第10話 

バルバドスは橋の手前で左に曲がった。

小川沿いのポプラの並木道で、左手は小高い丘になっている。物憂ものうい夏の午後、木陰では市民が涼しんだり、小声で話し合っている姿が見られた。


「で、結局さ――」

と、エルが質問した。

「そのブケラトムは、ルベルマグナの子供なの?」


「たぶん、血は引いていないだろう。まあ、伯爵コメス様だって間違えることもある」

いい思い出がないのか、バルバドスは顔をしかめた。

「ただの、どうしようもない駄馬だばだった。三年たった今、さすがに伯爵様も認めたようだ。いまではもう、その名前を屋敷で口にする者はいない」


エルは、ブケラトムについて考えをまとめた。

三年前の冬、首なし騎士団トリステロらしき男がやってきて、名馬の子供だといつわり、セウ家の老伯爵に駄馬を売りつけ、まんまと大金をだまし取った――。


それなのに――、

「あのエルフの若者だけは、〈魔の馬スレイプニル〉だって信じてるってこと?」

「そうだ」バルバドスがうなずく。


エルは、に落ちない。

確かにあの若者は、市場では隙だらけだった。

だけど、天幕での話しぶりからは、そこまで初心うぶな信じやすい性格には見えなかった。むしろ、何でも疑ってかかる冷笑家キニシスムスのように思えた。


「みんな疑ってるのに、何でだろ?」

「イオアン様だけが、まだ信じている理由か? 俺にも分からん。目をませと何度も忠告したんだがな。いまだに、死にそうな馬に執着している」

「具合が悪いって言ってたけど?」

「その原因か?」

エルが頷いた。


「知らん。そもそも俺は詳しくない」

バルバドスは肩をすくめた。

「戦場から戻ってきたときに、屋敷の人間から話を聞いてたぐらいだ。だが、食ってばかりで、太り過ぎだったブケラトムが、今はがりがりにせている。何かあったんだろう。気性きしょうも、ずいぶん変わっちまったしな」


「原因を突き止めないと、まずいかな?」

「まずい? 何でだ」

「だって、そのために俺を牢獄にも入れず、仕事をさせようとしてるんだろ。それなのに、やっぱり分かりませんでした、となったら――」


――怒りだして、また、俺を牢獄に入れようとするんじゃないか。


「そうはならんだろう」

と、バルバドスは軽く答えた。

「イオアン様だって、心の中では、駄目なのは分かっているんだ。なんなら、もう助かりませんと言ってやってくれ。代わりの馬はいくらでもいる」

「でも、まだ死んだわけじゃ――」


「ほら、あれだ」

バルバドスが、左側の丘の上に見える建物を指差した。

「あれが、セウ家の屋敷だ」


立ち止まったエルは、ごくりとつばを飲み込む。


「屋敷っていうより、まるで砦みたいじゃないか」

「まあ、イグマスで〈塔〉と言えば、あの屋敷のことを指すぐらいだからな」


バルバドスの言うとおり、丘の上の建物は、八階建ての塔のような建物だ。ほぼ円筒形をしている。屋上にはのこぎり状の腰壁があり、見張りが立っていた。すでに向こうも、エルに気づいているかもしれない。


「城壁の内側では、一番高くて堅固な建物になる。おまえは白亜宮を見たか」


エルは頷いた。今朝、仲間と取引先に向かう途中、前を通った。広い宮殿前広場の向こうに、白い大理石で造られた壮麗そうれいな宮殿を見つけたエルは、公爵家への憎しみも忘れて、その美しさに見とれたのだった。


「まるで――羽根を広げた白鳥みたいだったよ」


「なかなかの詩人だな」

バルバドスはにやりと笑った。

総督府エクサルカタスのある白亜宮が、イグマスの中心であり、タタリオン家の五つの帝国属州プロウィンキアの中心でもある。だが、見てのとおり美しい宮殿だが、城としての防御力は、なきに等しい。だから、万が一のときの公爵様一族の避難所としての機能も、あのセウ家の〈塔〉は兼ね備えているというわけだ」


