第10話
バルバドスは橋の手前で左に曲がった。
小川沿いのポプラの並木道で、左手は小高い丘になっている。
「で、結局さ――」
と、エルが質問した。
「そのブケラトムは、ルベルマグナの子供なの?」
「たぶん、血は引いていないだろう。まあ、
いい思い出がないのか、バルバドスは顔を
「ただの、どうしようもない
エルは、ブケラトムについて考えを
三年前の冬、
それなのに――、
「あのエルフの若者だけは、〈
「そうだ」バルバドスが
エルは、
確かにあの若者は、市場では隙だらけだった。
だけど、天幕での話しぶりからは、そこまで
「みんな疑ってるのに、何でだろ?」
「イオアン様だけが、まだ信じている理由か? 俺にも分からん。目を
「具合が悪いって言ってたけど?」
「その原因か?」
エルが頷いた。
「知らん。そもそも俺は詳しくない」
バルバドスは肩を
「戦場から戻ってきたときに、屋敷の人間から話を聞いてたぐらいだ。だが、食ってばかりで、太り過ぎだったブケラトムが、今はがりがりに
「原因を突き止めないと、まずいかな?」
「まずい? 何でだ」
「だって、そのために俺を牢獄にも入れず、仕事をさせようとしてるんだろ。それなのに、やっぱり分かりませんでした、となったら――」
――怒りだして、また、俺を牢獄に入れようとするんじゃないか。
「そうはならんだろう」
と、バルバドスは軽く答えた。
「イオアン様だって、心の中では、駄目なのは分かっているんだ。なんなら、もう助かりませんと言ってやってくれ。代わりの馬はいくらでもいる」
「でも、まだ死んだわけじゃ――」
「ほら、あれだ」
バルバドスが、左側の丘の上に見える建物を指差した。
「あれが、セウ家の屋敷だ」
立ち止まったエルは、ごくりと
「屋敷っていうより、まるで砦みたいじゃないか」
「まあ、イグマスで〈塔〉と言えば、あの屋敷のことを指すぐらいだからな」
バルバドスの言うとおり、丘の上の建物は、八階建ての塔のような建物だ。ほぼ円筒形をしている。屋上には
「城壁の内側では、一番高くて堅固な建物になる。おまえは白亜宮を見たか」
エルは頷いた。今朝、仲間と取引先に向かう途中、前を通った。広い宮殿前広場の向こうに、白い大理石で造られた
「まるで――羽根を広げた白鳥みたいだったよ」
「なかなかの詩人だな」
バルバドスはにやりと笑った。
「
「そんな屋敷に俺は入るのかよ」エルは思わず、
「ブケラトムは馬小屋にいる」
と、バルバドスが笑いながら教えた。
「〈塔〉の中に入るわけじゃないから安心しろ」
「馬小屋? セウ家なら、ちゃんとした
「もちろん騎士たちの軍馬は厩舎にいる。だが、ブケラトムは別にされているんだ」
「なんで? 病気だからか」
「――それもある」
と、言うとバルバドスは腕を組み、
「で、どうする。イオアン様の仕事を受けるのか」
と、エルに決断を迫った。
エルは改めて、セウ家の屋敷を眺めた。
小高い丘のまわりが絶壁になっており、崖をぐるりと回るように、長く
つまり、もし屋敷に攻め入るなら、身を隠せない一本道を登るしかなく、そのあいだ、〈塔〉からの矢が、雨のように降り注ぐということだ。撤退するときも、坂を降りているあいだは、弓で狙われ放題になる。
つまり、セウ家の屋敷で何か問題を起こしたら、生きて帰ることはできない――ということだ。
だが、それ以上に、ブケラトムという馬が気になる。
仮に、ルベルマグナの血を引いているというのが嘘だとしても、一度見てみたい。
それに、セウ家の屋敷に入れば、仲間に自慢できる。
誰も、そんな経験はないはず――。
でも、罠の可能性もある。あの若いエルフは、何か
疑う声を振り切るように、エルは宣言した。
「いいよ。その馬を診てやるぜ!」
自分の決断に、あっと驚くバルバドスの顔を、エルは期待していたのだが、予想に反し、バルバドスの顔は
「本気かよ?」
と、あからさまに落胆している。
「本気かって、そのために連れて来たんだろ!」
「ここで、逃げ出してもいいんだぞ」
と、バルバドスは説得した。
「何でだよ!?」
と、エルが叫んだ。
「そっちこそ本気かよ。あのエルフの若者に頼まれたんじゃないのか」
「イオアン様には適当に言っておく。目を離した隙に逃げられましたとかな。そのほうが、俺も余計な心配をしなくて済む」
「余計な心配ってなんだよ」
エルは目を細めた。
「あのな」
と、バルバドスが頭を
「伯爵様は、おまえたち首無し騎士団を嫌ってるんだ。目の
「え、なんでさ?」
「ブケラトムの件で、金貨二百枚の偽物を掴まされたと思っているからだろう」
