第3話 脱出

 慎重に通路を覗き、ひと気がないことを確かめたライアンは、事務所内を一度だけ振り返った。

 皆が緊張に満ちた面持ちで、しかも——ジョニィでさえ——縋るような目付きをしている。ライアンは意を決して頷き、通路に出た。

 バットを両手で握り、足音に気をつけながら歩を進める。〝奴ら〟は音に敏感だ。

 スタッフ・エリアに〝奴ら〟はいなかった。その先の曲がり角、突き当たりに階段の出入口が見えている。慎重に進み、曲がり角が近付くにつれ、〝奴ら〟の物音が耳に入るようになる。

 角に立つと、吹き抜けから見えてしまう。ライアンは身を屈め、できるだけ手摺りから離れて階段の踊り場に入った。

——クソ。

 階上で〝奴ら〟が蠢いている。一人の人間を、大勢で貪り食っていた。ライアンは吐き気を催し、慌てて腕で口を覆った。無理やり駆け上がるか、とも考えるが、今も膝に痛みがある。ライアンは静かに階段から引き下がった。

——どうする。

 曲がり角の床に這いつくばり、恐る恐るロビーを覗き込んだ。備えられたモニタが無音で映画の予告を流していた。映像の瞬きが〝奴ら〟を集めており、階段の出口辺りにも、大勢がたむろしている。

 ライアンは伏せたまま、曲がり角から三〇メートルほど先に見えるエレベータへ前進を始めた。軍隊時代の訓練を思い出すが、十年前に在籍していた当時と比べて体力の衰えは明らかで、半分もいかないうちに体中の筋肉が悲鳴を上げ始めた。

 ロビーからは〝奴ら〟の呻き声が絶え間なく聞こえてくる。じりじりとしか進まない動きの中、恐怖と焦りで頭がおかしくなりそうだ。

——おかしくなった方が楽かもしれないぜ、ライアン。

 ようやくエレベータに着き、静かに体を起こしてしゃがみ、ボタンに手を伸ばす。上階からエレベータが降りて来た。扉が開き、急いで乗り込もうとしたライアンはエレベータの中に、倒れた男と覆い被さってその腹に食らいつく恋人らしき女を見た。

 女がライアンに気付き、立ち上がった。襲い掛かって来る女の動きに合わせ、ライアンはその後頭部へバットを横殴りに振った。鈍い音とともに女が通路へ倒れ込む。その隙にエレベータに乗って扉を閉めることができた。

 痛いほど心臓が激しく鳴っている。最上階を目指し、エレベータが動き出した。腹の破られた死体から目を逸らし、階数表示を見上げていると、背後で物音がした。

 死体が起き上がろうとしている。

——五階はまだか。

 よろめきつつ〝死者〟が両足で立ち、内臓を床へこぼし、顎を大きく開け、目を剥いてライアンへと近寄って来る。狭い空間の中、咄嗟にバットのグリップエンドを突き出すと〝死者〟の口に嵌り込み、ライアンは少しでも相手を遠ざけようと必死になった。〝死者〟の両手が、ライアンの革ジャケットをつかんだ。

 到着のチャイムが聞こえ、扉が開き、〝死者〟とともに五階の通路へと倒れ掛かった。急ぎ体を起こし、バットを引き抜こうとするが、〝死者〟の顎ががっちりとくわえ込み、どうしようもなかった。ライアンは唯一の武器と〝死者〟をそこに置いたまま、痛む膝を庇いながら奥へ走ると、通路に座り込む初老の男が顔を上げた。両目が真っ赤に充血している。こいつも、〝奴ら〟だ。

 ライアンは『制御室』のプレートが貼られた扉を見付け、ノブが回るのを確認すると、素早く室内へ体を滑り込ませ、鍵を締めた。制御卓コンソールとモニタが壁際に並び、ライアンはそれらしきボタンを片っ端から押し、レバーを上げ、ダイヤルを回した。扉を外側から〝奴ら〟が叩き初め、ライアンをぞっとさせる。このやり方がうまくいかなかったら……俺は死ぬまでここに閉じ込められることになる。

