第三章
ブケラトムを盗み出したエルがイグマスから脱出し、男たちに追い詰められ、ドワーフの石工たちに助けられたこと
第17話
馬房を出たブケラトムが、エルを乗せ、軽やかに歩いている。
丘の上にあるセウ家の屋敷は、敷地の左に石造りの巨大な〈塔〉、右は切り立った崖になっており、そのあいだ――オレンジが実る果樹園、軍馬のいる厩舎、大きな穀物倉庫、
屋敷の者たちが、目の前を通り過ぎる、純白のドレス姿の奥方様に向かって、
エルは馬上で背筋を伸ばし、視線を動かさずヴェールの隙間から、彼らの様子を見下ろしていた。
輝く鎧に身を包んだエルフの騎士、そばに控える若い従士、たくさんの人間の兵士たち、屋敷の使用人、馬丁、ドワーフの鍛冶屋、浅黒い肌の奴隷らしき者たち、美しいドレスをまとった侍女たち――近づくと彼らは静まりかえり、通り過ぎると、後ろから
エルは、馬上で震えていた。
セウ家の連中が、この俺に頭を下げてる!
晴れがましいとか、復讐心が満たされるとか、そんなものではなかった。
怖ろしいような、頭から痺れるような感覚――エルは大声で叫びたくなるのを、何とか
遠くに見えてきた門に、エルは意識を集中した。
手綱を握りしている両手を緩ませ、ブケラトムが自然に進むのに任せた。
ブケラトムは何事もないかのように、極めて落ち着いた様子で、大勢が見守るなかを歩いていている。しっかりした足どりにイオアンは安心した。ブケラトムは攻撃的かもしれないが、そこまで神経質ではないのだ。自分の思いどおりにできれば、怯えることもなく、堂々としている。
門が近づいてきた。
門番も頭を下げている。
エルは視線を動かさず、そのまま、セウ家の門をくぐり抜け、屋敷を後にした。
とうとう、出れた。
もう、これで誰も見ている者はいない――。
息をすることも忘れていたエルは、ようやく、ゆっくりと息を吐いた。
イオアンが忠告したとおり、まだ〈塔〉の上から見張っているかもしれない。エルは速度を保ったまま、ゆったりと長い坂道を下っていった。
小さな川に突き当たると、ブケラトムは、ポプラの並木道を右に曲がった。エルはちらりと丘の上の〈塔〉へ目を向けたが、叫び声があがるとか、
これで、本当に屋敷から出れたんだ――。
極度の緊張から解放され、エルは鞍の上で、へなへなと崩れ落ちそうになる。
だがエルは、自分を叱咤して前を向いた。
ドレス姿のエルに、並木道にいるイグマス市民が頭を下げているからだ。
イオアンの計画どおり、この変装でイグマスは出れそうだが、そのあいだ、そうとう注目を浴びることになりそうだ。手を振る小さな子供に、エルは頷いた。
伯爵夫人の役にも慣れてくると、ゆったりと進むブケラトムの上で、これからどうするか、エルに考える余裕がでてきた。
エルは、ヴェールの下でにやりとした。
イオアンは、
しかし、そうすることは滅多にない。
なぜかと言えば、たいていの町や村の住民たちは、トリステロを怖がるか、忌まわしい存在と考えているからだ。
皇帝に忠誠を誓わないから、山賊と同じだと考えているのか、それとも、馬と暮らすエルたちを、人間以下の獣のような存在だと思っているのか――。
町に泊るなら協力者の家か、町の外に天幕を張って野営する。だが普通は、隠れ家から町まで移動して、馬の取引をすることになる。
だからエルも、これから山中の隠れ家まで帰らなくてはならない。そのために強引にブケラトムを奪ったのだ。この馬がどれほど遅くても、徒歩よりはましだろう。来るときに宿屋に預けた馬は、あとで取りに戻るしかない。
隠れ家へは、南大門からのルートのほうが近い。
だが〈
なぜなら、取引に失敗した仲間が、新市街に逃げ込んでいるらしいからだ。
ワイン商の屋敷の位置から考えると、南北にある新市街のうち、広大な南側の新市街へ逃げた可能性が高い。そして、まだ巡察隊が探していることも考えられる。それでエルは、遠回りでも北大門から出ることにした。
〈陰の街道〉は、遥か昔に作られた軍用道路なので、帝国のどこでも道幅は広く、真っすぐである。そのため、どれほど道が混んでいても、馬上のエルには、街道の突き当りに、城壁を貫通する北大門がずっと見えていた。
あの北大門を抜けて、初めてエルは、イグマスから脱出できたと言えるのだ。
エルは、バルバドスに聞いた話を思い出した。北大門も、タタリオン家に従う五つの
それはセウ家なのか、それとも別の伯爵家なのか?
