エスケープ・ザ・デッド

鼎量(かなえ・りょう)

第1話 発症

 ライアンは、トレーラーハウスの扉を叩く激しい音で目を覚ました。

 車内の後部座席から起き上がり、テーブルに載った携帯端末スマートフォンを覗き込むともう時刻は夕方で、ということは、貴重な休日をほとんど寝て過ごしてしまったらしい。

 誰かが乱暴にトレーラーを叩き続けている。毒突きながら近付き、扉を開けた。冬の気配を含んだ風が車内に入り込み、ライアンは身震いする。

 トレーラーの前に立っていたのは、空軍時代の上官だった。ライアンは驚き、

「軍曹、こんな田舎までどうしたんだい……退役軍人に恩給でも配りに来たのか」

 軍曹は、ぎこちなく笑っただけだった。その顔に、たくさんの汗の玉が浮かんでいる。十年前に軍隊を辞めて以来、会うのは初めてのことだ。入りなよ、と誘うと軍曹は車内に上がって来た。嫌な臭いが漂い、ライアンは顔をしかめる。何かが腐るような臭い。

「大丈夫か、軍曹」

 ふらつき、後部座席に腰を落としたかつての上官へ、

「こんなところまで、何しに来たんだい。あんたは確か、グアムの基地かどこかに……」

「……休暇さ」

 汗をブルゾンの袖でしきりに拭い、

「釣りをしに来たんだ。こっちの基地の前に、でかい川が流れてるだろう。そこで、鮭が釣れるんだ」

 横目でライアンを見やり、

「で……お前さんがこの辺りに住んでいるのを思い出したもんでな、黒ん坊」

「ありがたいね。白豚殿」

 差別語をいい合うのは、二人の間の冗談で、信頼の証しでもある。ライアンは冷蔵庫を開け、

「歓迎するよ。何か飲むか……でも、家にアルコールは置いてないんだ。工場のカウンセラーが〝独り身の飲酒はアル中へ真逆さま〟って、うるさくてな……」

「結婚してないのか」

「もう諦めてるよ。ほとんどの人間にとってな、〝週末の射撃を趣味にする共和党支持の黒人〟ってのはサイコパスのお仲間らしい」

「諦める歳でもないだろ。四十歳になったばかりか?」

「諦めた方が、面倒がなくていい」

 軍曹の対面に座り、炭酸飲料の缶をテーブルに置いてやる。軍曹は缶をじっと見詰め、ああ、とつぶやき、

「そうだ。俺はお前に、TVの話をしようと思っていたんだ」汗を拭い、

「暑いな、ここは……TVはあるか?」

「いや、ない」

「なら、PCでいい」

「それもない。メールもNETFLIXもポルノも、携帯端末で充分だ」

「NETFLIX……そうか。バットマンが黒ん坊になったって……いや、そいつはコミックの話だ……」

 軍曹が、薄くなった金髪を両手で掻きむしり、

「阿呆め。バットマンだと? 誰がドラマの話をしたいっていった?」

「落ち着きなよ」

 ライアンは眉をひそめ、

「あんた、調子が悪そうだ」

「PCがなけりゃあ、携帯端末でもいい。そう、報道だ。俺は、報道を観ろっていいに来たんだ。お前のために」

 ライアンは血走った目に気圧されつつ、端末を手に取り、

「……空軍に関する事件でもあったのか」

「そうだ。いや、違う。軍は関係ない」

 軍曹は興奮し、口の端からテーブルへ涎を垂らした。ニュース・アプリを立ち上げると、〝狂犬病〟の文字が目に飛び込んできた。

 ……予防接種を受けていない野犬に襲われ、狂犬病を発症する者が全米で多数発生しており……

——そういうことか。

 ライアンは、落ち着きなく頭を掻く軍曹を盗み見る。釣りに行く途中、奴も野犬に噛まれて体調を崩し、近くに住む俺に助けを求めに来たのだ。

「軍曹、どこを噛まれた?」

 上官は、のろのろとブルゾンの袖を巻くってみせた。前腕に深い歯形があり、ひどい傷になっている。膿んでいるらしく、悪臭が立ち昇った。

「軍曹、ここまでは車で来たのか?」

「どうだったかな……いや、途中で置いてきたよ。気分が悪くて……」