 各階の劇場が、上映を開始した。アメコミ・ヒーローにCGアニメーションに、サイコホラー。監視カメラが、防音扉から洩れるその音に気がついた〝奴ら〟を映し出している。少しずつ、〝奴ら〟が移動を始めた。

——いいぞ。

 一人が扉を押し開けると場内の音がロビーへ大きく響き、続々と〝奴ら〟を呼び寄せている。制御室の扉を叩く音が消えた。しばらく待ってから、ライアンは扉を開ける。〝奴ら〟二人が吹き抜けを覗き込み、階下へ引寄せられている。一人の口からは今も、バットが垂れ下がっていた。ライアンは静かに部屋を出て背後を通り抜けると、エレベータに乗り込んだ。

 三階に着くと、先ほどはエレベータの中で恋人のはらわたを食べていた〝死者〟が、手摺りからロビーへ身を乗り出している。ライアンはそっと背後に近付き、その両足を抱えて持ち上げ、一階へ放り落とした。〝死者〟は真逆さまに硬いフロアに激突し、動かなくなった。頭を損傷させれば〝奴ら〟は動かなくなる、というオタクの話は本当らしい。

 ライアンは、スタッフ・エリアから顔を覗かせ様子を窺う連中へ手招きする。階段よりもエレベータを使った方が、エントランスに近い。デイジーの両脇をエマとサラリーマンが支え、全員がエレベータまで走って来た。中へ乗り込み、ようやく息をつくことができると思った瞬間、天井の明りが消え、エマが悲鳴を上げた。すぐに照明が点いたが暗く、

「……停電だ」

 といったのはオタクで、

「電力を使いすぎたんだ」

「ヘマしやがって」

 ジョニィがこちらを睨みつけ、

「閉じこめられるのか、ここに」

「いや……予備電源が働いてるから、一番近い階に止まるはずだよ」

 オタクのいう通り、再びエレベータがゆっくりと動き出した。

「まずいな」

 セールスマンが小窓から外を窺い、

「映画の上映も止まったみたいだ」

 エレベータが二階で停まり、その到着を知らせるチャイムが、静まり返ったロビーに響いた。

 二階の劇場の扉が開き、〝奴ら〟が溢れ出した。一つの意志を持つ生きもののように、真っ直ぐこちらを目指している。エレベータを出たライアンは、吹き抜けを覗き込み、

「飛び降りるしかない」

 金属製の手摺りを登って五人へ振り返り、

「この高さなら、死にはしない」

 迷いを呑み込み、ロビーの低い植え込みへと飛び出した。葉の集まりがライアンを受け止め、体中に細かな枝先が突き立った。ジョニィとセールスマンがこちらの両脇に、立て続けに落ちて来た。

 ライアンは植え込みの中に立って二階を見上げ、

「早くしろ」

 娘二人とオタクへ、

「受け止めてやる。飛べ」

〝奴ら〟が少しずつ距離を詰めている。意を決したらしく、エマが力の入らない友人を持ち上げようとする。オタクがそれを手伝った。突き落とされるように、デイジーが一階へ降って来る。セールスマンと二人で、何とか受け止めることができた。エマも、その隣に落ちて来た。誰にも怪我はない。後は……オタクだけだ。

