救い主が〈暁の盗賊団〉について語り、セウ家の騎士たちに立ち向かったすえに、とうとうエルが心を開いたこと
第23話
「エル、そこにいるんだろう?」
イオアンは恐る恐る声を出した。
石切場の四層目、大理石の壁の窪みの外にイオアンはいる。
窪みに入る勇気は持てなかった。
返事はない。
イオアンはあたりを見回した。
白い大理石でできた巨大な石切場は、ときおり、冷たい夜風の音が聞こえる以外は静まりかえっている。石切場の底は、冥界のように真っ暗だ。焚火の灯りだけが、ちらちらと揺れているのが見える。
ここに、本当にエルはいるのか?
イオアンは、窪みの前で立ち止まっている、猟犬のポカテルに目をやった。
ポカテルは、自信ありげにイオアンを見上げている。
後ろにいる、荷馬のククルビタが鼻を鳴らした。
それ以外は、相変わらず静かなままだ。
「おまえの鼻も鈍ってきてるのかな」
やれやれとイオアンは腰を屈め、ポカテルを撫でた。
「ここには、いないみたいだ」
立ち上がり、前へ進もうとしたイオアンは、突然、襟首を掴まれ、窪みの中に引きずり込まれた。
「騒ぐな」
後ろから押し殺した声。
鋭いものが、イオアンの脇腹に押しつけられる。
「騒いだら、あんたの脇腹を引き裂くぞ」
「エル、私だ。イオアンだ」声が上ずった。
「分かってるよ」
「だったら手を離してくれ、息が――」
「なんで、ここに来た」
「なんでって、お前を探しに――」
「嘘をつくな。俺を捕まえに来たんだろう」
「そうじゃない。助けようとして――」
「じゃあ、なんでセウ家の連中は、俺を追いかけてくるんだ?」
「それは、おまえが――」
「おかしいだろ。あんたはブケラトムのことなんか、誰も気にしないって言ってたじゃないか。なんで必死に取り戻そうとする?」
「想定外のことが――」
「俺の正体を知ってるのは、あんたとあのドワーフだけだ。あんたが教えたんだろ」
「まさか! そんなことをしたら私が捕まる」
「最初から、
「何のためにだ? おまえを罠に
「けど、じゃあ、なんで――」
「まずは私の話を聞いてくれ。それから、おまえの好きにすればいい」
エルが手を離すと、イオアンは苦しそうに体を折り曲げた。ようやく息がつくと、顔を上げて窪みを見回した。イオアンはエルフなので暗視の力がある。さして奥行きのない窪みの中を見通すことができた。
「ずっと、ここに隠れていたのか」
「早く説明しろよ」
「それより、まだ外に馬と犬がいるんだ。中に入れてもいいか」
エルが頷くと、イオアンは窪みの外に出て、ククルビタとポカテルを中に引き入れた。馬たちと犬は、馬小屋で同房だった旧友の臭いを嗅ぎあっている。イオアンはブケラトムの頭を愛おしそうに撫でた。
イオアンは、エルのほうへ振り返った。
「ずいぶん元気そうだ。凄いな、おまえは」
「どうでもいい。分かってんのか?」
エルが鋭い口調で短剣を掲げたので、イオアンは溜息をつくと、ブケラトムから離れ、エルの前を通り過ぎた。顔を覆っているヴェールの隙間から、エルの目が自分を追っているのを感じる。
「疲れた。座らせてもらう」
エルの返事を待たずに、イオアンはよろよろと床に座り込むと、窪みの壁にもたれかかった。冷たい汗をぬぐう。発作が起きないか心配だった。
エルが、イオアンを見下ろしている。
「それで?」
「それでだ――」
イオアンは息を整えた。
「まずは、どうして騎士たちが、すぐにおまえを追いかけたかだが――」
「騎士? あいつらは騎士なのか?」
イオアンは頷いた。
「セウ家の、血気盛んな騎士と従士たちだ。それと――」
「オウグスと、アルケタもいるのか」
イオアンは、エルを見上げた。
「よく分かったな」
「名前が聞こえた。それで――」
「そうだな。アルケタ様に命じられるのは
「それで、なんでばれた?」
「おまえの変装は完璧だった。屋敷の者は完全に
「だっておかしいじゃん、ブケラトムは――」
「ブケラトムの不在が問題だったわけじゃない」
イオアンは首を振った。
「『伯爵夫人』が、ブケラトムに跨っていることが問題だった。ブケラトムが非常に問題のある馬なのは、屋敷の誰もが知っている。おまえを見送った侍女たちは、その癖のある馬で遠乗りに出かけた奥方を心配して、執事を通して伯爵様に報告したんだ。その騒ぎのなかで、奥方はずっと自室にいて、何者かが盗んだドレスで変装し、逃亡したことが明らかになった」
「そうなのか――!」
「あの時は、私もそこまで頭が回らなかった」
「それで、騎士たちが?」
「いや、それはまた別の話だ」
「別の話?」
「仮に、
「よく分かんないんだけど?」
エルは眉を寄せた。
「だって、俺のことなんて誰も知らないはずじゃん。追ってくる理由がないだろ」
「おまえが指摘するとおりだ」
イオアンは頷いた。
