第2話 邂逅
警察署へ向かって真っ直ぐバイクを走らせるライアンは、街の有様に愕然とする。
夕暮れの空へあちこちから黒煙が昇り、銃声と怒号と悲鳴が響き、揉み合う人影が遠くに見え、自動車の衝突音が前後から届いた。
路上に放置された自動車を避けるためにライアンがバイクの速度を落とすと、物陰から飛び出した〝住人〟に捕まりそうになる。
頭がぼんやりとし始めた。この世界で起きていることが、現実のものとは思えない。
——落ち着け。
そう自分にいい聞かせた。まだ世の中が終わったわけじゃない。警察署に着きさえすれば、正確な情報と安全な場所を手に入れることが……
車体からの異様な振動が腰に伝わる。バイクの速度が落ちてゆく。メーターでは燃料はまだ残って……いや、油圧警告灯が光っている。ライアンは舌打ちをした。
——エンジン・オイル漏れか。
まずい。このまま走り続ければ、エンジンがやられちまう。だが……警察署も、もう遠くはない。
バロック風の角張った建物が視界に入った。ようやく安堵し、車速を落とす。建物の前には大型警察車両が堂々と並び、普段よりも威厳に満ちて見えた。
警察署の入口に向かおうとしたライアンは、最上階の窓を破り炎が噴き出すのを見た。叫び声が起こり、発砲の光が内部で瞬いている。
——何だ、あれは。
窓から、植物の蔓のようなものが数本も突き出し、のたうっている。
——生きものの触手か?
触手と繋がる巨大な何かが、建物の中で暴れる気配があった。
ライアンはバイクの速度を上げ、警察署を走り過ぎた。〝安全な場所〟にはとても見えない。本能が、一刻も早くこの場を離れろ、と命じていた。
——どうする。
街の中心部へ近付いている。人口の多い場所へ向かうのが正解なのか、こうなっては判断ができない。ステアリングを切り、脇道へ入った途端、車速が落ちた。エンジンが激しく振動し、今にもバイクがばらばらになりそうだ。
バランスを崩し、ライアンは放り出されるように、路上に倒れ込んだ。バイクが大きな音を立て、横転する。その音に、周りにいた〝奴ら〟が振り向いた。まずいぞ……
ライアンは必死に起き上がり、その場を離れようとする。路面で打って痛む膝を庇いながら植え込みを掻き分けると、目の前にアメコミ・ヒーローの描かれた大きなタペストリーが現れた。映画館の裏手に出たのだ。畜生、肝心な時にヒーローなんていないじゃねえか。
壁際の空間に、〝奴ら〟が集まって来た。ライアンは腰から
——間違いない。
〝奴ら〟はすでに死んでいるのだ。ライアンは懸命に、思考を働かせようとする。銃が効かなくとも〝奴ら〟の動きは鈍い。その合間を擦り抜けて逃げれば……
数十人の〝奴ら〟が唸り声とともに、こちらに食らいつこうと何重にも集まって来る。膝が痛み、ライアンは逃げ切れないことを悟った。
絶望は鈍色をしていた。濃い灰色が、素早く心を塗り潰そうとする。
——〝奴ら〟と同じになるくらいなら、いっそ。
ライアンは銃口を、こめかみに当てる。
早く、という声が頭上から降り掛かり、ライアンは我に返った。見上げると、消火用のホースが三階の窓から下がっている。
「つかまって。上がって来るんだ」
窓の中から、数人の男女が顔を覗かせていた。ライアンは慌てて銃を腰に差し、ホースを握った。死に物狂いでホースをつかみ寄せ、体を引き上げる。ブーツの踵を〝奴ら〟の指先が掠めた。ライアンは言葉にならない叫び声を上げながらホースを手繰って昇り、三階の窓に達すると、建物内に体を転がり込ませた。入れ替わるように、〝奴ら〟に引っ張られたホースが地上へ落ちてゆく。
+
ありがとう、と室内の男女へ伝えようとするが、息切れがひどく、窓際に座り込んだまま、なかなか言葉にならない。あんた重いな、と目前の男がいった。
「引き上げようとしたんだが、なかなかうまくいかなかったよ」
茶色のネクタイを締めた、セールスマンらしき中年の男がいった。隣に立つ小太りの若者とともに、ホースを持っていてくれたらしい。狭い室内は事務所のようで、映画グッズの積み重なった棚の前に二人の若い娘が座り込み、もう一人、三十歳前後の男が不機嫌な顔でその脇に立っていた。男がライアンの前に進み出ると、
「早く立て」
