第24話
「俺を?」
エルが呆然としている。
「あいつらはブケラトムじゃなくて、俺を追いかけてたわけ?」
「そういうことだ」
イオアンは頷いた。
「セウ家の騎士たちは、おまえ――というか〈
「まさか――俺だったのかよ」
エルは、気持ちの整理がまだつかない。
「ところが思いのほか、その狐の逃げ足が速かったというわけだ。おまえは、どんな魔法を使ったんだ」
「魔法?」エルが怪訝な顔をした。
「それとも、首なし騎士団の特別な技術か? 誰ひとり乗りこなせなかったブケラトムに跨って、ここまで逃げ切れたのは、どういうわけだ」
「そういう意味か」
エルが、奥にいるブケラトムへ顔を向けた。
ブケラトムはすっかり落ち着いているようだった。イオアンたちがやってきて、セウ家の馬小屋にいるような気分なのだろう。
「何もしてないよ。俺はただ跨ってただけさ」
「何も、していない?」
今度はイオアンが怪訝な顔をした。
「秘密はないのか? だがそれで、あの軍馬たちを振り切れるはずはない。
「もし、秘密があるとしたら――」
エルが首を傾げた。
「それはブケラトムさ。一度振り落とされそうになってからは、ずっと、あいつが気持ちよく走れることだけを意識してた――」
エルが何か思い出したようだった。
「――あんたに謝らなくちゃいけない」
「なんだ、突然」
「あんたは、ブケラトムがルベルマグナの子供だって信じてたけど、俺は疑ってた。馬鹿にしながら聞いてたんだ。でも、あんたが正しかった」
「ではブケラトムは――」
イオアンは目を
「ルベルマグナのようだったのか? それで、逃げ切れたというのか?」
「そういうことだね」
エルが頷いた。
「ルベルマグナが走ってる姿を見たことがないから、似てたのかは俺には分からない。けど、あいつがもの凄い瞬発力と、強靭な足腰と、とんでもないスタミナの持ち主ってことだけは保証するよ」
「そうか――」
とイオアンの顔に微笑が浮かんだ。
「まさか、そこまでだとは思っていなかった。そうなると、伯爵様が金貨二百枚で買ったことも、あながち間違いではなかったわけだな?」
「まあ、そうだけど」
エルが渋々と認めた。
「ただ、その可能性を潰したのもオウグスだぜ」
「だとすると――」
イオアンは考え込んだ。
「おまえの何が、ブケラトムの可能性を引き出したんだろう? 本当にブケラトムの邪魔をしなかったというだけなのか?」
「あとは相性とか? 分かんないよ」
「そうだな」とイオアンも頷く。「とにかく、おまえは約束を果たしたわけだ」
「約束?」
「ブケラトムを元気にすると言って、屋敷から連れ出したんじゃないか」
エルが目を逸らした。「そうだっけ?」
「私は半信半疑だったが、ブケラトムがいい飼い主に出会えて嬉しいよ」
「でも、それも終わりだ」エルが
イオアンは不思議そうな顔をした。「なぜだ?」
「なんでって――」
エルが呆れたように言った。
「あいつらは俺が狙いだって、あんたが言ったんじゃないか。ここから逃げるにはブケラトムは連れていけない。上から逃げるしかないんだ」
「そうだったな」イオアンも暗い顔になった。
エルが顔を上げた。
「あんたは、どうやって見つからずに、ここまで登ってきたんだ?」
「見つかったよ」
「え?」
「石切場の入口で、従士がひとり見張りに立っていた。わたしは上を確かめてくると説明して、強引にここまで来たんだ」
「じゃあ――」
「また下に戻って、報告しなければならない」
「――どうするつもり?」エルが恐る恐る質問した。
「どうするって、もちろん、誰もいなかったと、騎士たちには伝えるさ」
「でも、俺が捕まったら――」
「かなり、まずいことになるだろうな。だからおまえには、しっかり逃げ切ってもらわないといけない」
「分かった」
エルが抱えた膝に頭を乗せた。
「ブケラトムは頼むよ。もう大丈夫だと思うけど」
「しかし屋敷に戻ったら、また――」イオアンは心配そうな顔をする。
「そんなことにはならないよ」
エルが寂しそうに微笑んだ。
「あんたは見てないけど、あいつらはブケラトムの凄さを、自分の目でしっかり見てるんだ。今度こそは大事にすると思うよ」
「しかしな――」
悩ましげに顔を曇らせるイオアンを見て、エルが怪訝な顔をした。
「何か、問題?」
「やはり、私としては、おまえにブケラトムに乗ってもらいたいんだ」
「なに言ってんのさ」
エルは戸惑っている。
「俺だってそうしたいよ。でも、できなんだから、仕方ないじゃん――」
イオアンは思い詰めた表情を浮かべた。「そこは、私が何とかしよう」
「何とかするって――」
「エル、考えてみてくれ」
イオアンは真剣な顔で問いかけた。
「もし、セウ家の者たちがブケラトムを屋敷に連れて帰り、ちゃんと世話をして元気になったとする。そのあとはどうなる?」
「そのあと?」
「騎士たちがブケラトムの能力を再確認したら、次に進むのは、軍馬としての再訓練じゃないのか?」
「――そうかしれない」
「ルベルマグナが戦場であれほど狂暴だったのも、いつも不安定な精神状態でいるように仕向けられていたからだ。ブケラトムがセウ家に戻ったら、父親と同じ運命をたどることになる――それが幸せだとは、とうてい思えない」
「――うん」
「だから、私は、おまえにこのまま乗ってほしい」
「俺だって、そう思うけどさ――」
イオアンは立ち上がって伸びをすると、窪みの端に手をかけ、外の風景を眺めた。
「そろそろ、夜が明けそうだな」
太陽はまだ登っていないが、山並みが明るくなってきている。鳥たちのさえずりが聞こえ始め、空気はひんやりと心地よい。イオアン深呼吸すると、これからやろうとしていることを、頭のなかで繰り返した。
だが、何度繰り返しても、同じところで止まってしまう。その先が上手くいくのを思い描けなかった。
とにかく、やってみるしかない。
こんなことは書物にも書いてないんだから――。
イオアンは振り返ると、エルの前で跪いた。
「短剣を貸してくれないか」
「短剣!?」
「さっき持ってただろう」
「持ってるけど――」
エルは、イオアンの強張った表情が気になった。
「いったい、何に使う気だよ?」
「私の本気を示すために使用する」
「本気って、なんのさ?」
「もちろん、お前たちをここから逃がすことだ」
「逃がすって――そんなことできるのかよ」
「それは、やってみるしかない」
イオアンは唇を噛んだ。
「どうなんだ。おまえだって、ブケラトムを連れていきたいんだろ?」
「そりゃ、もちろん」
「じゃあ、早く渡してくれ」
エルが、イオアンの真剣な表情に負けたのか、腰から鞘を外して渡した。受けとったイオアンは立ち上がると、ククルビタに声をかけ、鞍に跨った。
「どこに行くんだ」驚いたエルが訊いた。
「下に降りるしかないだろう」
イオアンは馬上から、座り込んでいるエルに答えた。
「上から様子を見ていろ。私が上手くいってそうに見えなかったら、申し訳ないが、ブケラトムを置いてひとりで逃げてくれ」
イオアンは窪みから出ていこうとしている。
「何をするつもりなんだよ!」
エルが立ち上がり、声をかけた。
だが、イオアンは手を上げると、窪みから出て、そのまま石切場の底へ降りていってしまった。立ち尽くしているエルの足もとを、ポカテルがすり抜け、全速力でイオアンの後を追いかけていった。
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