「それは、八つ当たりだろ。だいたい、売ったのが、本物の首なし騎士団か分からないじゃんか」
「そんなことを言われてもな」
バルバドスは肩を竦めた。
「伯爵様が信じ込んでいるんだから仕方がない」
「じゃあ、もし、俺が屋敷で見つかったら――」
「ただじゃ済まない」
と、言ってバルバドスは首を振った。
「だから、俺はやめておけと言ってるんだ。イオアン様の報酬がどれだけのものか分からんが、割に合わん。冷静に損得を考えろ」
「でもさ――」
と、エルが指摘した。
「
だが、バルバドスは首を振った。
「当てにならんな。何かのきっかけで疑われてからじゃ遅いんだ。さっきだって、牢獄塔に連れていくと言ったら、すぐに口を割ったろうが」
「だって、あれは――」
「とにかく、おまえは
「とにかく、お断りだね!」
と、エルは舌を出した。
「俺は、あの人から特別な仕事を頼まれたんだ。こっちに行けばいいんだろ」
と、エルは屋敷への坂道を登りだした。
「そっちじゃない」
バルバドスが、エルの
「なんでだよ、この道しかないんだろ!」
「屋敷から丸見えだろうが」
バルバドスが手を離し、エルは転びそうになった。
「それに俺は、一緒のところを門番に見られたくないんだ。後々困るからな」
「じゃあ、どうすんだよ」と、エルは口を
「丘の上への抜け道がある。こっちだ」
バルバドスは坂道を通り過ぎ、丘の北側へと回った。
丘の崖の下には
「これだ」
バルバドスが樅の幹に手を伸ばした。
「こいつに登って、おまえは屋敷に侵入する」
「本気かよ?」
エルは目を丸くして、樅の木を見上げた。
枝はそれほど密集していないので、隙間から青空が見える。太くて白い綱が何本も、樅の木の枝から
バルバドスが綱に触れた。
「この綱を手掛かりに、上手く枝に乗り移りながら登っていけ。敷地の上に張り出している枝があるから、そこから飛び降りるんだ」
「こんなんで上手くいくのかよ」
エルは疑わしそうに、手渡された綱を引っぱった。
だが、思いのほかしっかりしている、
「どうだ、上手くできているだろう」
とバルバドスが自画自賛し、幹から離れた。
「ちょっと待ってくれよ。おかしくないか?」
「何がだ。これ以上ないほど単純だろう」
バルバドスは木を見上げた。
「あの綱を掴んで登るだけだ。説明するまでもない。猿にだって分かる――」
「そんなことじゃないって」
と、エルが
「なんで、こんな抜け道があるんだ。盗賊とか、簡単に忍び込めちゃうじゃん」
「――愚問だな」
「何でだよ」
「じゃあ、お前が盗賊だとする。知ってて、この〈塔〉に押し入ろうとするか?」
「それは――」と、想像したエルは
「な、ちょっと考えれば、分かることだ」
とバルバドスは、エルを
「昼も夜も、兵士が見張っている。中に入れば、タタリオン家の精鋭中の精鋭であるセウ家の騎士が待ち構えている。そんなところに入ろうする馬鹿な盗賊なんて、いるはずがないだろ?」
「――そうだけどさ」
と、エルはまだ信じきれない。
「盗賊はともかく、敵の大軍が攻めてきたらどうすんだよ。防御地点として致命的じゃないか」
「おまえも、面倒臭い奴だな」
と、バルバドスは嫌な顔をした。
「分かった。詳しく話す」
「厳格な伯爵様は、酒嫌いなんだ。兵士はともかく、騎士たちには自制を求める。だが、そうはいっても、酒好きに飲むなと言っても無理な話だ。とくに若い連中は、たまには羽目をはずしたい。それで、新市街に繰り出して、飲んで騒いでいるうちに、夜遅くなることがある。そうすると屋敷の門は閉じられているから、翌朝、伯爵様から
エルは樅の木を見上げた。
「それで、この抜け道を作ったのかよ。意外とセウ家の騎士も、だらしないんだな」
「
「分かったよ」
観念したようにエルは
「じゃあ登るよ。あんたの後をついていくから」
バルバドスは何を言っているという顔をした。
「おまえは、ひとりで登るんだ」
「なんだよ! さも経験があるように――」
と、エルは叫んだが、
「俺が登るわけないだろう」
と、バルバドスは眉ひとつ動かさなかった。
「俺は新市街に部屋を借りている。この屋敷に来るのは用があるときだけだ。
「そんな――」
エルは呆然としている。
「俺は門から入るから、おまえは上で待ってろ」
と、バルバドスはエルに背を向けた。
「屋敷の裏手に出るはずだ。俺が合図したら、気づかれないように枝から飛び降りるんだ。いいな」
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