「よし。俺が運転してやる。病院まで、あんたを助手席に乗せて運ぶよ」

「駄目だ」

 軍曹は脅えた顔で、

「街は〝奴ら〟で一杯だ」

 突然、車外で誰かの悲鳴が起こった。続いて、何かがぶつかり合うような音。リックの声か? 隣のトレーラーに住む、同世代の整備工……ライアンは立ち上がり、

「軍曹、〝奴ら〟って何だ」

 食器棚に仕舞った回転式拳銃リボルバーを取り出し、

「野犬が群れを作ってるのか?」

 それほど急激に狂犬病が広がったのか。軍曹はテーブルに両肘を突いて俯き、返事をしなかった。

「軍曹、ここにいてくれ。ちょっと隣の様子を……」

 炭酸飲料の缶が倒れ、テーブルから転がり落ちる。軍曹が全身を激しく震わせ始めた。

——まずいぞ、こいつは。

「救急車を呼ぶ。料金は払えるな?」

 拳銃を置いて携帯端末を操作し、九一一に連絡しようとした時、軍曹が喚き声を上げ、いきなりテーブルを越えて飛び掛かって来た。

 そのまま後方に倒れたライアンは、乗り掛かる軍曹の喉笛を思わず片手でつかんでいた。上になった軍曹は血走った両目を大きく見開き、犬歯を剥き出しにする。その歯茎から血が流れ出した。

「落ち着け、軍曹」

——狂犬病が頭にまで回ってやがる。

 血を滴らせる軍曹の顎が、ライアンの顔面を噛み立てようと迫ってくる。軍曹の指がシャツの上から両肩に食い込み、そのもの凄い力にライアンは悲鳴を漏らした。相手を押し離そうともがき、ブルゾンの袖が引き上げられ、再び傷があらわになる。

——これは、犬の歯形か?

 まるで人が噛んだ痕のようだ……いや、そんなことよりも。

——このままでは、俺が噛み殺される。

 必死に辺りを見回すとテーブルの下に落ちた回転式拳銃が目に留まり、ライアンは歯を食い縛って片手を伸ばした。軍曹の両手につかまれた肩の骨が、砕けそうだ。ライアンは雄叫びを上げ、そして何とか拳銃を手にすると、

「やめてくれ、軍曹」

 相手の額に銃口を当て、

「それ以上、暴れるようなら……」

 軍曹の片手が肩から離れ、銃を握るライアンの指を持った。その力で引き金が絞られ、轟音が鳴り、かつての上官の頭がライアンの目の前で砕け散った。

 返り血を浴びたライアンの叫びは、声にならなかった。ぐったりと覆い被さる軍曹の体を脇へどけ、のろのろと起き上がった。

 トレーラーの中が静まり返っている。ライアンの内側から、心臓が激しく胸を叩いていた。吐き気を覚え、ユニットバスに駆け込んだ。便器へ胃液を吐き出す。クソ、と毒突いた。

——人を殺しちまった。

 こんな日が訪れるのを恐れ、空軍を除隊したっていうのに。

 ライアンはトイレットペーパーを引っ張り出し、洗面台の鏡を見ながら、何度も嘔吐きつつ、上半身に張り付いた頭蓋骨の欠片と細胞組織を拭き取り、便器へ捨てた。恐る恐る、背後を見る。

 もう軍曹に救急車は必要ない、ということだけははっきりしている。これは殺人だろうか? それとも正当防衛って奴か? どっちにしたって……仕事はクビになるだろう。

 死体を跨ぎ越え、携帯端末を探す。ソファの足元で見付かったが、画面が砕けていた。直接警察へ出向き、説明するしかない。


 +


 シャツを替え革ジャケットを着て外に出たライアンは、トレーラーハウスの並ぶいつもの光景をぼんやりと見渡した。ひと気がないのは、ほとんどの住人がまだ仕事に出ているからだ。扉を開けてこの風景を目にする度〝下流階級〟の言葉が脳裏に浮かぶのだが、今の自分の立場が〝底の底〟であるのを認めると、暗澹とした気分となった。何しろ俺は、上官殺しの男だからな……

 野犬のうろついている可能性を思い出し、回転式拳銃をジャケットのポケットから抜き出した。グリップを握り締めたまま、ステップを降りる。本当にあの噛み痕は犬のものなのか、という疑問が浮かぶ。あれは、まるで人間の歯形——