ポンプアクション式のコンパクト
「後ろを向いて窓へ寄れ。腕をまくれ。首筋も見せろ」
「何だって……」
「〝奴ら〟に噛まれていないか、確かめるんだよ。早くしな。俺はあんたを助けるのに、反対したんだぜ」
ライアンは両手を挙げて立ち上がり、逆らわず窓の方へ向いた。外では今も大勢の〝奴ら〟がこちらを見上げ、蠢いている。ライアンは、
「〝奴ら〟に噛まれると、どうなるんだ」
「〝奴ら〟の同類になるのさ」
「あの狂犬病は、人から人にも移るのか」
「何をいってやがる」
片手で手荒くライアンの傷を確かめながら、
「狂犬病? この騒動は初めから人間同士の問題だぜ」
男がライアンの腰に差した拳銃を抜き取った。
「ジョニィ、やめるんだ」
セールスマンがそう声を掛け、
「銃は、その人のものだ」
「……ライアンだ」
ジョニィと呼ばれた男へ顔だけを向け、
「噛まれてないと分かったら、返してくれるんだろ?」
「さあて、な」
回転式拳銃を自分のジーンズの腹に差し、
「俺が持ってる方が、役に立つだろ」
ライアンは閉口するが、話の続きがどうしても気になり、
「報道では狂犬病だと……」
「最初の報道では、確かにそう伝えていましたが」
小太りの——いかにもオタク、という雰囲気の——若者が早口にいう。
「最新情報では、違法ドラッグの蔓延か神経麻痺を発症させる伝染病の可能性も、と発表されています」
「違うね」
ジョニィが遮り、
「俺は、人から人に感染する様を劇場の二階席で見ていたんだ。空気感染はしない。噛まれたら、病気が移るのさ。〝奴ら〟は人を襲う。食うんだよ」
ライアンは相手を刺激しないよう、ゆっくりと振り返った。銃口は今も向けられている。その先の四人を見回し、
「あんたらは皆、ここで映画を観てたのか。どうやって〝奴ら〟から逃げたんだ」
「私は、前方の席で騒ぎ出した男がいたから、いったんロビーに出たんだよ」
セールスマンがいう。
「今思えば、発症が始まっていたんだろう」
「僕も映画を観てたんだけど」
オタクがいい、
「つまんないから
「私は……私、エマっていうんだけど」
ショートカットの娘が隣の、紫色に髪を染めた女子を示し、
「友達が気分が悪いっていうから、外で介抱しようかと。デイジーは風邪を引いていたの」
デイジーという名の娘は膝を抱えてうな垂れ、顔を上げる様子もない。ライアンはもう一度窓の外を見下ろし、
「一体〝奴ら〟はどんな病気に罹ったんだ」
独り言のようなものだったが、
「噂みたいなものだけど」
オタクが大画面の携帯端末を操作して、
「中国の山奥で何かの虫に噛まれた研究者が新種のウィルスにやられて、検疫を擦り抜けて国内に入ったのが原因だとか」
「誰の発表だい」
「研究者の暴露、って話だけど本当かどうかは分からない。ウィルスの潜伏期間が人によって数分から半日のずれがあるとか、内容には現実味を感じるけど……ああ、時間が経つと感染者によっては内臓が触手化して体から飛び出す、なんて情報も載ってたよ。〝
「馬鹿馬鹿しい」
ジョニィがデニムジャケットの袖で額の汗を拭き、
「そんなもの、与太話に決まってる」
「……いや、俺はそれらしきものを見た」
ライアンがそう告げると、皆が息を呑んだ。記憶を辿り、
「警察署の中で暴れ回っている〝何か〟がいたんだ。そいつのせいで、建物に近付けなかった」
「待ってくれ」
セールスマンが身を乗り出し、
「あんたは警察署にいったのか。この街の警察はもう、機能していないのか?」
「していないな。残念ながら。警察署はまるで……戦場みたいになっていた」
「そうか」
残念そうに、
「私たちは、警察で保護してもらおうと考えていたんだが……」
「無駄だよ」
ジョニィが顔を歪め、
「警察官の銃声が〝奴ら〟を呼び寄せてるだろうぜ。機関銃やバズーカで迎え撃っていなけりゃあ、今頃は警察官全員が〝奴ら〟の胃の中に収まってるか、お仲間になってるさ」
スニーカの爪先で足首を掻きながら、
「こんな時に、頼りにならねえ奴らだ。もっとも、警察官が役に立った、なんて話は聞いたことがねえけどな。俺を見掛ける度に、
「警察よりも、病院にいきたい」
エマがそういい出し、
「デイジーの震えが、どんどん酷くなってる」
「待てよ」
