エルによるブケラトムの不調の説明、イオアンによるブケラトムを信じる理由、そして、伯爵夫人の純白の美しいドレスについて

第11話 

丘の下に立っているもみの木を、エルが苦労しながら登っていた頃、丘の上にあるセウ家の屋敷の裏手では、イオアンが井戸水をんでいた。


七月の青空から、午後の太陽がじりじりと照りつけてくる。イオアンは桶から手ですくい、冷えた水で喉をうるおした。美味うまい。尻尾しっぽを振ってやってきた犬のポカテルにも、手を差し伸べてめさせる。

ドワーフの鍛冶屋かじやが水を汲みにやってくると、イオアンに挨拶した。

近くで野菜を洗っている料理女たちが、屋敷の食事の準備のことで、イオアンに愚痴ぐちをこぼした。イオアンは黙って聞いている。話を聞き終えると、執事には伝えておくからとイオアンは約束した。


ぼんやりポカテルの頭をでていたイオアンは、視界の端に、動くものをとらえた。


林檎りんごの木の陰から、バルバドスが必死に自分に合図を送っていた。その後ろに、あの少年も隠れている。

本当に屋敷にやってきたのだ。これから計画通り、慎重に進めなければ。

イオアンは立ち上がると水桶を掴み、馬小屋まで歩いていった。ポカテルもついてくる。少年と一緒のところを、屋敷の者に見られたくない。


イオアンは、ブケラトムの水桶に水を注ぐと、馬小屋の中に隠れた。しばらくすると、バルバドスが馬小屋の入口までやってきた。馬房の柱にもたれ、外を眺めている振りをしながら、イオアンに小声で話した。


「連れてきたぞ。どうする」

「ここへ寄こしてくれ」イオアンも外に漏れないように声をひそめた。

「あいつには、イオアン様の正体は話していない」

「正体?」

「セウ家の嫡男ちゃくなんということだ。相当、セウ家のことをうらんでいる。本当のことを話すつもりなら覚悟してくれよ。仕事を断るかもしれん」


イオアンはうなずき、心にとどめた。

「バルバドスはこれからどうするんだ?」

「俺か? 俺には俺の用事がある。あいつからは手を引くからな。しかし、仕事が終わったらどうする」

「ちゃんとてくれれば、約束通り、彼には報酬を与えるつもりだ」

「そうじゃない。無事に、あいつを屋敷の外へ出させる方法だ」

「それも考えてある」

「もう門番は新兵じゃない。プロシウスに変わっている。あいつは頑固だからな。そう簡単には、言いくるめられ――」

「あまり時間がない。あの少年を呼んできてくれ」


バルバドスは、再び林檎の木まで戻った。

今度はエルがひとりで、林檎の木から、井戸の前を横切り、馬小屋まで歩いてくる。緊張もなく自然な感じだ。イオアンは馬小屋の中から観察していた。

――私と違って、あの少年には勇気があるな。

少年が、馬小屋に入るのを見られるのは仕方ない。少なくとも使用人たちは、ブケラトムがいるここには近づかないだろう――イオアンは馬小屋の奥へ移動し、エルが中に入ってくるのを待った。


馬小屋に足を踏み入れたエルは、イオアンの姿を見て、立ち止まった。薄暗い馬小屋で目をらす。ポカテルが、エルの足もとでじゃれついた。


「診てほしい馬は?」

と、エルが単刀直入にたずねた。


この馬小屋は二つに分かれている。イオアンたちがいるほうの馬房で飼われているククルビタという荷馬は、いまはアルド老人が外に連れ出していた。


イオアンが隣の馬房へあごをしゃくった。


エルがそちらへ目を向けると、馬房の奥の暗がりに立っている馬のシルエットが、ぼんやり見えた。少なくとも、小さいということだけは分かる。


「あれがブケラトム?」

エルがイオアンのほうを振り返った。

仔馬こうまみたいに、小さいじゃないか」

「それが?」

「だって、ルベルマグナの血を引いてるんだろ。もっと大きいのかと思ってたよ」

「母親の血なんだろう」

たいした問題じゃない、という口ぶりだ。


エルはしっかり見ようと、馬小屋の中に進んだ。隣の馬房とは、横木で仕切られている。乗り越えようとしたところで、イオアンが声をかけた。

「あまり近づくと、急に襲ってくるぞ」


エルが振り返った。

「そうなの?」

「気が立っている。私以外の者にはみつこうとするんだ」

「病気のわりに、ずいぶん元気があるんだな」

「そもそも、病気なのかすら分からない」イオアンは溜息ためいきをついた。「何も食べようとしないんだ」

「ともかく、見てみないと」


エルは隣の馬房をのぞき込んだ。


ブケラトムは馬房の奥へ後ずさり、頭をエルのほうへ向けて低く下げた。鼻を鳴らし、耳を後ろに伏せている。引っ掻くように前肢まえあしで何度も地面をこすり、いまにもエルに飛びかかってきそうに見えた。


