第14話
ずっと立ったまま聞いていたエルは、イオアンが話し終えても、何か考えているように黙り込んでいた。
しばらくして、
「あんたの話を、否定はしない」
と、エルが口を開いた。
「あいつは、本当にルベルマグナの血を引いてるかもしれない。違うかもしれない。俺に分かるのは、がりがりのブケラトムが、いまにも、この馬小屋で死にそうだってことだけさ」
「――だが、ブケラトムは動かせない」
イオアンが、沈痛な表情で顔を上げた。
「おまえには心を開いているようだ。おまえが屋敷に通ってくれれば、いずれ、元気になるんじゃないだろうか」
「俺が? ここに通う?」
エルは
「冗談だろ!」
と、笑い飛ばした。
「この、大嫌いなセウ家の屋敷から、すぐにでも出たいと思ってるんだぜ。それに俺は
「では、どうすれば――」
おろおろと、イオアンが
「だから言ってるだろ。オウグスとか関係ない。とにかく、ここから出さなきゃ駄目なんだよ!」
エルは、頭を抱えているイオアンを、冷たく見下ろした。
「まあ、雇われ教師のあんたには、オウグスには逆らえないんだろ。ブケラトムの命より、自分の仕事のほうが大事だもんな」
「――そんなことはない」
イオアンは否定したが、その言葉には力がなかった。
「じゃあ――」
と、エルはイオアンの前で屈み込み、
「俺が何でこれ以上、ブケラトムの面倒をみたくないのか、教えてやろうか」
と、話し始めた。
「あいつの気持ちを尊重してるからさ。ブケラトムは、どうしたって、ここから出れらないのが分かってるんだ。賢い馬だからね。だから、あいつは唯一、ここから脱出できる方法を選んだのさ」
「唯一脱出できる方法?」イオアンが顔を上げた。
「つまり――」
エルは低い声で告げた。
「死ぬしかないって分かってるんだ。だから、もう何も食べないのさ」
「まさか、そんな――」
「――そんなことはありえない」
「信じるかは、好きにしてよ」
エルは立ち上がった。
「俺は仕事をした。帰らせてもらう。おっと、報酬をくれるんだっけ?」
「報酬?」
イオアンが
「何か、価値のあるものをくれるとか、あの肉屋の天幕で言ってたじゃん」
「ああ、そのことか」
イオアンはよろよろと立ち上がると、馬房の奥にある乾草の山をかき分けた。大きな麻袋を取り出すと、紐を解き始めた。
「何それ?」エルが後ろから
イオアンは麻袋から、
「これだ」
「すげえ」
エルは、イオアンから手渡された服に、指先で触れてみた。あまりに
はらりと服を広げたエルが叫んだ。
「これ、スカートじゃん!」
「そうだが、何か?」
「何かって、女の服だろ!」
「当たり前じゃないか」
「当たり前って、俺が着れないじゃん!」
「別に、おまえがいつも着る必要はないだろう。売れば、相当な金額になるはずだ」
「それはそうだけどさ――」
釈然としないエルは、
「どうせなら、俺が着れるのが良かったよ」
とこぼすと、イオアンの後ろにある、大きな麻袋へ目を向けた。
「もしかして、それも全部俺にくれるの?」
イオアンは
「えー、嬉しいけど、そんなにたくさん、持って帰れるかな」
「問題ない」
「でも、どうやって屋敷から出るんだ? あの
「心配するな。〈酔っ払いの
「じゃあ、どうやって」
「門から出る」
「門て、この屋敷の門?」
「それ以外にないだろう」
「でも、まずいんじゃないの。だから来るときに、あの樅の木を使ったんだろ」
「もちろん、不審に思われないようにする」
「どうやって? あんたが上手く、門番の気を
「まさか」
イオアンはとんでもないという顔をした。
「そうしたら、何かあったとき、おまえとの関与を疑われてしまうじゃないか」
「ちぇっ」
エルは嫌そうな顔で、舌打ちした。
「あんたといい、あのドワーフのおっさんといい。とにかく自分が第一なんだな。まあいいよ。それで、どうやって疑われずに門を通るんだ?」
「変装する」
「変装?」
一瞬、
「ちょっと、やめてくれよ! 俺に演技とか、そういうのを期待するのは無理だよ。それに嘘なんかつけない。すぐに顔に出るんだ」
「演技など必要ない。黙って通り抜ければいい」
とイオアンが冷たく告げると、
「そうなの?」
とエルは、渋々同意した。
「分かったよ。それでどんな変装をするわけ?」
「伯爵夫人だ」
「はくしゃくふじん?」
初めて聞いた言葉のようにエルが、目を細めて訊き返した。
「つまり、おまえは――」
とイオアンが説明した。
「これから、オウグス様の奥方の恰好をする。今おまえが手にしている、そのドレスを身に
「何だって!」
エルは
「これは、オウグスの奥方の服なのかよ!」
エルが熱い物に触れたように、ぱっと手を離すと、純白のスカートが、馬小屋の床にばさりと落ちた。
「何をしてる!」
イオアンは慌ててスカートを拾い上げ、
