第13話
「それでは――」
と、一瞬イオアンは考え、それから叫んだ。
「ブケラトムが、屋敷からいなくなってしまうじゃないか!」
「もちろん、そうさ」
エルは何を驚いてるのかという顔をした。
「この屋敷に来ておかしくなったんだろ。あんたしか世話する人もいないみたいだし、仕方ないじゃん」
「それは困る」
「困るって、このまま死んでもいいのかよ」
「そんなわけないだろう。だから、私がちゃんと世話をすれば、何とか――」
「何ともならないから、俺に頼んだんだろ」
「しかし――」
「分っかんないなあ」
と、エルは首を振った。
「あんたの話を聞いてたら、オウグスが駄目にしたことは明らかじゃん。この屋敷の人間も見放してるんだろ? こんな
「そうかもしれないが――」
イオアンは力なく
「おまえの提案は、どうしたって実現不可能なんだ」
「はあ?」
と
「何でだよ。そのへんの農場に連れてって、売ればいいだけじゃん!」
と叫び、馬小屋の外を見て、声を抑えた。
「まあ、確かに、いまのブケラトムじゃ、買い手はつかないかもしれないけど、多少金でも付ければ、誰かしら引き取ってくれるさ」
イオアンは大きな
「何で――?」
と、エルは絶句した。
「だって、オウグスは、もうブケラトムを見捨ててるんだろ?」
「そうかもしれない。だが、売る気はないようだ。今までも、他の者たちが提案したが、すべて却下されてしまった」
「おかしいじゃん」
と、エルは馬小屋を見回した。
「ここに置いておくだけでも、多少は金がかかるじゃん。世話をしてるあんたのこともあるしさ」
「伯爵様はまったく気にしていない。餌代など、セウ家の財力では
「じゃあ」
と、エルはぽかんと口を開けた。
「わざわざ、飼い殺しにしてるわけ?」
「意図的ではないだろうが、結果的にはそうだ」イオアンは唇を
「――信じられない」
「だから私としては、ブケラトムを、ここで元気にする方法を知りたい」
「いやいやいや、無理だって!」
エルは勢いよく立ち上がった。こんな話に付き合ってるのが、馬鹿々々しくなってきたようだった。
「気が狂った爺さんがいる以上、どうしようもないじゃん」
「――そうかもしれない」
と、イオアンは素直に認めた。
「ただ、伯爵様が手放したくない理由も、私には分かる気はするんだ」
「あんたも、気が狂ったのか?」
エルは眉を
「――そうじゃない」
イオアンは考え込んでいる。
「伯爵様が、どうしてそこまで意固地になるのが、私にも理解できなかった。本来、理性的なお方だ。ときどき頑固なところもあるが、それも裏付けがあってのことだ。だからブケラトムのことも、何か理由があるんじゃないかと考えた」
「理性的だって?」と、エルは鼻で
イオアンは気にせず、話を続けた。
「私はその場にはいなかったが、伯爵様はブケラトムを見て即決している。慎重な伯爵様が、金貨二百枚も投じたのには、訳があるはずなんだ」
「ドワーフのおっさんが説明してたぜ」
と、エルは思い出した。
「それは、オウグスだけが、ルベルマグナのことを、ちゃんと覚えてるからだって」
「そうかもしれない。だが――」
と、イオアンは考えながら口にした。
「それより、私が気になったのは、そのルベルマグナの最後のほうだ」
「前の伯爵と一緒に、アクィアで討死したんだろ」
「それは、事実じゃない」
「え、違うのか」
「確かに、公爵様が病を得たのは戦場だが、実際に亡くなられたのは、撤退してから数週間後、イグマスの北宮でだ。前公爵様の勇猛なイメージが強すぎて、そういう伝説が
「へえ、どれぐらい昔の話?」
「もう、十数年前にはなるだろうな」
「じゃあ、しばらくルベルマグナは生きていて、そこで飼われてたわけ?」
「それはない」
「でも、長生きする馬なら――」
「私は当時を知っている老人から、話を聞くことができたんだ。もう引退しているが、北宮の厩舎で、
「なんだ、やっぱり死んだのか」
「そうとも言えない」
「どっちなんだよ!」
「我々に
「そうなのか。でも、何でそれを、わざわざ秘密にするんだ?」
「それはだな――」
イオアンは、ふたりしかいない馬小屋の中を見渡すと、ぐっと声を落とした。
「さっき、ルベルマグナが、ひっそりと飼われていたと話したが、現実はそんなものではなかった。
あの狂った馬は、戦場で多くの敵兵を噛み殺し、
実際には味方の兵士でも、
そして、前公爵様が亡くなったあと、誰もあの馬を操れる騎士はいなかった。オウグス様ですら手に負いかねる馬だった。
乗り手を失ったルベルマグナは、引き続き、北宮の厩舎で飼われていたが、あの馬の抑え切れない攻撃性が、今度は敵兵ではなく、北宮の馬丁に向けられたんだ。ブケラトムみたいな小馬じゃない。象のような巨体だったと、伝えられているルベルマグナだぞ。何人もの死人が出たらしい。
たまりかねた馬丁たちは、
「それで、ルベルマグナは、どこかへ移された――」と、エルが口にした。
「そうだ。前公爵様の愛馬として名を
そこで
誰が、どこに移したかは分からない。
私もいろいろ調べたが、タタリオン家の
もしかしたら、遠方に移動したうえで〈
私に推測できるのは――ルベルマグナがその牧場の
ここまで話したことは、総督府でも公にしてない事実だが、前公爵様の愛馬の処分について、軍団の総司令であった伯爵様が報告を受けていた可能性は高い。だから、ブケラトムが連れてこられたとき、あのルベルマグナの子供だと、伯爵様は直感的に確信したんじゃないか――そう私は考えている」
話し終えたイオアンは、エルを見上げた。
「この事実は、バルバドスには話していない。屋敷の者にも話せることじゃない。だが、ここで明かしたのは、私がなぜ、ブケラトムがルベルマグナの子供だと信じているのかを、おまえだけには理解してほしかったからだ」
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