「大丈夫、大丈夫――」

エルは両手を広げ、ゆっくりとした低い声で、ブケラトムに話しかけた。まだ、ブケラトムは警戒しているが、前肢をこする動作はやめた。


「よく見えないな」

そうエルがこぼすと、イオアンが火のついた角灯カンテラを手渡した。

エルは躊躇ためらった。「神経質な馬みたいだけど――」

「いつも使っているから、慣れているはずだ」


受けとったエルは、角灯を掲げた。


ブケラトムは想像以上に小さな馬だった。

たしかにせていた。

肩も、脇腹も、尻のあたりも肉が落ちている。

どれだけ食べていないのか。

だが、病気という感じはしない。それよりエルが気になるのは、あちこちにある小さな傷跡だった。最近できたもののようだ。


エルが小声で訊いた。

「あの傷は?」

「誰かが馬房に近づくと、襲いかかろうとして、横木や柱に体をぶつけるんだ。それでだと思う」

「なんで、そんなに攻撃的なんだ」

「昔はそうじゃなかったんだが、色々あった」

「色々?」

「そう、色々だ」


イオアンが、それ以上説明しないので、エルはブケラトムに視線を戻した。


「軍馬っていうより――がっしりしていて、農場にでもいそうだな」

「母親がそういう馬だったのだろう。背骨山脈にある牧場で生まれたらしいから」

エルが頷いた。「あのあたりの馬は疲れ知らずで、悪路にも強い」


エルは角灯を床に置いた。

両手をゆっくりと広げ、子守歌のように優しい声でブケラトムに話しかける。左手を差し出すと、ブケラトムは臭いをかいだ。

「よし、いい子だ」と、頭や首筋をさする。

すると、さらにブケラトムは身を乗り出し、エルの体に鼻面はなづらを押しつけてきた。


イオアンから見ても分かるほど、ブケラトムの興奮がおさまってきている。

「おまえの臭いで、落ち着いてきたみたいだ」

と、イオアンが指摘すると、

「俺のじゃないよ」

と、エルは首を振った。

「いままで俺が世話をしてきた馬さ。何十頭もの臭いが服にみ込んでるから」

「そういうものか」

「うん、馬は目よりも鼻のほうがくみたいなんだ。馬同士なら、相手がおすなのかめすなのか、健康状態、気分、発情期、群れでの地位――そういうことまで臭いだけで分かるんだって、ダマリが言ってた」

「仲間のオークか」

「そう。ダマリは馬の世話が上手いんだ」

エルはブケラトムを撫でている。

「カルハースよりも、馬のことが分かるんじゃないかな。オークって、俺たち人間より自然に近いだろ。だから、馬の言葉もしゃべれるような気がする」


ブケラトムの頭が床に触れるほど下がり、エルはその耳のあいだを掻いた。そのままゆっくりと首筋、肩から尻へと指先で触れていく。ブケラトムは完全にリラックスしていた。


「驚いたな」

と、イオアンが感嘆の声をあげた。

「私以外で、そこまでれたのは、おまえだけだ」

「――うん」


生返事なまへんじをしたエルは、ブケラトムに触れている指先に、神経を集中させている。


疝痛せんつうはないと思うけど、外で変なものを食べたりしてないよね」

「前は私が遠乗りに連れていっていたが、それは絶食するずっと前だ。いまは他の馬と同じものを与えている――食べはしないが」

「他の馬はどこにいるんだ」

「軍馬か?」

「セウ家の屋敷なんだから、相当いい馬を揃えてるんじゃないかって楽しみにしてたんだけど」

「軍馬たちの厩舎きゅうしゃは、別なところにある」

「こいつも軍馬のつもりでオウグスは手に入れたんだろ。なんで、こいつだけ?」

「色々あったんだ」

「だから、その、色々って何だよ」

「他の馬を脅かす、馬丁を怪我させる、前を通る者を威嚇いかくする――それで、ここに隔離させられた」

「ずいぶん性悪しょうわるな馬だな」


そう言って、ブケラトム首筋を撫でているエルの視線は優しかった。エルを見つめ返すブケラトムの大きな黒い瞳も、今では眠たげなものになっている。


エルは、ブケラトムの鼻面を軽く叩くと、床の角灯を取り上げ、横木をまたいで、イオアンのいる馬房へ戻ってきた。代わりに、尻尾を振ったポカテルが、ブケラトムの足もとで寝そべった。


エルから、角灯を受け取ったイオアンが尋ねた。

「どうだ?」


エルは答えずに、しばらく隣の馬房のブケラトムを眺めていた。やがて、ゆっくりと口にした。


「病気でも、怪我でもないと思う」

「じゃあ、原因は――」

「分からない」

「やはり、そうか――」


気落ちした表情を見せると、イオアンはよろよろと力なく床に腰を下ろし、ひたいに手をあてた。そんなイオアンを見下ろして、エルは続けた。


「ここの暗さじゃ何とも言えない。外に出して走らせてみたら、何か分かるかもしれないけど」

「そうだな。だが、それは無理だ」

「だけど、俺が思うのは――」


イオアンが顔を上げた。「何だ?」


「ダマリが治療する色んな軍馬を、俺は見てきたよ。そのなかには、調子が悪かったり、乗り手の言うことを聞かない理由が、外からじゃ分からない馬もいた。カルハースが言うには、そういう馬は大抵、横暴な騎士を乗せてたか、戦場でひどい目にあった馬なんだって」

エルもイオアンの隣に座った。

「だからブケラトムも、そういうことがあったのかもしれない。それが分かれば――もしかしたら、元気にできるかもしれない」


「ブケラトムは傷ついている――ということか?」

エルは頷いた。「馬にだって心はある。それを認めようとしない人間は多いけど」

「そうか、それでなのか――」

そう呟くイオアンへ、エルは顔を向けた。

「心当たりがあるわけ?」

イオアンは頷いた。「色々あったからな」


ブケラトムが屋敷に来てからのことを、イオアンは語り始めた。

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