第16話
イオアンは最後に、エルの頭に白いヴェールを巻いた。布地の隙間から、黒い目だけが
「息苦しいだろうが我慢してくれ。ここから、宿までの道順は分かるか」
「宿までの道順?」
ぽかんとしているエルに、イオアンが説明した。
「南側の新市街は、とくに迷路のようになっているからな。おまえたちが泊っている宿屋を教えてくれれば、目印になる建物を伝えられるが?」
「そうか。戻るのか」
エルは、着ているドレスを見下ろした。
「そのために、これを着てるんだもんな――」
まわりを見回したエルが、唐突に、
「ねえ、ブケラトムの
と訊くと、イオアンは不思議そうな顔で、
「しばらく使ってはいないが――」
柱に掛かっているブケラトムの馬装一式へ、顔を向けた。
「これかあ」
エルは手に取り状態を確かめると、それを抱えて隣の馬房へ移った。
エルはブケラトムに優しく話しかけながら、
エルの一連の動作を眺めていたイオアンが、
「いったい何のつもりだ」
「ちょっとさ――」
エルは横木に足をかけると、ブケラトムに跨った。
「遠乗りに出かけてくるよ」
「何だって!?」イオアンが訊き返す。
「いや、本当は――」エルは手綱を持ち直し、にやりと笑った。「このままブケラトムに乗って帰る。もう戻らないつもりさ」
「戻らないって――」
驚いたイオアンは横木を跨いで、隣の馬房に移った。
「ブケラトムは、どうするつもりだ?」
「どっかの農場にでも売るよ」
と言って、エルは首を傾げた。
「いや、もうちょっと元気にしてからかな。とにかく、いまより酷いことにはならないから安心して」
「そんなことが許されると思っているのか!」
イオアンは、馬上のエルに叫んだ。
「
「そうだろうな」エルは楽しそうに頷いた。
「遊びで言ってるんじゃない」
「もちろんさ」
エルも真面目な顔になって、下にいるイオアンへ説明した。
「もちろん分かってる。それしか、ブケラトムを救う方法がないからやるんだ」
エルの言葉に、イオアンは考え込んだ。
「そうだとしても、しかし――」
「――オウグスが許さない?」
と言葉を継いだエルが、鼻を鳴らした。
「許しなんか永遠に出ないだろ? 待っていたら、こいつは死ぬだけだぜ」
「だが、私は――」
イオアンは青ざめ、黙り込んだ。
「あんたに無理なことは分かってるよ。だから、俺がやる。俺が盗みだすんだ」
エルは馬房の外へ顔を向けた。
「屋敷の人間に、俺と一緒のところを見られてないんだろ。ブケラトムがいなくなったって、あんたのせいにはならないさ。それに――」
エルはイオアンに尋ねた。
「あんた以外、ブケラトムのことを気にしている人間が、この屋敷にいるのかよ」
「いや」イオアンが沈んだ表情で首を振った。
「だろ。しばらく誰も気づかないさ」
「だが、だが――」
イオアンは、突然の事態に気持ちが追いつかない。
「ブケラトムに、私は、もう二度と会えないというのか?」
「それは――」
エルは、訴えるような表情のイオアンを見ると、言葉に詰まった。
「仕方ない、諦めてよ。もしかしたら後で、行き先の農場を教えれるかもしれないけどさ――」
手綱を持つエルの腕を、イオアンがぎゅっと掴み、エルを見上げた。
「必ず、元気になるんだな?」
その表情に気圧されるようにして、エルは頷いた。
「――約束する」
状況を飲み込もうとするように、下を向いたイオアンが、しばらくして顔を上げた。
「馬小屋を出てからどうするのか、分かっているのか」
「――あんまり」エルは首を振った。
イオアンが早口で説明を始めた。
「外に出たら、左へ屋敷沿いに進め。軍馬の厩舎があるが、騎士たちは、そのドレスを見れば何も言わないだろう。そのまま真っすぐ進めば、屋敷の門が見える。門番が何か言ってきても声は出すなよ。身振りだけで対応しろ。貴婦人らしく、おとしやかにな。門を出たら長い下り坂だ。屋敷の屋上にも見張りはいる。そこから丸見えだから変に慌てず、ゆっくりと進むんだ。小さな川に突き当たったら――」
エルがイオアンを
「分かった分かった。そこまで行けば覚えてるから、大丈夫――」
「あと、最後にひとつ――」
イオアンが隣の馬房に戻りながら叫んだ。
「まだ、ここから出るなよ!」
イオアンは麻袋の中から小瓶を見つけると、急いで、ブケラトムのところへ戻った。
「何なの?」
エルは、イオアンが振っている小瓶を、不思議そうに見下ろしている。
「これは――」
イオアンは小瓶の蓋を開け、
「伯爵夫人の香水だ」
濃厚な甘い香りが漂い、
「うわ、凄い匂いだな」
「この香りで、おまえの変装は完璧になる」
そう喋りながらイオアンは、エルのドレスに、せっせと香水を振り続けている。
香水を嫌がったブケラトムは、首を振って何度も鼻を鳴らし、ポカテルは悲鳴を上げて、馬小屋から逃げてしまった。
「もういいって! 十分だろ」
エルは強い香りを遠ざけるように、大きく手を振った。
「行くから」
イオアンが手を止めた。「もう行くのか?」
「暗くなる前に着きたい」
「まだ、ぜんぜん明るいじゃないか」
「とにかく行くから」エルは言い張った。「その前の柵をどかしてよ」
イオアンは引き止めようとしたが、すでにエルは手綱を握り、真っすぐ前を向いてる。イオアンは仕方なく馬房の入口に近づくと、外から見えないのを確認してから、馬房の柵を外した。
ブケラトムが自然と前へ進み、エルは手綱を引いて、外の様子を
イオアンは、優しくブケラトムの首筋に触れ、エルを見上げた。
「どうか、ブケラトムを――」
だが、エルは見向きもせず、そのままブケラトムを馬小屋の外へ出した。
夏の日差しのなか、純白のドレスに包まれたエルを乗せ、ブケラトムが進んでいく。伯爵夫人の突然の出現に、驚いた使用人たちが道を空けている。イオアンは薄暗い馬小屋に隠れたまま、彼らの姿が見えなくなるまで見送った。
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