ジョニィが睨みつけ、
「お友達のシャツの袖をまくってみろ。血が出てんじゃないのか」
「……出てない」
「嘘をつくな。おい、お前ら全員、窓際に並べ」
散弾銃を構え直して命じる。セールスマンとオタク、だるそうなデイジーを支えるエマも窓際に移動し、ライアンの横に並んだ。デイジーは立っていることさえ辛いらしく、すぐに腰を下ろしてしまった。その拍子にシャツの袖がめくれ、生々しい傷口があらわになる。やはり、人の歯形だった。
「思った通りだ」
ジョニィが勝ち誇るように、
「その女を、窓から落とせ」
「馬鹿いわないで」
エマが抵抗し、
「病院に連れてゆくの。今から」
「いけるもんか。いけたとしたって、治療ができると思うか?」
「取りあえず、抗生物質を投与する」
「専門家みたいな話し方をするぜ」
「私、看護師だから……研修中だけど」
「ふん。抗生物質なんぞ、効くもんか。女を落とさないなら、全員をここで撃ち殺す。本気だぜ」
「あんたも、噛まれているんだろ」
ずっと相手を観察していたライアンは、ジョニィを見据え、
「顔色が悪いぜ。汗も止まらないじゃないか」
「ふざけんな。俺の話をしてんじゃねえ」
「さっきから足首を気にしてるが」
顎で示し、
「あんたこそ、デニムの裾をめくったらどうだ?」
「這いずっていた奴に、つかまれただけだ。噛まれたわけじゃねえ」
「見せて」
エマに強くいわれたジョニィは舌打ちをして、ジーンズを片手で摘み、裾を引き上げた。素肌の足首には爪痕らしき太い線が引かれ、それが紫色に盛り上がっている。
「あなたも病院にいった方がいい」
エマが真剣な口調でいう。
「このままいても、病状が悪化するだけよ」
「事務所から一歩も外に出られない俺たちが、どうやったら病院へ辿り着けるんだ?」
「私の車がある」
セールスマンが躊躇いつつ、
「会社の営業用の車です。入り口近くの駐車場に止めてある。ただのセダンだけど、詰め込めば全員入るでしょう」
「営業さぼって映画鑑賞、か。いいご身分だな」
ジョニィは吐き捨てるように、
「駐車場へいく前に、ロビーにうじゃうじゃいる〝奴ら〟につかまっちまう」
「だからって、いつまでもここに隠れていることはできない」
エマの反論に、
「わざわざ自分から餌になりにいくのか? いけよ、勝手に。俺はご免だね」
「〝奴ら〟に映画を観せてやろう」
ライアンがいうと、事務所内が静まり返った。訝しげな目を向ける連中へ、
「大音量で映画を流すんだよ。うまくいけば、それぞれの劇場内に〝奴ら〟を誘い込めるだろう」
「それだ」
セールスマンが興奮気味に、
「ここの劇場の扉は両開きだ。外からでも押すだけ簡単に入れる。誰かが場内の音に気付いて動き始めれば、どんどん後に続くはずだ。あらかた内部に入り込めば……脱出もできるんじゃないか」
「この映画館は全部デジタル上映だから」
オタクが携帯端末で情報を読みつつ、
「一番上の五階で、全部のスクリーンを制御してるはずだよ。階段で二階分上がるだけだから……無理な話じゃないよね」
ジョニィがうんざりした顔で、
「……誰が五階へ向かうんだ」
「俺がいく。一人でいい」
すかさずライアンが答え、
「だから、銃を返してくれよ」
「……駄目だ」
ジョニィは土気色の顔を歪め、
「それ、持っていきな」
棚に立て掛けられた金属バットを散弾銃の先で示し、
「うまく上映できたら、病院へいってやってもいい」
「……階段はどっちだ」
「扉を出て左だ。それ以上先にはいくなよ。四階分が吹き抜けになっているからな、一階のロビーから丸見えになるぜ」
「……いいだろう」
ライアンは散弾銃の銃口を意識しながら窓際を離れ、バットを手にして、扉へ向かう。
「〝奴ら〟を倒すなら、頭を狙って」
オタクがそう言葉を投げ、
「それ以外の箇所を損傷させても、動きを止めることはできない、って。ネットで」
ああ、と返答をしながらも、自分の発案に後悔し始めていた。
——自殺行為だぜ。
扉に耳を当て、外の様子を確かめる。何の物音もしなかった。ライアンはノブをつかみ、静かに扉を引き開ける。
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