「もし、ブケラトムを盗んだのが、おまえだと分かっていればな。だが、セウ家の者はそう思わなかった。別の人間が、奥方の変装をしていると想像した。だから、騎士たちが大挙しておまえを追ったんだ」
「別の人間?」
疲れたように息をつくと、イオアンはどう話したものかと考え込んだ。
「おまえを、ヤヌス神殿の市場で捕まえたとき、牢獄に連れていけと命じたのを覚えているか」
「ああ。処刑人が待ってるって脅された」
「その話は嘘じゃない。総督府が処刑人ギルドに助力を打診したんだ。おまえも知ってるとおり、処刑人たちは世間から距離を置かれている。そんな彼らに、囚人を尋問するためとはいえ、正式な要請をしたというのは極めて異例なことだ」
「じゃあ――」
エルの顔に恐怖の色が浮かんだ。
「もし、セウ家の連中が俺を捕まえたら――」
「待ってくれ。話したいのはそこじゃない。処刑人ギルドに要請した理由だ」
「理由?」
「それが〈
あっとエルが声をあげた。
「名前は覚えてるけど、そいつらって何者?」
「おまえは、本当に知らなかったんだな」イオアンは興味深そうな顔をした。
「俺がこっちに来たのは、最近だし」
「正式には、彼らは〈深淵の暁の盗賊団〉と自称している。三年ほどぐらい前から、イグマスでその名を知られるようになった。それ以前の経緯はまったく分からない。彼らが盗むのは大金とは限らず、どちらかといえば風変わりなものだ。
ある貴族の屋敷で飾られていた秘密の裸婦像、自分が殺したと大商人が自慢していたゴブリンの頭蓋骨、老騎士が戦場で名を上げたときの折れた槍、大寺院で奇蹟の徴とされていた聖人の干からびた右手――どれも他人にはさして価値がないが、本人には大きな意味を持つものだ。
〈暁の盗賊団〉はそういうものを盗み出し、イグマス市民の前に
標的にされた者は顔を真っ赤にして、総督府に奴らを捕まえろと圧力をかけた。西と東との対外戦争で忙殺されている総督府としては、そんな珍品を盗まれたところで、盗賊団のことは放っておきたかったのだが、聞こえてくるイグマス市民の評判に、そうも言ってられなくなった。
貧しい者たちを中心に〈暁の盗賊団〉への称賛は日増しに高まり、それを放置している総督府への風当たりも、無視できないものになっていた。そこで、イグマスの治安を担う
そんな総督府を嘲笑うように〈暁の盗賊団〉は犯行予告まで出すようになった。近々どこかの屋敷に押し入ると、イグマスの城壁に落書するんだ。金持ちは戦々恐々として、傭兵を雇い、厳重に戸締りをするが結局、イグマスのどこかで、彼らは捕まらずに盗みを働いてみせた。
いっこうに改善しない状況に、焦りを感じた総督府の一部の役人は――このあたりは白亜宮内部での政治が絡んでいるから、詳しい話は割愛するが――まわりの反対を押し切って、牢獄塔で捕まっている盗賊たちを尋問するのに、処刑人たちの『技術』を採用することを決定したんだ。
いまのところ、あまり芳しい成果は出ていない。とにかく〈暁の盗賊団〉とはそういう者たちだ」
「へえ」エルは目を丸くした。「俺だって応援しちゃいそうだな」
「いまのところ、ひとつだけ手掛かりがあると言われている」
「〈暁の盗賊団〉の?」
「ああ。それは処刑人の尋問からではなく、被害者たちの聞き取りから、アルケタ様が掴んだことだ」
「アルケタ?」
エルは怪訝な顔をした。
「セウ家のアルケタと何の関係があるんだ」
「いまアルケタ様は、イグマスの巡察隊を束ねる地位にある。調査には関わらないが、事件があれば、まず現地に
「それで?」
立って聞いていたエルは、イオアンの反対側に壁を背にして座り込んだ。
「彼らは、何らかの魔法のようなものを使うらしい。催眠術のようなもので記憶をなくしてしまう。そのあいだに楽々と盗みを働くわけだ。ある貴族は著名な魔術師に依頼したが、その魔術師すら対抗することができなかった。その魔法を使うのは盗賊団のなかで、ただひとり。その者が他の盗賊に指示している。そして、被害者たちは気を失う前、その人物の印象を薄っすらと覚えていた――」
「それが手掛かりか」エルが身を乗り出す。
「魔法をかけたのは、小柄な女性――可愛らしい声を出す少女といってもいい若い娘だったらしい。彼女の恰好は様々で、ローブを被っているときもあれば、町娘のような恰好のときもある。だが、彼女の顔を思い出そうとすると、そこだけは霧がかかったようになり、被害者たちはどうしても答えられなかったそうだ」
「謎めいているな」エルは目を輝かせた。
「たしかに謎めいている。イグマスの金持ちだけを狙い、屋敷から、あまり価値のない風変わりなものを、大胆不敵に盗み出す若い女盗賊――」
「それってもしかして――」
目を見開いたエルを、イオアンはじっと見つめた。
「そうだ。おまえは〈暁の盗賊団〉の女首領と勘違いされたんだ」
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