第19話 

橋を渡ったエルは、ファッシノ川沿いに〈陰の街道ウィア・ウンブラ〉を北上した。一度、ブケラトムを土手に登らせ、茂みに隠れて下流を眺めた。この頃には、ある程度なら、ブケラトムは、エルの手綱たづなに応えてくれるようになっていた。


目に映った光景に、エルは絶望した。

遠くに見える木橋を、セウ家の馬たちが一列になって渡っている。

まだ追いかけてくるのかよ――。


同じタタリオン公国を構成しているとはいえ、ファッシノ川を渡った先にある属州イオミアは、ヨアキム伯爵家が治める土地である。セウ伯爵家の者たちは遠慮して、ブケラトムを諦めるのではないかと、エルは期待していたのだ。


いったい、どこまでついてくるつもりなんだ。

ブケラトムを取り戻すまで?

それとも、隠れ家まで?

エルは重たい気分で、ブケラトムを街道へ戻らせた。


だが、意気消沈してばかりもいられない。エルはブケラトムの背に揺られながら、この先の分かれ道で、とちらを選ぶかを考えていた。


ひとつは、このまま〈陰の街道〉を北上して背骨山脈に入り、ヨアキム伯領の中心部の手前で別の街道に乗り換え、西へ向かうルート。

山の中だが、街道は整備されているし、定期的に兵士たちが巡回しているから、山賊や魔物に襲われる心配は少ない。エルも何度も通ったことのある道だ。だが、かなり迂回するので、隠れ家に到着するのは遅い時間になるだろう。


もうひとつは、ファッシノ川沿いに東へ進むルート。

途中で〈陰の街道〉から離れ、険しい峠道を越えることになる。エルは、峠道が街道につながっているのを知っているだけで、峠道自体は使ったことはない。どんな道なのか噂にも聞かないが、エルは峠道を選ぶことにした。

彼らは猟犬を連れていない。セウ家の男たちがエルを見失い、間違って〈陰の街道〉へ進むことを期待した。


〈陰の街道〉を離れると、ファッシノ川沿いの道はしだいに狭くなり、やがて川からも離れて、上り坂になった。木々が生い茂り、空気はひんやりと涼しいが、見通しは悪い。下から川のせせらぎの音が聞こえてくる。


数日前の嵐で、ところどころ山肌が崩れ、木が根こそぎ倒れていた。

峠道もぬかるんでおり、路肩は崩れている。

だが、ブケラトムは足場の悪い箇所も、苦にすることもなく、ずんずんと登っていく。これが体の大きな軍馬だと、かなり苦労するはずだ。

がっしりとしたブケラトムの強靭な足腰は、山育ちの母親譲りなんだろう。感謝しなくちゃ――とエルは思った。


九十九折つづらおりの山道をかなり登ったところで、道を横切るように、岩肌から清水が流れ落ちていた。エルはブケラトムを止めると、水を飲ませることにした。鞍から降りると、ブケラトムの頭を撫で、よく頑張ったとねぎらった。


峠道の端、崖になって落ち込んでいるところまで、エルはにじり寄ると、細い木を掴んで下を見下ろした。

だが、鬱蒼うっそうとした茂みに視界を遮られ、よく見えない。峠道が見下ろせるところを探して、エルは慎重に山肌を降りていった。

しばらくすると視界が開けた。

はるか下に見える峠道を、馬たちが一列になって登っているのがエルに見えた。

やっぱりだ――。

エルは泣きたい気分で、切り株に腰を下ろした。


まだ、ずいぶん下だから、距離は稼げている。

でも、ブケラトムは頑張ってるけど、いずれ体力は尽きる。ここまで走り切ったのが、奇跡みたいなもんなんだ。

峠道が終って街道に出れば、速さが鍵を握る。

いずれ、体力が残っている軍馬たちに追いつかれる。たぶん、隠れ家まではもたないだろう――。


見捨てた馬じゃないのかよ。

エルは頭を抱えた。

どうして、そんなに必死に追いかけてくるんだ。


しばらくして、ハッとエルが顔を上げた。

そうだよ――。

狙われてるのは、ブケラトムであって、俺じゃない。


エルは、おかしくて笑いだした。

なんで、こんな簡単なことに気づかなかったんだ!


エルは峠道を見下ろした。

もう馬たちは見えなくなっていた。さらに上へ登ったのだろう。

エルは切り株から立ち上がった。

ブケラトムを見つけたら、あいつらは引き返すはずだ。それまで森で隠れてやり過ごそう。遠くから見張れるところを探さなきゃ。

エルは斜面を登った。


だが、ブケラトムと別れた場所から離れているうちに、エルは方角を見失っていた。すでに、もう戻ってもいいはずだったが、深い森の中はどれも同じように見えて、エルには見当がつかない。空を見上げても、かしの木の枝の隙間から、わずかに光が漏れてくるぐらいで、太陽の位置は分からなかった。


町育ちのエルは、森の中をひとりで、長い時間過ごしたことはない。じわじわと不安がこみ上げてくる。時間が止まったような、静かな森の中を歩いていると、遠くから狼の遠吠えが聞こえてきた。

長く引き延ばされた哀しい鳴き声が終わると、それに応えるように、別な方角からも何頭もの狼の遠吠えが聞こえてきた。

狼に囲まれている?

いや、ただ連絡を取り合ってるだけかもしれない。

狼の遠吠えには、いくつか種類がある。

そのことを昔、ダマリが教えてくれた――その記憶を思い出す余裕もなく、慌てたエルは落ち葉に足を取られ、山肌をずるずると滑り落ちていった。


幸いマントが枝に引っかかり、谷底まで落ちることはまぬがれた。立ち上がったエルは確かめたが、上質な純白の絹のマントは、セウ家の紋章のところで、びりびりに引き裂かれていた。これ以上羽織っても仕方がない――そう判断したエルは、留め金を外し、マントを脱ぎ捨てた。


また、狼の遠吠えが聞こえた。

そのあと、訴えるような馬の鳴き声が聞こえた。

あれは、ブケラトムだ!

何度も聞こえてくる、その声を頼りに、エルは上を目指した。


峠道に姿を現わしたエルに、鳴き声をあげながらブケラトムが駆け寄り、鼻面はなづらをこすりつけてきた。エルはブケラトムに、ごめんよと謝った。

帰りかたを見失っちゃったんだ――。

ブケラトムの体を撫でながら、エルは、これからどうしようかと考えている。


ブケラトムを置いていくか、それとも、一緒に逃げるのか――。

ブケラトムには、どっちが幸せなんだろう?

たぶん、連れ戻されたとしても、ブケラトムは前のように、見捨てられることはないような気がした。セウ家の軍馬相手に、あれだけの走りをしたのだ。騎士たちが放っておくことはないだろう。


けど、それよりも――。

エルは、ブケラトムの体に頭を押しつけた。


俺は、こいつが欲しい。

こんな馬は、見たことがない。

本当に、ルベルマグナの血を引いてるかは分からないけど、凄い馬なのは確かだ。

もっと元気にして、乗りこなしてみたい。


そのためには、隠れ家まで戻らないと――。


そう決断したエルは、飛び上がるようにしてブケラトムの背に跨ると、ブケラトムを走らせた。もう少しで、見晴らしのいい尾根に出るはずだった。

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