エピローグ
第29話 郵便屋さんの日常
「やあ、君は家猫になったのかい」
窓の外では等間隔に干された洗濯物が風を受けて海を泳ぐ魚のように柔らかく揺蕩っている。気持ちの良い真夏日だった。
その白と黒のまだら模様の猫は、エアコンの効いたリビングの床で気持ちよさそうに昼寝をしていた。掃除の行き届いたリビングには、背の高いキャットタワーや、柔らかいクッションが敷き詰められた猫用のベッドまで用意されている。
「なに、僕は不法侵入者なんかじゃないよ。ちょっと啓の様子を見に来ただけだ」
猫はうるさそうに鎌首をもたげた後、すぐに目を閉じて昼寝に戻った。
「あれからもう、十年経つ」
猫に話しかけているのは、全身を黒で覆い隠した小さな子どもだった。ドクロの紋章が光る黒の学生帽に、詰め襟の学生服、膨れ上がったショルダーバッグを斜めがけにしている。黒く艷やかな髪は肩より少し上で真っ直ぐに切り揃えられ、エアコンの風を受けて静かに揺れていた。
「叶は、二十四歳になった。今は大学院でわらべうたの研究をしながら、夜は学校で警備員のバイトをしている。あんなに自分は弱いと言っていたのに、警備員のバイトを選ぶなんて、面白いと思わないか?」
猫は目を閉じたまま、じっとしている。
「夏樹は――そうそう、夏樹の母親が、君によく似た猫を拾ってきたんだ。名前は、秋……アッキーだったかな?母親は、よく晴れた日になんかに、その子と一緒に近くの公園まで散歩に出かけるらしいよ。まあ、夏樹のあの選択は正しかったのだろうね」
猫は口を開けて、思い切り顔を顰めて大きな欠伸をした。
「そして啓は、こうして君を飼いながら、家庭を持って、順風満帆な人生を送っている。聞いたところによると、フリーの装丁家として活躍しているらしいね。啓が有名になったきっかけは、大地が自費出版した漫画の表紙デザインらしい。啓は大地に頭が上がらないね」
郵便屋さんは首を傾げて、猫の顔を覗き込んだ。
「ふん。君は静かで良いね。僕は静かなやつは好きだよ。君ももう十歳を越えているだろう?どうだい、僕の相棒にならないか?死神の相棒になれば、僕みたいに歳をとらないよ」
猫は退屈そうに、まった一つ欠伸をした。
何も言わない猫にしびれを切らしたのか、しばらくの沈黙の後、郵便屋さんは立ち上がった。
「ふん。そうかい。君はご主人さまの元で一生を終えたいんだな。まあそう言うなら別に止めやしないよ。さて、僕は次の魂を回収しに行かないとね」
郵便屋さんは音もなくどこかへ消えてしまった。後に残されたのは、快適な部屋で自由にくつろぐ、一匹の猫だけだった。
黒色の郵便屋さん もち もちる @mochimochi_inu
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