第9話
「ブケラトムが屋敷にやってきたのは、三年前、寒い日のことだった」
バルバドスが語り始めた。
「サトゥルナリアの祭りの頃で、雪が積もった坂道を、
「オウグス・セウ!?」
凍りついたようにエルが足を止めた。
「これから行く屋敷って、セウ家だったのかよ!」
「そうか。まだ、言ってなかったか」
記憶から呼び戻されたバルバドスは、不思議そうにエルを見た。
「どうした?」
「――違う屋敷だと、勘違いしてた」
と、呟いたエルは、
「じゃあ俺は、これからセウ家の屋敷で、その馬を
「そういうことになるな」
と、バルバドスは、エルを試すように訊いた。
「どうする。やめるか?」
この質問も耳に入らない様子で、エルはじっと地面を見つめている。
バルバドスが、エルの顔を
「決心がつかないんなら、無理して引き受けることはないんだぞ?」
エルは顔を上げた。
青空の下、イグマスの灰色の城壁が遠くに見えた。
〈
エルは前を向いたまま答えた。
「行くよ」
バルバドスはエルを見て、何か言いたげな様子だったが、結局、黙って歩き出した。
しばらくして、エルがぼそりと口にした。
「ブケラトムの話を続けてよ」
「いまは、駄目だ」
「何で?」
「人が多くなってきた」
確かに、街道は混み始めていた。〈陰の街道〉は、二台の馬車なら楽にすれ違える。さらに両側には、歩道が完備されているが、南大門でぐっと道幅が狭まるので、門の前では、旅人や荷車が渋滞していた。
「人が多いと困るのかよ」エルが訊いた。
「ブケラトムの話は、あまり屋敷の外には、広まってほしくないようなんでな」
「ふーん」
バルバドスの説明が、エルにはよく分からなかったが、それ以上は質問せず、そのまま、南大門へ進む人の流れに加わった。
南大門が近づいてきた。
見上げると、両脇の
強い日差しで、下からは真っ暗で何も見えない。だがあそこから、兵士が弓を構えているのだろう。
まもなく通過する南大門の両側には、長槍を抱えた数人の衛兵が立っていて、目の前を通り過ぎる旅人たちに目を光らせている。
エルは注意を引かないように、あらぬ方向を向いたまま、
「ここを守っているのは、タタリオン家の兵士?」
バルバドスが、衛兵にちらりと目を向けた。
「いや、南大門はスッキ家の持ち場のはずだ。タタリオン家に従う五伯爵家は知っているな? それぞれが、イグマスの主要な場所を任されている。
ふたりは、いよいよ南大門を通ろうとしている。衛兵たちが
これから、あのエルフの若者の仕事をするわけだし、いまのエルに
混みあった人の流れは、なかなか前へ進まない。
バルバドスの後をついたエルは、ひと言も口をきかず、衛兵たちと目を合わさず、ずっと下を向いて歩いていた。
まわりの旅人たちは、気楽に雑談を続けている。
この前の嵐は
誰ひとりとして、いまも
ようやく、ふたりは薄暗い南大門を潜り抜けた。エルはほっと息をついた。
旧市街の中は、城壁の長い影がかかり、夏の厳しい日差しは
――気をつけろ。
エルは自分に言い聞かせた。
ここで、
「たしか――」
唐突に、バルバドスが口を開いた。
「冬の日に、ブケラトムが屋敷に連れてこられたところ、からだったな」
エルの答えを待たず、バルバドスが再開した。
「伯爵様を呼び出せという男の要求に、最初、門番は冗談かと思った。
門番も、ルベルマグナが子供を残さなかったことぐらいは知っていたし、目の前のブケラトムは〈
だから、『祭りで、酒でも飲み過ぎたのか』と笑って答えたんだ。
『酔ってなどいない』
そう男は答えた。
『早くしないと、
黒装束の男の
その頃には、ブケラトムのまわりに人が集まっていた。
誰かが、
ブケラトムを見た伯爵様が、いつ激怒するのかと、屋敷の者たちは息を止めて成り行きを見ていた。
首なし騎士団の男も、本当に現れた伯爵様に、怯えていたようだった。
だが伯爵様は、そんな男を無視し、まっすぐブケラトムのところへ歩いていった。ひと通り状態を確かめると、ひと言だけ男に尋ねた。
『どこから、この馬を連れてきた』
『
さらに伯爵様は声を抑え、イズムのどこだと訊いた。男は聞いたことのない牧場の名前を口にした。
しばらく、じっと考え込んでいた伯爵様が、最終的に『いくら欲しい』と訊いた。
男が震える声で『
さすがに、騎士も馬丁も執事も反対した。
あの男に
だが伯爵様は『間違いない』と断言し、有無を言わさず、屋敷から金貨二百枚をかき集めさせると、首なし騎士団の男に、重たい革袋を手渡した。
男は、まわりからの敵意をひしひしと感じていたのだろう。余計な口をきかず、すぐに屋敷から退散した。
それ以来、誰も、あのの若者を見ていない」
エルは、ブケラトムついて考えている。
「じゃあ、これから俺が診る馬って、金貨二百枚もするってことかよ」
信じられないと、エルは首を振った。
「どんなにいい軍馬だって、数十枚の金貨で手に入れられる。オウグス・セウって
「嫌いでも、老人への言葉は
と、バルバドスがエルを
「もう六十は超えているだろうが、伯爵様の頭は、まだまだはっきりしている。いまだにタタリオン家における
「どういうことさ?」
「伯爵様は若い頃から、亡くられた前公爵様に従い、帝国じゅうを数十年にわたって転戦してきた」
「だから、歳を取り過ぎなんだよ」
「そういうことを言ってるんじゃない」
と、バルバドスは語気を強めた。
「俺が言いたいのは、前公爵様の愛馬だったルベルマグナを、誰よりも間近に、誰よりも長いあいだ見てきたのは、伯爵様だということだ。タタリオン領で、伯爵様以上に、ルベルマグナに詳しい者はいない」
バルバドスが、エルへ顔を向けた。
「その伯爵様が、ブケラトムをその子供だと認めるなら、誰も否定できまい?」
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