第18話 

――そんなはずはない。

そんなすぐに、ブケラトムがいなくなったことに、気づくはずがない。

じゃあ、この変装がばれたのか?


そんなことをエルが考えているうちに、背後では、無数の石畳を叩くひづめの音が近づいてきた。もう一度振り返ったときには、先頭の乗り手の顔までエルに見えた。エルフらしい若い男だった。


「止まれ! 女盗賊」若い男が叫んだ。「止まらないと射るぞ!」


女盗賊だって!!

エルは真っ青になって前を向いた。

ということは――、

俺のことを、伯爵夫人の変装をしてる女だと勘違いしてるんだ!


どうする?

相手は弓を持ってるし、多勢に無勢、逃げられはずがない。

このまま、捕まるしかないのか?


必死に考えているエルの耳もとを、鋭い音と共に矢がかすめていった。


パニックになったエルは、

「行け!」

と叫ぶと、ブケラトムの脇腹をかかとで激しく打った。


すると、いままでゆっくり走っていたブケラトムは鋭くいななき、背中のエルを振り落とそうとするかのように、街道上で暴れはじめた。

ブケラトムは、その場で何度も飛び跳ねた。エルは手綱を握りしめ、激しく上下する馬の背から振り落とされまいとする。まわりの〈陰の街道ウィア・ウンブラ〉の旅人たちが、怖れをなして遠くへ逃げていった。


その頃には男たちが追いついた。

近くで馬を止めると、曲芸のように乗りこなそうとしているエルを見物する。

ブケラトムが飛び跳ねるたびに、白いドレスがふわりとめくれ、エルの太腿ふとももが露わになりかけた。卑猥ひわいな言葉を投げかける者もいた。


ようやくブケラトムが落ち着き、また、ゆっくりと走りだした。


ずり落ちそうになったエルは、何とか態勢を立て直した。疲労困憊ひろうこんぱいして、ブケラトムの首にしがみつくように跨っている。距離をおいて、男たちを乗せた馬も追走する。後ろから若い男の警告が聞こえた。


ブケラトムを止めろと命じているようだ。

だが、エルは手綱を引けば、振り落とされそうで、怖くてできない。


弓が音をたてて近くをかすめた。


あくまで威嚇いかくするためで、狙いを外しているのだが、思わずエルは首をすくめた。ブケラトムを急がせれば、また暴れだすだろう。もう、どうすればいいのか――エルは頭が真っ白になっていた。


後ろから、しわがれた低い声が聞こえた。

「アルケタ、女は生け捕りにするのだ」


アルケタだって!

馬上のエルは目をみはった。

あの若い男は、セウ家のアルケタなのか!


だとしたら、あの男たちはセウ家のエルフということになる。そして彼らに命令している、しわがれた声の持ち主は、もしやオウグス・セウなのでは――。


南大陸ノウェミアで幼い頃から聞かされた、恐怖の代名詞であったその名前に、エルはぶるぶると震えだした。自分の体が言うことをきかない。いっぽう、ブケラトムは、まわりの馬たちなど気にせずに走り続けている。


その頃には、セウ家の男たちはエルを生け捕りにすべく、街道上を横に広がってブケラトムに並走し、さらには、その先を行こうとした。


ところが、のんびりと走っているブケラトムを、セウ家の軍馬が追い抜こうとすると、ブケラトムもわずかに速度を上げた。セウ家の男が速度をさらに上げると、ブケラトムもまた速度を上げる――。

馬たちはブケラトムに引っぱられて、常歩なみあしから速歩はやあし、速歩から駈歩かけあしへと速度を上げていった。しかし、いまだにブケラトムを追い越せていないでいる。


「女盗賊め、愚弄ぐろうする気か!」後ろから男が叫んだ。


怯えているエルは、振り向くこともできなかった。

事態が掴めていない。

なんで、まだ俺は捕まっていないんだ?