「そんな屋敷に俺は入るのかよ」エルは思わず、ひるむような気持になった。


「ブケラトムは馬小屋にいる」

と、バルバドスが笑いながら教えた。

「〈塔〉の中に入るわけじゃないから安心しろ」

「馬小屋? セウ家なら、ちゃんとした厩舎きゅうしゃがあるんじゃないの」

「もちろん騎士たちの軍馬は厩舎にいる。だが、ブケラトムは別にされているんだ」

「なんで? 病気だからか」

「――それもある」

と、言うとバルバドスは腕を組み、

「で、どうする。イオアン様の仕事を受けるのか」

と、エルに決断を迫った。


エルは改めて、セウ家の屋敷を眺めた。


小高い丘のまわりが絶壁になっており、崖をぐるりと回るように、長くゆるやかな坂道が続いている。おそらく丘の上にある門へ続いているのだろう。

つまり、もし屋敷に攻め入るなら、身を隠せない一本道を登るしかなく、そのあいだ、〈塔〉からの矢が、雨のように降り注ぐということだ。撤退するときも、坂を降りているあいだは、弓で狙われ放題になる。


つまり、セウ家の屋敷で何か問題を起こしたら、生きて帰ることはできない――ということだ。いかめしくそそり立つ〈塔〉に、エルは身震いした。


だが、それ以上に、ブケラトムという馬が気になる。

仮に、ルベルマグナの血を引いているというのが嘘だとしても、一度見てみたい。

それに、セウ家の屋敷に入れば、仲間に自慢できる。

誰も、そんな経験はないはず――。

でも、罠の可能性もある。あの若いエルフは、何かたくらんでいるんじゃないのか?


疑う声を振り切るように、エルは宣言した。

「いいよ。その馬を診てやるぜ!」


自分の決断に、あっと驚くバルバドスの顔を、エルは期待していたのだが、予想に反し、バルバドスの顔はくもっていた。


「本気かよ?」

と、あからさまに落胆している。

「本気かって、そのために連れて来たんだろ!」

「ここで、逃げ出してもいいんだぞ」

と、バルバドスは説得した。

「何でだよ!?」

と、エルが叫んだ。

「そっちこそ本気かよ。あのエルフの若者に頼まれたんじゃないのか」

「イオアン様には適当に言っておく。目を離した隙に逃げられましたとかな。そのほうが、俺も余計な心配をしなくて済む」

「余計な心配ってなんだよ」

エルは目を細めた。


「あのな」

と、バルバドスが頭をいた。

「伯爵様は、おまえたち首無し騎士団を嫌ってるんだ。目のかたきにしてる」

「え、なんでさ?」

「ブケラトムの件で、金貨二百枚の偽物を掴まされたと思っているからだろう」

「それは、八つ当たりだろ。だいたい、売ったのが、本物の首なし騎士団か分からないじゃんか」

「そんなことを言われてもな」

バルバドスは肩を竦めた。

「伯爵様が信じ込んでいるんだから仕方がない」

「じゃあ、もし、俺が屋敷で見つかったら――」

「ただじゃ済まない」

と、言ってバルバドスは首を振った。

「だから、俺はやめておけと言ってるんだ。イオアン様の報酬がどれだけのものか分からんが、割に合わん。冷静に損得を考えろ」


「でもさ――」

と、エルが指摘した。

しゃべらなきゃいいんだけじゃん。この恰好じゃ、首なし騎士団の見習いだなんて、誰も思わないだろ」

だが、バルバドスは首を振った。

「当てにならんな。何かのきっかけで疑われてからじゃ遅いんだ。さっきだって、牢獄塔に連れていくと言ったら、すぐに口を割ったろうが」

「だって、あれは――」

「とにかく、おまえは厄介事やっかいごとの種でしかない。何かあったら、とばっちりを食うのはこの俺だ。ここで消えてくれると有難ありがたいんだがな」


「とにかく、お断りだね!」

と、エルは舌を出した。

「俺は、あの人から特別な仕事を頼まれたんだ。こっちに行けばいいんだろ」

と、エルは屋敷への坂道を登りだした。

「そっちじゃない」

バルバドスが、エルの襟首えりくびを掴んで止めると、エルは体をひねって抵抗した。

「なんでだよ、この道しかないんだろ!」


「屋敷から丸見えだろうが」

バルバドスが手を離し、エルは転びそうになった。

「それに俺は、一緒のところを門番に見られたくないんだ。後々困るからな」

「じゃあ、どうすんだよ」と、エルは口をとがらせた。

「丘の上への抜け道がある。こっちだ」


バルバドスは坂道を通り過ぎ、丘の北側へと回った。


丘の崖の下にはかしの林が広がっていた。やぶをかき分けて進むと、ひらけた場所に一本だけ大きなもみの木が生えていた。枝ぶりは広く、幹は大人が数人で手を繋がないと一周できないほど太い。見上げるような高さだった。暖かい属州スウォン南部で、これほど大きな樅の木を見ることは珍しい。