「その服は着ない」
「しかし――」
イオアンは困った顔になった。
「おまえがセウ家を嫌うのは構わない。だが、このドレスを着ないことには、屋敷から出られないぞ」
「変装はともかく、その服は絶対に、嫌だ」
「そうは言ってもな――いまから別の服は用意できないし、この恰好が、いちばん効果的なんだよ」
「効果的って何なんだよ!」
エルは両手を広げて叫んだ。
「伯爵夫人の恰好なんて、変に決まってるだろ。絶対、すぐにばれて捕まるよ!」
「そんなことはない」
イオアンは
「おまえは小柄だから、奥方様とも背丈は一緒ぐらいだ。それほど肩幅もないしな。顔は、もちろんヴェールを被って分からないようにする。瞳の色は違うが――まあ、そこまで覗き込む者もいないだろう」
「でも、おかしいじゃん!」
とエルは反論した。
「ふつう名家の伯爵夫人が、ひとりで外にふらふら出歩かないだろ。侍女のお供とか付くんじゃないのかよ。門番に絶対
「まさにそこなんだ」
「何がだよ」
「この変装が、完璧になってしまう理由だ」
とイオアンは悲しげに語った。
「伯爵夫人は、お気持ちが不安定なんだ。まあ、芸術家気質とでもいおうか、屋敷の中に閉じ込もっていると、その、精神が
「本当かよ」
エルは信じられないという表情だ。
「そんな危ないこと、ふつう許されないだろ」
「もちろん、伯爵様も
イオアンは溜息をついた。
「しかし、どうしようもないんだ。閉じ込もっていたら、奥方様の気が触れてしまう。それに危険だといっても、イグマスの中だ。その純白のドレスを着てさえすれば、誰も手出しはしない――。
いわば、ある種の魔法のドレスだと考えてくれ。この奥方様のドレスさえ身に纏えば、おまえは誰にも疑われず、誰にも呼び止められず、イグマスの外へ、安全に出られるんだ」
無言で聞いているエルに、イオアンは、
「おまえが、セウ家のドレスを着たがらないのも理解できる」
と言って、溜息をついた。
「だが、我慢してくれないか。町を出たら売るなり、捨てるなり、好きにすればいい。いま私が提供できる、いちばん安全な脱出方法が、これなんだ」
エルがイオアンへ手を伸ばし、低い声で言った。
「分かったから、それをくれよ」
イオアンは首を振った。
「いや、私がドレスを着るのを手伝おう」
「いいって、ひとりで着替えるから! あんたは、どっかに行っててくれよ!」
「そういう訳にはいかない」
イオアンは、
「伯爵夫人のドレスは、ひとりで着れるようなものじゃないんだ。そのために、お付きの侍女たちがいるんだからな」
エルは口をへの字に曲げた。「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「まず、その汚れた服を脱いでくれ」
「え、ここでかよ?」
「馬小屋の外で、大勢の使用人に見られながら、着替えたくはないだろう」
エルは、あからさまに不機嫌になっている。
大きな溜息をつくと、イオアンの前で上着を脱ぎ、ブーツを脱ぎ、ズボンを脱いだ。浅黒い、しなやかな少年の
「それは、脱がなくていい」
イオアンは、麻袋からシュミーズを取り出した。
「何それ」エルが訊いた。
「まず、最初にこれを着るんだ」
「何でさ、そのまま、さっきのスカートを
「駄目だ」
「重ね着したら暑いだろ、それに、どうせ外からは見えないんだし」
「いや――」
イオアンは、手にしたシュミーズを見つめている。
「そういうところの細かい積み重ねで、大きな違いが生まれる。手を抜かず、本物らしさを追及しないと、いずれは、ばれてしまうだろう」
「それは、あんたの勝手なこだわりだろ」
「そうじゃない。
突然、イオアンが口を
馬小屋の外で、荷車が止まる音が聞こえ、老人の話し声も聞こえてきた。
イオアンが真っ青になった。
「アルドが、外から戻ってきた」
「どうすんだよ!」下着姿のエルが小声で叫んだ。
「そっちだ」
イオアンは隣の馬房へ
「ブケラトムの後ろに隠れろ。そこなら、アルドも近づかない」
エルは、慌てて脱ぎ捨てた服を拾いあげると、横木を飛び越え、隣の馬房へ逃げ込んだ。イオアンも麻袋を藁で隠し、エルの後を追った。
スカートとシュミーズが散乱したままなのに気づいたが、もう遅い。アルド老人がククルビタを曳いて、馬小屋に入ってきた。
馬房の奥に、エルとイオアンが隠れても、ブケラトムは動じずに立っていた。犬のポカテルは、ふたりが来たことで、喜びのあまり激しく
「静かにしろ」
イオアンが、ポカテルに小声で命じた。
「誰か、おるのかな?」
アルドの声が聞こえ、足音が近づいてきた。
ブケラトムの後ろで、イオアンは息を
「わ、私だ」イオアンが上ずった声を出した。
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