跨っているブケラトムはどんどん速度を上げている。

エルの目に、街道の脇によけて驚いている旅人たちの顔が映る。

蹄の音が小さくなったので、恐る恐るエルが振り返ると、後ろに見えるセウ家の軍馬たちを、ブケラトムはかなり引き離していた。


エルは驚愕きょうがくした。

「おまえって馬は、なんて――」


凄い馬なんだ――とエルが呼びかけようとしたとき、ブケラトムの速度が、みるみるうちに下がっていくのが分かった。


「もう、力尽きたのかよ!」

エルは振り返った。


セウ家の馬が近づいてきている。

どうせ無理なら、余計なことをしないでくれよ――エルは絶望した。大人しく捕まらなかったことで、エルの印象はより悪くなったはずだ。


捕まったらどうなるのか。


男たちの前で、ドレスを脱がされるだろう。

エルが女じゃないと知った男たちは、どんな反応をするのか。

裸になったエルのことを笑い者にするだろう。そのことを想像すると、エルは恥ずかしさのあまり体がかっと熱くなった。


いっぽう、ふたたびブケラトムに追いついた男たちは、今度はブケラトムを左右から挟み込む役と、さらに大外から先行する役に分かれた。速歩のブケラトムに並走する男が、エルに長い手を伸ばしてきた。


「女盗賊よ、おまえはもう終わりだ!」


エルが身体を反らして、男から逃れようとすると、反対側を並走する少年のようなエルフが、風にたなびくエルのドレスを掴もうとした。


「女よ、僕のものになれ!」


エルのドレスがふわりとすり抜け、少年が伸ばした手は宙を掴んだ。ふたたびブケラトムが速度を上げ、セウ家の馬たちを引き離したのだ。


「やめてくれ!」

エルはブケラトムに懇願した。

「おまえが遊ぶと、俺の罪が重くなるだけなんだ」


しかし、耳を貸さないブケラトムは、そのままぐんぐん速度を上げ、またセウ家の馬たちをはるか後方へと引き離した。


背骨山脈へまっすぐ北上する〈陰の街道〉を、先頭をきる一頭の小柄な馬が、純白のマントをはためかせる女を乗せて疾走し、さらに十馬身ほど遅れて、軽装の男たちを乗せた二十頭ちかい馬が追いかけている。旅人たちは目を丸くして、街道脇に避難してこの追走劇を眺め、街道のまわりには風に揺れる金色の小麦畑が広がり、その東側をこの前の嵐で増水しているファッシノ川が滔々とうとうと流れていた。


ブケラトムの速度は、依然として落ちていない。


振り返って確かめたエルは、もしかしたら、このまま逃げ切れるのではないかと、淡い期待を抱いた。後ろの馬群とはけっこう離れている。

セウ家の先頭を走るアルケタらしき若者が、エルに向かって叫んでいた。

気をつけろ、関所が来るぞ。


そうだ。エルは思い出した。

このまま北上すれば、ファッシノ川を越える橋があり、そこは関所になっている。

川を渡れば、そこはもうヨアキム伯領だ。

さすがにセウ家の連中も――。


関所?

エルは前を向いた。


〈陰の街道〉の前方に、道をふさぐように関所があり、ブケラトムはぐんぐんと近づいていた。それを見て、わらわらと旅人たちが左右に逃げまどい、両手を広げた関守がひとり、街道に置かれた柵の前に立って、エルに止まれと合図している。


止まれないんだよ!

エルは叫びたかった。

手綱を引けば、またブケラトムは暴れだすに違いない。


ブケラトムは速度を落とさず、関所に向かって走り続ける。

このままじゃ柵に激突する!

エルは思わず目を閉じ、身を固くした。


ブケラトムが跳んだ――。


前脚をきれいに折り畳んで、関所の柵を軽々と飛び越えた。

その下では、関守がうずくまっている。


飛び越えたブケラトムは着地すると、しっかりと踏ん張り、関所の壁の前で急停止した。エルは前に投げ出されそうになり、何とかブケラトムの首にしがみつく。ブケラトムはそのまま関所の中を通り抜けた。


ファッシノ川に架かる木橋の上に出た。


幅の狭い木橋は、三つの緩やかなアーチが続く構造になっている。

木橋の板を叩く、軽快な音をたててブケラトムが進んでいき、ひとつ目のアーチの頂上にかかったところで、雷が木に落ちたようなもの凄い音が後方から、次々に聞こえてきた。


ブケラトムが立ち止まり、驚いたエルも振り返った。


関所では、柵を越えられなかった馬が倒れていたり、また、それを避けようとして壁に激突した馬が横倒しに折り重なっていた。

馬たちの甲高いいななきと、男たちの苦痛に満ちた怒声が聞こえてくる。後から来た者たちは負傷者を助け出そうと、関所は大混乱に陥っていた。


木橋のアーチの上から、関所の惨状を眺めているエルに気づいた男が、エルに向かって拳を振り上げた。

気づいたエルは前を向くと、ブケラトムにゆっくりと橋を渡らせた。これ以上、セウ家の男たちが追ってこないことを祈りながら。

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