第4話 楽園

 燃え上がるガソリンスタンドの前をセダンが通り過ぎる。サイド・ウィンドウ越しでも、ライアンまで火災の熱気が届いた。

 ガソリンスタンドを離れると、急に辺りが暗くなる。送電線が切れたらしく停電中の区域がところどころにあり、そこでは街灯の光まで消えている。闇の中で、時折〝奴ら〟の気配が蠢いた。

 再び街灯の明りが頭上に並ぶようになり、ライアンは後部座席に座るデイジーの様子をルームミラーで確かめる。苦しそうに俯いたまま体を強張らせ、症状が悪化しているのは間違いなかった。

 ジョニィも時折肩を震わせ、口には出さなかったが、具合が悪くなっているのは傍目にも明らかだ。そこ、と後ろからエマが指差した方向へジョニィがステアリングを操り、円形の車寄せに入ったところでセダンを停めた。

 大型の総合病院が黒々と聳えていた。その窓という窓が破られている。〝奴ら〟の動きを建物内に感じたのは、ライアンだけでないらしく、

「近付くのは、無理だぜ」

 そう鼻で笑う運転手へ、エマが、

「なら、裏手のドラッグ・ストアへいって。そこで抗生物質を手に入れる」

 ジョニィは逆らわなかった。車寄せを出て病院の裏側へ向かうと、照明の消えた小さなドラッグ・ストアが現れた。停車したセダンから、皆で店内の様子を観察する。自動扉のガラスは砕け散っていたが、

「……誰もいないみたい」

 後部座席の窓に張りついてドラッグ・ストアを窺うエマがいい、

「停めて。私がいく。デイジーを看ていて」

 頼まれたセールスマンは、分かった、と返答してライアンへ、

「グローブボックスを開けてくれ。そこに懐中電灯が入ってる」

「……俺も付き合おう」

 助手席の扉を開け、運転席を見ると、ジョニィが不貞腐れた顔で小さく頷いた。


 ガラス片を店内に撒き散らした自動扉を抜け、ライアンが先に店内に足を踏み入れる。

 棚と棚の合間へ電灯の光と銃を向けながら丁寧に確かめていった。やはり、誰もいない。カウンタの奥を照らすと、白衣を着た男が倒れていた。ライアンはカウンタを回り込んで慎重に近付き、白衣の肩をブーツの爪先で小突いてみた。

 何の反応もない。光を当てると、その後頭部に銃孔らしき傷が開いていた。大丈夫だ、とエマへ伝え、電灯を手渡す。看護師見習いが恐々と死体を跨いで奥へ入り、抗生物質を探しながら、

「……あなたの名前、ライアンだっけ」

「ああ」

「あのセールスマンの名前は、ロイっていうんだって」

 それがどうした、と訊ねかけるが、電灯の照り返しの光を浴びるエマは真剣そのものの表情で、

「でも〝オタク〟の名前は知らない」

「……そうか」

「誰にも名前を知られないまま、彼は死んでいったのよ。私はせめて……名前くらいは、誰か一人でいいから覚えておいて欲しい」

「……エマは看護師見習いで、赤毛の美人」

 こちらを向いた相手へ、

「覚えたよ」

 エマは、照れ臭そうに小さく微笑んだ。


 幾つかの抗生物質の箱と、飲料水と食糧を籠一杯に詰め、ライアンとエマはセダンに戻った。エマはすぐに、数種類の抗生物質のカプセル剤をジョニィへ渡した。

「体重に合わせて呑んでもらうけど」

 ミネラルウォーターのペットボトルもジョニィに持たせ、

「きつめの薬だから、眠くなるかも知れない」

 後部座席に座り、デイジーの口へカプセルを運ぶ。ライアンはジョニィへ、

「俺が運転する。助手席へ移ってくれ」

 ジョニィは何もいわず、席を移動した。ひどく怠そうだ。ドラッグ・ストアから持ち出したチョコレートバーを勧めるが、

「……食べ物はいらねえ。気分が悪いんだ」

 ちびちびとミネラルウォーターを口にしている。運転席に座ったライアンは炭酸飲料の缶を開け、一気に飲み干した。自分が喉が渇いているのに気付かないほど、ずっと緊張し切っていたのだ。

