第20話 

峠道を降りると、山に挟まれた谷底を走っている細い街道に、出た。

この街道は、属州ヌガティアまでつながっているはずだ。〈陰の街道ウィア・ウンブラ〉ほどではないが、峠道よりはずっと走りやすい。

ブケラトムは一定の速度で走り続けた。まだ耳はしっかりと立っている。体力が残っている証拠だ。


しばらくすると、はるか後方に、セウ家の馬たちが現れた。

十頭ほどが、間隔をあけて追ってくる。

残りは脱落したのか、後から追いかけてくるのか、ブケラトムとの距離を詰めることもなく、同じぐらいの速度を保って走っている。


エルは何度か後ろを振り返りつつ、見えたものを、ブケラトムに話しかけた。


ブケラトムを急がせる気はなかった。

もう、覚悟はできている。

逃げるのも捕まるのも、完全にブケラトム任せだ。

それにしても、セウ家の軍馬たちが追いついてこないのが不思議だった。

また逃げられと思っているのか、それとも、足場の悪い峠道でけっこう体力を消耗したのか。

エルは首を振った。

たぶん、そうじゃない――。


おそらく、持久戦――。

ブケラトムの体力が、尽きるのを待ってるんだ。


向こうには、大きな軍馬が何頭もいる。

そして、ここからしばらくは、どこへも逃げられない一本道だ。

俺たちが自滅するのを待っている、伯爵家コメスらしい、無理をしない戦い方なんだろう。

そうなると勝負は、隠れ家までブケラトムの体力が持つかどうかだ、そこまで逃げ切れるかどうか――。


そこで、エルは凍りついた。

いや、それじゃ、駄目なんだ――。



このまま、自分が捕まらなくても、首なし騎士団トリステロの隠れ家に、セウ家の男たちが殺到するなんていう事態だけは、避けなくてはならない。


あの隠れ家は、俺たちだけのものじゃない。

帝国の各地を放浪している、それぞれの仲間が使う、騎士団すべての共有物だ。

それを皇帝に近いタタリオン家の、その中でも、最も力のあるセウ家の者たちに知られたりしたら、隠れ家の意味がなくなってしまう。

カルハースたちにも、首なし騎士団の他のメンバーにも申し訳がたたない。

そうなるぐらいだったら――、


――俺は死んだほうがいい。

エルの背中を、冷たい汗が流れた。


まず、後ろの奴らをかなくちゃ。

エルは考えたが、どうすればいいか分からない。


左側は山が迫り、右側には深い川が流れている。

この街道はしばらく一本道だ。分かれ道や抜け道はない。どんなに離れていても、セウ家の連中が、俺を見失うことはないだろう。

夏空では太陽が傾きかけ、谷底の道は陰になりかけている。

日が落ちたら、どこかに隠れられるのかな? 

だが、エルは確信が持てなかった。

暗くなればなるほど、人間の自分より、夜目よめのきくエルフたちのほうが、有利になるはずだからだ。


ああ、どうしたらいいんだ!

エルは必死に考えた。

答えを求めて顔を上げた瞬間、エルに目に、輝かしい天空の神ユピテルの姿が映った。


これは、比喩ではない。

街道の向こうに、巨大なユピテルの石像が立っていたのだ。威厳に満ちたその顔を、西日の光がオレンジ色に染めている。


エルは思い出した。

まもなく通る峠のふもとに、大理石を運ぶための船着き場があったことを。

それが、あのユピテル像の場所だった。

そこから、山奥へつながる細い道もあったはずだ。

後ろを振り返ると、川沿いの道は蛇行しており、山に遮られて、追ってくる馬たちの姿は見えなかった。


エルは、ブケラトムを船着き場に立ち寄らせると、ユピテル像の後ろに隠した。

エルも降りて、石像の両足の隙間から、街道の様子をうかがう。速度を上げて駆けてくる馬上の男からは、自分たちの姿は見えないはずだ。

エルのまわりには、四角く切り出された大理石、裸のなまめかしい美の女神ウェヌス像や、頭から蛇が生えているメデューサの彫像、彫刻がされた美しい立柱などが置かれていたり、横倒しになっていたりした。


ブケラトムの耳が立った。注意を街道に戻す。


やがて、ひづめの音が聞こえてきた。


その音はだんだんと大きくなり、ユピテル像に隠れたエルの前を、五頭の軍馬が地響きと、土煙を巻き上げながら駆け抜けていった。しばらくすると、また数頭が駆け抜けていき、それが何回か続いた。

最初のうちは数えていたエルだが、最後には分からなくなってきた。おそらく二十頭近いだろう。結局、一頭も脱落しなかったのだ。


最後の馬が、峠道へ消えていったのを確認すると、エルはほっと息をついた。


なんとか、撒くことはできた。

今夜はどこかで夜を明かして、明日の朝にでも隠れ家に帰ろう。


エルはブケラトムに跨ると、川に近づいていった。

山陰で暗くなった水面みなもに、西日が差している。

この前の嵐のせいか、流れは速い。船着き場には誰もおらず、大理石を乗せられるような幅の広い平底船が、三艘さんそうつながれていた。


この船に乗って、川を下っていったらどうだろう?

完全に、あの連中を出し抜くことができる。

いずれ、海に流れ着くはずだ――。


いや、とエルは首を振った。

この先、どんな急流が待ち構えているか分からないし、自分は舟を操ったことがない。それに、ブケラトムを乗せたら不安定になるだろう。


船着き場から、細い道が川沿いに続いている。

あたりは暗くなってきているが、この道は大理石の粉のせいか、雪が積もったように白くて、明るい。

エルは、ブケラトムを白い道へと進ませた。

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