伯爵夫人をよく知るセウ家のほうがいいのか、それとも見破られやすいと考えるのか? エルに判断がつかないうちに、北大門が迫ってきた。
セウ家の屋敷のときのように、また、緊張が高まってくる。
今にも、心臓が喉から飛び出しそうだ。
北大門の前で引き返したくなるが、そんなことをしたら余計に目立ってしまう。
ドレスの中で大量の汗をかいているエルとは別に、ブケラトムは涼しい顔で北大門へと近づいていった。
南大門ほどではないが、北大門も旅人や荷車で混雑している。通り抜けるまでに、かなりの時間がかかりそうだ。南大門のときは、バルバドスの陰に隠れていればよかったが、今度はそうはいかない。
すでに、純白のドレスの伯爵夫人に気づいた数人の市民が、エルを見ては、頷きあっていた。とっくに衛兵たちは気づいているだろう。
南大門のかなり前から、イグマスから出ようとする者、入ろうとする者で、街道はごった返している。だが、伯爵夫人を乗せたブケラトムが近づくと、徐々に人混みが左右に割れ、エルの前に、南大門までの道筋が見えた。
伯爵夫人を知らない旅人を、市民が小突き、誰もが
改めてエルは、イグマスでのセウ家の威光に驚きながらも、そのあいだを静々とと進んでいった。これなら思いのほか、早く通り抜けれるかもしれない。
ところが、ひとりの子供が母親の制止を振り切って、エルのドレスに手を伸ばしてきた。すると他の者たちも、我先にとエルに近づき、触れようとする。
ブケラトムが
「控えろ!」
衛兵の叫び声で、まわりの者たちが動きを止めた。
衛兵たちが長槍を振り回して群衆を押しのけ、エルに道を空けた。
若く真面目そうな衛兵たちが、直立不動の姿勢でエルに頭を下げる。エルは彼らに頷くと、イグマス市民の歓声を受けながら、北大門をくぐり抜けた。
びっしょり汗をかき、興奮冷めやらぬ状態で、エルはイグマスの城壁の外に出た。
目の前には、北の新市街が広がっている。
その中央を〈陰の街道〉が突っ切っている。遥か向こうには、背骨山脈の山並みが望め、その上には、真っ青な夏空が広がっている。
もう昼もかなり遅い時間だ。このまま、ゆっくりとしたブケラトムの速度だと、山の中で日が暮れることも覚悟しなくては。
だが――、
とにかく、イグマスを脱出できた!
馬小屋を出て以来、初めて力を抜くことができた。
大きく息を吐くと、しばらく目を閉じて、エルはブケラトムの背に揺られていた。
北の新市街はすぐに終わるから、そうしたら田園地帯に入る。そこで、ようやく、この暑苦しいドレスを脱ぐことができる。
いつもの自分じゃない誰かになるというのは、癖になりそうな体験だけど、ほどほどにしたほうがいい。
このドレスを売ったら、どれほどの金になるだろう?
それとも隠しておいて、いつか結婚する娘にでも贈ろうか――そんなことを夢想して、しばらくエルは幸せな気分に
ブケラトムも痩せているから、いつ倒れるのかと心配していたけど、そんなことはなかった。よほど持久力があるのか、並外れた強い気持ちがあるのか。あの狭い馬小屋じゃなくて外を走れるのが、よほど嬉しいのかもしれない――。
よく頑張った!
ブケラトムの背中をさすっていたエルは、その耳が、ぴんと後ろを向いているのに気づいた。
どうかしたのか?
振り向いたが、とくに変わったところはない。
旅人たちが、普通に行き来していた。北大門もずいぶん遠くになっている。
まわりの風景は、数階建ての建物から低くなって、掘っ立て小屋のような粗末なものに変わっていた。家の前では煮炊きの煙があがり、裸の子供たちが遊んでいる。戦火を避けてきた、他の属州からの避難民かもしれなかった。
ブケラトムの耳は、まだ後ろを向いている。
再び、エルは振り返った。
〈陰の街道〉の向こうに、土煙があがっていた。
何だろう? まだ遠いけど、それなりの数の馬のようだ。ブケラトムはあれを気にしてるのか?
旅をしている
じゃあ、行軍中の騎兵隊?
ああいう連中には関わらないのが賢明だ。通り過ぎるまで、隠れていたほうがいいかもしれない――。
まわりを見渡すと、すでに新市街は終わり、一面の麦畑が広がっていた。収穫前の麦が、この前の嵐で倒れているものもある。遠くに農家が点在しているが、身を隠すような場所は見当たらない。なにより、
もう一度後ろを見ると、馬群はぐっと近づいていた。
エルの心の中に、初めて怯えが生まれた。
跨っているのは、騎兵じゃない。
もっと身軽な、狩りに行くような恰好の連中だ。
その数は――遠くで巻き上がる土埃にエルは目を凝らした――十頭以上。全速力で、こっちに向かってきている。ということは――。
あいつら狙いって、俺なの!?
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