 ステアリングを握ると、メーターの脇でガソリンランプが点滅し、燃料がほとんど残っていないことを知らせた。ジョニィの奴、ガス欠に気付かないくらい弱っていたのか……

 ジョニィは抗生物質が効いているのかどうか、眠ったように硬く目を閉じている。ライアンは燃料のない事実を後部座席へ伝え、

「このままじゃ、立ち往生しちまう」

「燃料はあったとしても……どこへ向かえばいい?」

 ロイから訊ねられ、少し考えてから、

「空軍の基地へいこう」

「あの、山腹の?」

「ああ。渓流を橋で越えた場所にある。基地なら、〝奴ら〟を迎え撃てるだけの人材も装備も揃っている。基地内にも病院はあるはずだ」

「それはいいとして……どうやって給油するんです? 近くのガソリンスタンドは引火して、近付けもしない」

「救急車が使えるかも」

 エマが身を乗り出していう。

「救急搬入口に停まってる救急車なら、すぐに動かせるようになってるはず」

「……それでいこう。病院に戻るだけなら、ガスも足りるはずだ」


 +


 車寄せから脇に逸れ、総合病院の救急搬入口へ静かにセダンを近付けた。

「……いけるかもな」

 縦列駐車された自動車の中に、後部扉を開け放ったままの一台が見える。ライアンはセダンを寄せて停め、救急車の運転席を覗き込む。鍵が刺さったままなのを確かめ、

「来い。乗り換えよう」

 ふらつきながらも、ジョニィも自分で降りて来た。助手席に乗るよう指示し、デイジーを後部車内のストレッチャーに乗せるのを手伝い、エマとロイにもそのまま後ろに乗ってもらい、運転席に乗り込んだ。

 エンジンを始動して救急車を発進させる。少し前へ進んだ時、脇のミニバンの中で人影が動き、ライアンを驚かせた。サイド・ウィンドウを開けると、助手席の窓も少しだけ下がり、ねえ、と声がした。

「お水持ってない?」

 小さな顔が、窓の奥の暗がりに見え、

「ほんとは、知らない人からもらっちゃいけないんだけど」

「……水も食べものもある。パパとママはどうした?」

「ママと来たんだけど、ここで待ってろって」

「いつの話だい」

「お昼ご飯を食べた、そのすぐ後」

 するとこの子供は半日以上も、車の中でママの帰りを待っていたことになる。おい、と隣でジョニィが声を上げ、

「早く出せ。何か、病院の中でやばい動きがあるぞ」

 助手席の窓越しに覗くと、薄暗い非常灯が点々と光る救急搬入口の長い通路の奥に、巨大な物体の動く様子があった。

「何だ、ありゃあ」

 とジョニィが呟く。

 あれは……〝奴ら〟じゃない。ライアンは急ぎ子供へ向き直り、

坊やキッド、名前は」

「教えちゃいけない、ってママが」

「キッド、その車を出るんだ。扉の開け方は分かるな?」

 運転席の扉を開け、

「お前さんは充分ママのいいつけを守った。次は、ママが何を望んでいるかを想像して動くターンだ」

「やばいぜ、おい」

 ジョニィの声色に脅えが加わる。ライアンも焦り、

「ママが望んでいるのは、お前さんが俺たちと一緒にここから逃げることなんだ」

「……でも」

「俺たちが去ったら、もうここには誰も来ない。ママもパパも、たぶん警察も来ない。今逃げるしかないんだ」

 今でははっきりと〝変異体ヴァリエント〟がこちら目掛け突進する物音が聞こえていた。

「キッド、見ろ。チョコレートバーだ」

 ジャケットから菓子を出し、ジョニィのペットボトルも手にし、

「水だってある。そのままお前さんが干からびるのを、ママが望んでいると思うか?」

 ミニバンの扉が開き、十歳にも満たない少年が現れた。

「急げっ」

 片手を伸ばしてキッドを思い切り引き上げて膝の上に乗せ、アクセルペダルを潰すように踏みつけ、救急車を急発進させた。

 後輪の辺りに衝撃があり、車体が大きく揺れるが、辛うじて〝変異体〟の突進を凌いだ救急車は幹線道路に戻り、そのバックミラーには暗闇以外、何も映っていなかった。


 +

 