「これだ」

バルバドスが樅の幹に手を伸ばした。

「こいつに登って、おまえは屋敷に侵入する」

「本気かよ?」

エルは目を丸くして、樅の木を見上げた。


枝はそれほど密集していないので、隙間から青空が見える。太くて白い綱が何本も、樅の木の枝かられ下がっていた。


バルバドスが綱に触れた。

「この綱を手掛かりに、上手く枝に乗り移りながら登っていけ。敷地の上に張り出している枝があるから、そこから飛び降りるんだ」


「こんなんで上手くいくのかよ」

エルは疑わしそうに、手渡された綱を引っぱった。

だが、思いのほかしっかりしている、

たわむ感じはしない。身軽なエルなら十分登っていけそうだ。


「どうだ、上手くできているだろう」

とバルバドスが自画自賛し、幹から離れた。


「ちょっと待ってくれよ。おかしくないか?」

「何がだ。これ以上ないほど単純だろう」

バルバドスは木を見上げた。

「あの綱を掴んで登るだけだ。説明するまでもない。猿にだって分かる――」

「そんなことじゃないって」

と、エルがさえぎった。

「なんで、こんな抜け道があるんだ。盗賊とか、簡単に忍び込めちゃうじゃん」

「――愚問だな」

「何でだよ」

「じゃあ、お前が盗賊だとする。知ってて、この〈塔〉に押し入ろうとするか?」

「それは――」と、想像したエルは口籠くちごもる。

「な、ちょっと考えれば、分かることだ」

とバルバドスは、エルをさとした。

「昼も夜も、兵士が見張っている。中に入れば、タタリオン家の精鋭中の精鋭であるセウ家の騎士が待ち構えている。そんなところに入ろうする馬鹿な盗賊なんて、いるはずがないだろ?」


「――そうだけどさ」

と、エルはまだ信じきれない。

「盗賊はともかく、敵の大軍が攻めてきたらどうすんだよ。防御地点として致命的じゃないか」

「おまえも、面倒臭い奴だな」

と、バルバドスは嫌な顔をした。

「分かった。詳しく話す」


「厳格な伯爵様は、酒嫌いなんだ。兵士はともかく、騎士たちには自制を求める。だが、そうはいっても、酒好きに飲むなと言っても無理な話だ。とくに若い連中は、たまには羽目をはずしたい。それで、新市街に繰り出して、飲んで騒いでいるうちに、夜遅くなることがある。そうすると屋敷の門は閉じられているから、翌朝、伯爵様から叱責しっせき下手へたをすれば、除名になりかねん。それを避けるために深夜、酔っぱらっても屋敷に帰れるように、この仕掛けが作られたんだ」


エルは樅の木を見上げた。

「それで、この抜け道を作ったのかよ。意外とセウ家の騎士も、だらしないんだな」

高価たかい鎧を着ていようが、騎士だって人間だ」


「分かったよ」

観念したようにエルは溜息ためいきをついた。

「じゃあ登るよ。あんたの後をついていくから」

バルバドスは何を言っているという顔をした。

「おまえは、ひとりで登るんだ」


「なんだよ! さも経験があるように――」

と、エルは叫んだが、

「俺が登るわけないだろう」

と、バルバドスは眉ひとつ動かさなかった。

「俺は新市街に部屋を借りている。この屋敷に来るのは用があるときだけだ。美味うまい酒を飲むのに、こんな木に登る必要はない」

「そんな――」

エルは呆然としている。

「俺は門から入るから、おまえは上で待ってろ」

と、バルバドスはエルに背を向けた。

「屋敷の裏手に出るはずだ。俺が合図したら、気づかれないように枝から飛び降りるんだ。いいな」

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