第四話 シア
〈侍女〉のシアは、五階の廊下を進んだ。
廊下の置かれた
最上級の〈貴婦人〉たちは、自分の部屋で生活するから、滅多に下には降りてこない。逆に、ここまで上がるのは、面倒をみる〈侍女〉か、彼女たちを指名する財力がある客だけである。〈フリュネの誘惑〉に入ってまだ三か月、シアが五階に上がるのは初めてだった。
薄暗い通路の奥が、ぼんやり光っている。
近づくと、突き当りの扉だった。
魔法の力なのか、蒼白く光る茸が扉に生えているのだ。扉の銘板には〈
ここだ。
ここが、〈貴婦人〉ヴィヨルンド様の部屋だわ。
扉をノックしようとしたシアは
「ヴィヨルンド様――」
抑えた声を出してみた。
だが、まったく反応がない。本当に部屋にいるのだろうか?
扉に耳を近づけたが、何も聞こえない。ひんやりとした苔の感触。聞こえてくるのは、別の部屋からの、野獣同士が戦っているような叫び声だけだった。
「ヴィヨルンド様」と、もう一度シアは、声を大きくして呼びかけた。
が、やはり反応がない。
判断を迫られたシアは、決断した。
許可なく〈貴婦人〉の個室に入るのは禁じられているが、仕方ない。急がないと、あの首なし騎士団の男が、下で待っているのだ。
シアは、与えられている地味なドレスを整えると、頭に掛けた仮面の位置を直した。ドアノブがどこにも見つからないので、一瞬
扉は音もなく開き、喘ぎ声が聞こえてきた。
やだ。
やっぱり、行為の最中なんだわ――。
そう思ったが仕方ない。そのままシアは、扉をゆっくりと押し開いた。
ヴィヨルンドの部屋は暗かった。入口には、蒼白い茸の灯りしかなく、
シアは控えめに咳払いをした。
だが、よほど客との行為に没頭しているのか、気づかれない。
こうか? こうされたいのか? という低い声が聞こえた。これが、イオアン様の声なのだろう。しだいに女の喘ぎ声が大きくなる。
――仕方ない。
決意したシアは、衝立から一歩踏み出した。
シアは、ベッドの上で絡み合っている男女の姿を想像していたわけだが、そこで見たのは、彼女にとって衝撃的な光景だった。
燭台で照らされたベッドの上では、裸のドワーフの娘が縛られており、白いガウンを着たエルフの若者が縄をいじくり回している。若者が縄を動かすたび、興奮を抑えきれない娘は、蛇のように白い体をくねらせていた。
先輩の〈侍女〉たちからは何度も、
「部屋で何を見ても、驚かないこと。男女の(だけとは限らない)愛には、様々な形があるのですから――」
と
「そんなことをしてはいけません!」
とシアは、
口にしてから、
――あ、いけない!
と思ったものの、もう手遅れである。
すでに手を止めたイオアンが、シアのほうを振り返っており、ヴィヨルンドも
「お前は、誰だ?」
イオアンがベッドから降りて、シアに向かってきた。
シアは、頭が真っ白になった。
イオアンは痩せているが背が高い。圧倒され、見上げているシアに、
「名前は?」
とイオアンが、仮面を被ったシアの顔を
「シア、と申します」と囁くように答える。
目を伏せると、イオアンのはだけたガウンの前から、怒張した巨大なものが目に入り、思わずシアは目を
イオアンが、シアの
シアは真っ赤になった。
まるで、裸にされたような無防備な感覚――。
そんなシアの顔を、イオアンは無遠慮にじろじろと眺めている。
歳は十代後半か。
やや、耳は尖っている。
エルフの血が混じっているような顔立ちだ。
あまり太陽を浴びていないような白い肌をしていて、長い髪は黒い。
目を伏せた表情は、控えめな性格にも見えるが、意外と芯は強いのかもしれない。
体は、やや痩せ気味。
総合的に評価するなら、〈貴婦人〉になれば、かなり人気が出るだろう――。
「いけません」
シアは弱々しく抗議した。
「お客様が〈侍女〉の顔を見てはいけないのです」
「私は客ではない。見たことのない顔だな」
「会ったのは、初めてですから」
「だが、すでに〈侍女〉の訓練は受けているだろう。勝手に部屋に立ち入ってはならないことぐらい、知っているはずだ」
「でも――」とシアが
「〈侍女〉は、言い訳してはならない」とイオアンがぴしゃりと釘を刺した。
シアが顔を上げた。「緊急の用事があったんです」
「緊急の用事?」
「トリステロの方が、お見えになっています」
イオアンの表情が一変し、黙り込んだ。
シアは、黙っているイオアンの顔を
「トリステロというのは、首なし騎士団のことです」
「知っている」
ちらりとイオアンが顔を上げた。
「一人だけか?」
「いえ、もうひとり若い方が――」
「浅黒い、背の低い少年か」
「ええ」
イオアンは、視線をシアから外すと、考え込む表情になった。
「それで、何の用だと?」
「どのような用件かは、お話しになりませんでした。ただ、会わせてくれと」
「どんな様子だ?」
「そうですね。恐ろしい髑髏の仮面を被って、黒く染めた革のマントを――」
「見た目じゃない」
イオアンが
「落ち着いているのか、怒っているのか――」
「焦っている、ようでした」
「焦っている?」
「〈お母様〉が、一週間後に約束したらどうかと勧めたんですが、絶対に今夜じゃなきゃ駄目だ。会わせてくれるまで居座ると言ってました」
「それで、ルマンディアは?」
「――しかるべきところに通報すると」
「えっ」イオアンが驚いた。
「でも、そのあとトリステロの方が、何か言ったんです。そうしたら〈お母様〉は考えを変えて、イオアン様に伝えるようにと――」
「どうされますか?」
黙っているイオアンに、シアが指示を仰いだ。
「今夜は、お引き取り願いましょうか?」
「いや、絶対に帰らないだろう――」イオアンは考えながら話している。「それに騒がれてもまずい。仕方ない。私の部屋に通してくれ」
「イオアン様の部屋に、ですか?」
シアは怪訝な顔をした――イオアン様の部屋が、ここにあるわけないじゃない。
するとイオアンが、無知な人間を
「私の部屋は、ルマンディアに聞けば分かる」
「分かりました。あの――」
「何だ、まだ話していないことがあるのか?」
「ヴィヨルンド様を解かないと――」
すると、イオアンの背後から、
「いいのよ」
とヴィヨルンドの優しい声が聞こえた。
「これは痛くないの。私がお願いしたの。もう下がりなさい」
イオアンが、冷たい表情でシアを見下ろしている。
シアも見返した。
イオアンを、大理石の彫刻のようだと思った。完璧な造形美だが、そこには血が通っていない――。
仮面をかけ直すと、「失礼します」と頭を下げた。
〈
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