 キッドはチョコレートバーとミネラルウォーターを胃に納めたことで満足したらしく、運転席と助手席の合間、コンソールボックスの上に座ったままライアンにもたれ、居眠りを始めた。

 しばらくすると、ママ分かったよ、とうわ言が聞こえ、それはジョニィのものだった。

 衰弱しているのか安定しているのか、ジョニィは浅い眠りに落ちては目を覚ますのを繰り返していた。大丈夫か、とライアンが声を掛けると、

「ああ……夢を見ていただけだ」

「効いたか、薬は」

「分からねえ。寒いぜ、今も」

「もうすぐ橋が見える」

 街灯の光だけが真っ直ぐ先まで続く世界がフロントグラスの先にあり、

「橋を越えたら、基地はすぐだ。そこまでいけば、もっと本格的な治療もしてもらえる」

「かもな」

 ジョニィはぼんやりとした口調で、

「治療されたところで、どうせろくでもない人生さ」

「……捨てたもんじゃないだろ」

ヤク中の親の傍でずっと過ごすのが、か?」

 せせら笑い、

「俺は、母親を殺すことだけを生き甲斐にしてきたんだぜ。そのために散弾銃ショットガンも買ったんだ」

「……ママはどうしているんだ。まさか……殺したのか」

「いや。一年前に、勝手に死んだよ。交通事故であっさりとな。俺は収まらない怒りの代わりに弾薬ショットシェルを詰めた散弾銃を鞄に入れてな、街へ繰り出しては、そこで銃を撃ちまくって最期に自分の頭を吹き飛ばす様を想像してた、ってわけだ」

「……趣味が悪いぜ」

「計画を実行するには、俺は常識人すぎたんだよ。でもよ、結局、先見の明があったってことだろ? 銃はこの地獄で唯一、役に立つ道具なんだから。〝奴ら〟を幾人か倒し、最期には俺の精神を苦しみから完全に解放してくれる……あんたに捨てられちまったがね」

 救急車の中に沈黙が降り、

「なあ、ジョニィ」

 ようやくライアンはそう口にし、

「俺たちは今、運命共同体だぜ。この状況が落ち着いたところでお互い、高級レストランでディナーを食べながら投資話をする身分にはなれないだろうが、どっちかの家でビールを飲みながら、愚痴をいい合うことくらいはできる。それで、充分じゃないか?」

「……普通の家族みたいに、か」

「家族。隣人。戦友。なんだっていい」

「……悪くねえな」

 ライアンは、ステアリングを細かく操作する。車体が自然とガードレール側へ寄っている気がしたからだ。いや、実際に救急車が傾いて——

 突然、助手席の窓ガラスが割れた。触手が車内へ侵入し、ジョニィの首に巻きついた。キッドが目を覚まし、悲鳴を上げた。

——〝変異体〟が救急車の後ろに、へばりついていやがったのか。

「助け……」

 そう訴えるジョニィごと扉が引き剥がされ、〝変異体〟とともに道路へ転がり落ちる様子が、バックミラーに映った。ライアンは救急車を急停止させ、急ぎ道路へ出て回転式拳銃リボルバーを構えた。

「撃て。俺を撃ってくれ」

 触手を体に食い込ませ、巨大な〝変異体〟に抱きかかえられるように宙吊りとなったジョニィが血を吐きながら、ライアンへ懇願する。

「頼む……」

 ライアンは引き金を絞ろうとするが、できなかった。すぐにジョニィの声が聞こえなくなり、後は〝変異体〟の餌食となるばかりだった。すぐ傍で激しい物音が聞こえ、後部の扉が開き、ロイが飛び出して来た。