 隣のトレーラーの前で、鍵が刺さったままの大型バイクが横転していた。さっきの騒ぎはやはり……だが、リックの姿がない。ライアンは隣人のトレーラーの扉を叩き、

「おい、リック。大丈夫か? 大声が聞こえたが、あれはお前か?」

 リックはいつも赤い鼻をぐずぐずいわせ、ヤク中ではないかとライアンは疑っていた。幻覚を見て悲鳴を上げたのだとしたら、いよいよ末期症状が現れたことになる。

 車内へ耳を澄ましても返答はなかった。だが、物音が聞こえる。トレーラーの裏からだ。リックはそこでよく、バイクの部品を削ったり塗装したりしている。それでもライアンは慎重に、トレーラーを回り込んだ。拳銃を構えて覗き込むと、いつも通りの作業服を着たリックが仰向けに寝そべり、派手なワンピース姿の女と抱き合っていた。あれは……トレーラーパークの入口近くに住む、ジェシカだ。五十代のウェイトレスで、常に店の不平を独り言でつぶやいている。リックとジェシカができているとは、知らなかった。

 家の中でやれよ、と内心で悪態をついて、ライアンは銃を下ろした。トレーラーの陰に戻り、

「あー、リック。悪いんだが」

 声を掛けるのは気が引けたが、

「バイクを貸してくれないか。愛車に他人を跨がらせたくはないだろうけど、ちょっと今、急ぎの用事があってな……警察にいきたいんだよ。お前には、ビリヤードの賭けで貸しがあったよな」

 二人の物音が止まった。ライアンは遠慮がちに覗き込み、

「起こったことを警察で説明するだけだから、すぐに帰れると……」

 ジェシカが近付いて来る。ライアンは思わず後退った。ウェイトレスは血まみれの顔を憎々しげに歪め、両手をこちらへ伸ばし、よろめきながら歩み寄ろうとしている。

——こいつもか。

「おい、リック。大丈夫か」

 回転式拳銃の先をジェシカへ向け、その奥へ大声で訊ねるが返事はなく、

「近付くな。撃つぞ」

 ライアンの警告にも、女は接近を止めようとしなかった。空へ向けて一発撃つが、それでもジェシカの足は止まらない。咄嗟に銃口を下げ、太股へ向け引き金を絞った。女は俯せに倒れ、それでもまだこちらへ這い進もうとする。

——痛みを感じていないのか?

「クソッたれ。おい、リック」

 呼び掛けが届いたのか、作業服姿の男が、ゆっくりと体を起こした。傾いた髭面を見たマーカクは、愕然とする。隣人の、首辺りの肉がごっそりと欠け、頚椎が剥き出しになっていた。頭がもげ落ちそうなその姿のまま、リックは両足で立つと、唸り声を上げ、ライアンへと足を踏み出した。

——やばいぞ、こいつは。

 隣人がふらつきながら、俯せになった女は両手を地面に食い込ませ、なおもライアンへ向かって来る。

——何か、やばいことが起きてやがる。

 ライアンはその場を離れた。倒れた大型バイクへ駆け寄り、力を込め起き上がらせようとする。古典的な一五〇〇㏄は重く、何度もブーツの靴裏が土の上で滑った。何とか車体を起こし振り返ると、トレーラーの裏からリックとジェシカが現れるところだった。

 ライアンはバイクのスターターを踏みつける。エンジンが動かない。燃料はまだ充分残っていると、メーターが示しているのに。

 歯を食い縛り、もう一度踏んだ。動き掛けたエンジンが、すぐに止まる。よろめくリックと這いずるジェシカがゆっくりと、しかし確実に距離を詰めていた。〝奴ら〟は……俺を食おうとしている? バイクを捨てて逃げ出すか迷うが、

——リックは、前に何といってた?

 コツがあるって話をしていたはずだ。

 涎と血を滴らせる隣人たちが、もうすぐ傍まで来ている。

——短く、浅めにキック。そうだ。

 思い出した通りにスターターを爪先で押し込むと、エンジンが掛かった。間近に迫った〝奴ら〟の気配を感じながら、ライアンはバイクとともにトレーラーパークから公道へ飛び出した。

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