムを逃がそうとして無理をした。だが、直接的には、疲労の蓄積と過度の緊張が引き金になった」
「よくあるのか?」
「十代の頃は、もっと頻繁だったようだ」
バルバドスは濃い顎髭に触れながら語った。
「一度倒れると何週間も寝たきりになった。だが、俺と会った頃から安定したらしい。無理をしなければ日常生活は営めるし、イグマスのまわるぐらいなら出歩けるようになった。いつもは薬を持ち歩いてるんだが、慌てて忘れたんだろう」
「それで外にも出ないで、本ばかり読んで先生になったのか」
「先生?」
「この人はアルケタの家庭教師なんだろ。歴史を教えてるって」
「ああ」
バルバドスは合点がいったように頷いた。
「じゃあ、イオアン様がとうとう自分が何者かを説明したんだな。なるほど、歴史の家庭教師か。上手いこと考えたな」
エルが怪訝な顔をしているので、バルバドスは取り繕うように続けた。
「とにかく、今日のことは異例中の異例なことなんだ。イオアン様は腰が重いから、よほどの理由がなきゃ、遠出するのは嫌がる」
「それなのにここまで――」
エルとバルバドスは、しばらく寝ているイオアンを眺めていた。
「おまえは、もう帰れ」
バルバドスがエルに告げた。
「もうセウ家の連中も離れただろう。仲間のもとに戻るがいい」
「あんたは?」
「俺か? イオアン様が目を覚ますまで、ここにいなきゃならん」
バルバドスはやれやれと溜息をついた。
「あーあ、せっかくの休暇が台無しだよ。こっちでやることを色々楽しみにしてのになあ。だから、おまえを屋敷に連れてくるのは嫌だったんだ。なんか揉め事を引き起こしそうな雰囲気満々だったもんなあ」
嫌味を吐くバルバドスに、エルが告げた。
「じゃあ、帰れよ」
「帰れないから困ってるんだろうが」
バルバドスは、そんなことも分からないのかという顔をした。
「だから――あの人は俺が見るよ」
エルが恥ずかしそうに告げた。
「はあ? 馬鹿を言うな」
バルバドスが鼻で笑った。
「今日初めて会ったおまえなんかに任せられるか。だいたい発作のことを、おまえは何も知らないだろ。この俺が、イオアン様を何年面倒みてきてると思ってるんだ。おまえこそ、とっとと帰れ」
バルバドスはしっしと、汚らしい犬でも追い払うような仕草をした。
「もう、発作は収まってるんだろ!」
エルはバルバドスを睨みつけた。
「あんたみたいな奴に、嫌々世話されるほうが可哀そうじゃん。ほらほら、戦争帰りのドワーフさん、イグマスでさぞかし遊びたいんでしょ。さあ、行けよ。エルフたちのところへ、戻れって言ってんの」
「おまえなあ――」とバルバドスがばきばきと指を鳴らしたところで、
「帰っていいぞ」と声がした。
バルバドスとエルが振り返った。目を覚ましたイオアンが上体を起こしていた。
「バルバドスは帰っていい」
「え、俺がかよ?」理解できないように、バルバドスは自分を指差した。
「もう少し休んだら、私はひとりで帰るから」
「しかし、アルケタ様と約束したしな」
「イグマスで色々やることがあるんだろう? せっかくの休暇を堪能するがいい」
「いや、それはだな――」
「疲れてるんだ。これ以上説明させないでくれ」
自慢げな顔をしたエルが、バルバドスの肩を叩き、後ろへ顎をしゃくった。
「本当にいいのか?」バルバドスが訊いた。
「ああ。ポカテルもいるから問題なく帰れる。昼過ぎには戻るようにするよ」
「イオアン様がそう言うなら――」
肩を落として去ろうとしたバルバドスは、嬉しそうな顔をしているエルを見ると立ち止まり、エルの肩を揺さぶった。
「いいか、また発作があったら呼吸しやすい体勢にして、何か喉に詰まらせるといけないから顔は横向きにしろ。それから、体を無理に押さえつけようとするな。しばらくすれば勝手に痙攣はおさまる。まわりの危ないものはどかしておけ。発作が収まったあとも、まだ朦朧としてるから、しばらくは付き添うんだぞ。分かったな?」
バルバドスの剣幕に圧倒されたのか、エルは大人しく頷いた。
「よし」
エルの目を見たバルバドスは手を離し、石切場のほうへ歩いていったが、突然振り返ると、エルを指差して叫んだ。
「何かあったら、ただじゃ済まないからな!」
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