第27話 父親の言葉
花梨ちゃんを取り押さえる数時間前、啓は横浜にある実家に帰っていた。帰ることを決心するまでに時間はかかったものの、心は落ち着いていた。
「ただいま」
実家の玄関ドアは、他のドアよりも重くて動きが鈍い気がする。しばらく振りに帰ってきた啓を迎え入れたのは、母親だった。
「ああ、帰ってきた。良かった、何か事件にでも巻き込まれたんじゃないかと。お姉ちゃんなんか、様子見に行くって言って聞かないんだから」
「ああ、うん」
お邪魔します、と小さく呟いて靴を脱ぐ。「あんたの家なんだから、お邪魔しますじゃないでしょ」と言って母親が笑う。
「啓が帰ってきた?」
廊下の先、洗面所の引き戸から父親が顔を覗かせた。髭を剃っていたのか、口周りにシェービングクリームが残っている。その表情は久方振りの息子の帰りを喜ぶ父親のようでしかなかった。
伝えなければならなかった。今まで、伝えられなかったこと、全てを。
「ごめん、お父さん。おれ、仕事辞めちゃった」
何をやっても、上手く続けられないんだ。その内に、怖くなっちゃったんだ。挑戦することが、自分の期待を自分で裏切ることが、怖くなっちゃったんだ。
おれは、自分を変えたいなんて言ったけれど、それは少し違う。おれは、他人から見た自分を変えたかっただけなんだ。だから、橋本啓を捨てて藤山駿之介になったりした。おれは初めから自分を変える努力なんてしなかった。失敗を恐れて、他人の目ばかりを気にして、楽な方へ楽な方へと流れていったんだ。
本当は期待に応えたかった。自慢の息子になりたかった。
考えは文章として頭の中に出来上がっているのに、啓はそれ以上言葉を続けられなかった。
「良いんだ」
父親は言った。
「あんなところ、辞めて正解だった。だからおれは、あんなところ早く辞めろと言ったんだ」
そんなこと言ってないだろう。
しかし、言葉にならない。口を開けば、涙が、こぼれ落ちてしまいそうだった。
「でも、ごめん、おれこれから警察に行かないと。おれ、まずいことをしちゃったんだ。もしかしたら刑務所に入れられるかもしれない。分からないけれど、とりあえずしばらく会えなくなる」
反応が怖くて、顔を上げられない。丁寧に磨き上げられたフローリングの床と、自分の爪先を、交互に見比べるしかなかった。
「何をしたんだ?それは、どうにかなる類のものなんだろうか」
と、父親が優しい声で問いかけた。
「どうにも、どうにもならない」
「もし人を殺してしまったって言うんなら……おれが肩代わりしよう」
驚いて顔を上げた。そこにはシェービングクリームが口元に残ったままの父親の顔があった。
「いいか、啓。お前の人生は、おれの人生だ」
聞き飽きた言葉だった。まさかこんなところで再び聞くことになるなんて、思ってもいなかった。父親は言葉を続ける。
「だから……お前の幸せが、おれの幸せなんだよ」
瞬きをしたら、涙が一粒頬を伝い落ちた。それは、おれの幸せにはならないよ。そう伝えたかったのに、やはり言葉にならない。涙が、ひっかき跡の残るフローリングの床を汚していく。
初めてだった。橋本啓で良かった。心の底から、そう思えたのは。
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