「どうした」

 見ると、オタクは手摺りに足を掛けていたが、

「駄目だ」

 飛び降りるのを躊躇っており、

「枝が怖い。僕は、先端恐怖症なんだ」

「飛べよ。目をつぶって、飛べ」

 〝奴ら〟がすぐそこまで迫っていた。オタクは懸命に手摺りを乗り越えようとしていたが、

「無理だよ」

 涙と鼻水を流して顔を歪め、

「僕にはできない。小さな頃から、ずっと……」

 言葉が悲鳴に変わる。オタクを向こう側に引き摺り倒した〝奴ら〟が、その体を食らおうと次々と群がって来る。オタクの姿が〝奴ら〟の中に隠れ、ライアンは目を逸らした。

「奴はもう駄目だ」

 ジョニィが冷酷にいう。

「逃げるぞ」

 一階の映画館からも〝奴ら〟が現れ出した。ライアンは、エマとともにデイジーを脇から支え、駐車場を目指しエントランスを抜けた。


 +


 夜気に包まれた駐車場の中、目的のセダンは街灯の真下にあった。セールスマンが遠隔操作で扉を解錠すると、ジョニィが散弾銃ショットガンの先でライアンを指し、

「お前が運転しろ。他の三人は、後ろに乗れ」

「運転してもいいが」

 ライアンは両手を挙げ、

「俺の銃を返してくれ」

「駄目だ」

「争う意味もないだろ。俺はこれでも、軍隊出身なんだ。銃の扱いには慣れている」

「いいか……今は俺がリーダーだ。お前に銃を持たせたら、関係性のバランスが変わっちまう。バランスを崩すと結局、お互いのためにならねえのさ」

 隣のバンの陰から〝死者〟が現れた。ゆっくりと、ジョニィの背中へ近付いて来る。セダンの周りに立つエマもセールスマンも〝死者〟に気付き顔を見合せていたが、ジョニィへ知らせようとはしなかった。かわいそうなジョニィ。

「大人しく、運転席に乗りな。早くしないと、置いていくぜ」

 勝ち誇った顔でいうジョニィへ、

「後ろに気をつけな」

 ライアンの言葉に、ジョニィは慌てて振り返った。ライアンはセダンのボンネットを乗り越え、〝死者〟へ銃を向けたジョニィがこちらの動きに反応した瞬間殴りつけ、コンパクト散弾銃を奪い取った。

 膝の痛みに低く呻き、目の前に迫った〝死者〟の顔面に銃口を向け、引き金を絞る。相手の頭が、西瓜のように弾けた。素早く先台フォアエンドを引いて薬莢を飛ばし、次弾を装填しようとするが、その感触がない。駐車場に倒れ込んだジョニィが腰の辺りを探るのを見たライアンは、その背中を踏みつけ、デニムに挟んだ回転式拳銃リボルバーをようやく取り上げた。

「ジョニィ、立て」

 散弾銃は捨て、拳銃の先を突きつけ、

「お前が運転するんだ。今の銃声で〝奴ら〟が集まって来るぞ」

 すでに映画館の方から、〝奴ら〟の群がり来る呻き声が聞こえ始めていた。エマとセールスマンがデイジーを間に挟み、後部座席に乗り込んだ。

 ライアンが銃を向けたまま助手席に体を滑り入れると、ジョニィは落ちた帽子を拾い上げて被り直し、肩を竦めて運転席に座り、セダンのスタートボタンを押した。


 看護師のエマの指示に従い、ジョニィはステアリングを切った。後は真っ直ぐ幹線道路を走るだけで、街で一番大きな総合病院に着くはずだった。

ライアンは助手席の窓にもたれ、回転式拳銃の銃口を運転手の横顔へ向け続けていた。

「……なあ、ジョニィ」

 疑問が浮かび、

「お前はどこで散弾銃を手に入れたんだ?」

「俺の銃だ。鞄に入れて、いつも持ち歩いてるのさ」

「〝死者〟が近寄って来た時、何ですぐに撃たなかった?」

「一発しか残っていなかったからだよ」

「あの時撃たずに、いつ使うんだ」

「本気でいってんのかい……」

 一瞬、軽蔑した目線をこちらへ送り、

「最後の一発は、俺の頭に撃ち込むための弾だ。どうしても、この世界に耐えられなくなった時に、な。当たり前の話だろ……」

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