「デイジーの容態が急変して……」

 車内を覗くと、デイジーが友人の首筋に食いつき、音を立てて貪っている。呆然と、銃口をデイジーへ向けた。手遅れであるのは、分かっていた。

——もう基地は目の前だっていうのに。

 横から、回転式拳銃をロイに奪われた。ライアンは驚き、

「……何をしてんだ」

「あんたを助けたのは、銃を持っていたからだ」

 ロイは真っ直ぐにこちらを見詰め、

「私は銃が欲しかったんだ。自分用の銃が」

「落ち着け、ロイ。残り一発しかないんだ。俺の方がうまく扱える。返してくれ」

「ジョニィのいう通りだ」

 その両目から涙が流れ出し、

「もうこんな世界には、耐えられない」

 やめろ、という言葉に銃声が被さり、ロイは自分のこめかみを撃ち抜いた。その轟音に車内の——数分前にはデイジーだった——〝死者〟が反応し、エマから身を離した。ライアンは力の抜けそうになる体を何とか動かし、後部扉に手を掛け〝死者〟を閉じ込めた。

 〝変異体〟もこちらに気付き、もう半分ほどの大きさに減ったジョニィを道路に落とし、筋肉を膨らませ、小山のような全身で襲い掛かろうとする姿勢を作った。

 ライアンは急ぎ運転席に戻り、不安げなキッドに隣へ移るよう指示して、救急車を発進させる。背後の覗き窓の向こう側で、デイジーが外に出ようと暴れている。速度を限界まで上げると、ようやく四脚で駆ける〝変異体〟がバックミラーの中で小さくなった。

 救急車が大きな鉄橋に差し掛かり、下方から、渓流の水音が届いてくる。もう、ほんの少しで——

「ライアン、あれ」

 助手席のキッドが前方を指差す。軍の装甲車や人員輸送車が橋の上に、無造作に乗り捨てられている。ライアンは救急車の速度を緩めた。

 爆発音が響く。橋の先のゲートの奥で、炎と黒い煙が大きく吹き上がった。

 救急車を停め、ライアンとキッドは燃え上がる空軍基地を眺めた。シートの背もたれに〝死者〟の暴れる振動が届いている。それがいつの間にか、二人分に増えていた。

——ここが地獄じゃないなら

 バックミラーが、獣のように駆ける〝変異体〟の姿を映している。

——他のどこにあるってんだ?

「キッド」

 この世界に耐えられなくなった時は——

「この世界は、最低だな」

「……うん」

「もっといいところに、旅立とうぜ」

「いいところ?」

 目を丸くするキッドへ、

「ああ。痛みもなく、喉も渇かない。そこは……ちょっとの苦しみもない世界なんだ」

 キッドは何も答えなかった。

 ライアンは思い切り、アクセル・ペダルを踏み込んだ。救急車がどんどん速度を増し、エンジンが悲鳴を上げる。

——あれがいい。

 橋の中央で立ち往生する装輪装甲車。あの正面へ、全速力で突っ込めば——

 キッドの小さな両手が、ライアンの腕を強く握り締めた。思わずライアンはブレーキ・ペダルを踏み、装甲車を避けた。救急車が傾き、大きく車体を振りながら、橋の上で停まった。冷や汗が、ライアンの全身を包んでいる。キッドを見た。小さな顔に、安堵の表情が浮かんでいた。

「……何もないよりは」

 見詰め返す真剣な瞳へ、

「もの凄く小さくても、何かがある世界の方がいい。どうだ?」

 そうだね、とキッドが答えた。

 運転席の扉を開け、小さな体を抱えて道路に降りた。鉄橋の手摺りに寄り、遥か下方に流れているはずの川を見下ろした。闇の先から、ノイズのような水音だけが届いてくる。それでも。

「いいか。両足を揃えて、棒みたいになるんだ」

「ここから、飛ぶんだね」

「ああ。うまくけば……いや、きっとうまくいくさ」

 橋を揺らす〝変異体〟の重々しい足音がすぐ傍に迫っている。手摺りを越えて、

「いくぞ、キッド」

「ハンス」

 少年がライアンを見上げ、

「僕の名前は、ハンス」

 ライアンの腹の底から、久し振りに本物の笑みが沸き上がった。

「よし。ハンス、いくぞ」

 〝変異体〟の地鳴りのような咆哮を間近に聞いたライアンはハンスの体を抱き寄せ、橋から跳躍する。

 ずっと先の川面——小さな希望へ向かって。

(了)

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エスケープ・ザ・デッド 鼎量(かなえ・りょう) @kanae-ryo

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