第23話 藤山の過去

 特に懐かしくもない、新築の家に囲まれているせいでみすぼらしく見える小さなアパートに帰ってきた。「ハピネス」とローマ字で書かれた銘板は、風雨に晒されてやや薄汚れている。藤山の家とは大違いだった。アパートの外付け階段は、足音がよく響く。大きな音を響かせないように、片足ずつ慎重に階段を上った。

 階段を上ってすぐが啓の住んでいた二〇二号室になっている。啓はその部屋から聞こえてくる音に耳をすませた。水の音がする。どうやらキッチンを使っているらしい。中に人がいることは間違いがない。

 中に啓がいる。中に、おれがいる。

 玄関チャイムに伸ばした人差し指が震えた。藤山に会うのが怖い。どんな顔をされるだろうか。部屋の中で二人きりになって大丈夫だろうか。

 震える指を何とか伸ばして、玄関チャイムを鳴らした。ピンポーンという軽い音が鳴って、水の音が止まった。しばらくの間、まるで時が止まってしまったかのように静かだった。空に浮かぶ雲もまるでその場所に張り付いてしまったかのように動かない。

 恐らく藤山は、ドアスコープ越しに啓のことを見ているのだろう。そして何かを考えている。

 もう一度玄関チャイムを鳴らした。少し置いて、さらにもう一度鳴らす。

 どうやら出てくるつもりはないらしい。どうすれば良いのか分からないまま、ただ藤山が出てくるのを待っていたら、隣の二〇一号室から物音が聞こえてきた。慌てて階段を下り、アパートから少し距離をとる。二〇一号室から長谷川さんが顔を覗かせているのが見えた。何度も玄関チャイムを押す不審な人物に文句を言いに来たらしい。

 駄目だ。帰ろう。

 無策で来るべきではなかった。藤山は警戒してもうしばらくはアパートから出てこないだろう。


 新横浜駅で土産を買い、新幹線に乗り込んだ。帰りの電車の中で啓は考えていた。

 これで良かったのかもしれない。もし会っていたら、殺されていたかもしれない。死体を隠されて、花梨ちゃん殺しの容疑者である「藤山駿之介」は失踪、藤山は何の罪もない「橋本啓」として生きる。入れ替わりの事実を知る者はいない。

 いや、そうはならないのか。郵便屋さんによると、公ちゃんが殺される未来はこのままだと確実に訪れるということだった。郵便屋さんの話を信じるとしたら、ではあるが。

 無駄足だった。浜松駅で新幹線を降り、ローカル線に乗り換える。辺りは既に暗くなりつつあった。頬をかすめる風が冷たい。

 藤山の家まで戻ってくると、門扉の前に人影が見えた。輪郭がぼやけ、境目が曖昧になっていく暗闇の中で、二つの人影が楽しそうな声を上げている。近付いてみるとそれは増田大地と木下麻衣だった。

「どうしたの?こんなところまで」

 啓が声をかけると二人は歓声を上げて駆け寄ってきた。

「良かった。今日はもう帰ってこないかと思った。大地と二人で三時から待ってたんだ」

「三時から?何か用事でもあった?」

「遊びに来たの。だって藤山くん、連絡先交換する時住所しか教えてくれなかったでしょ。

電話番号は覚えてないし、スマートフォンも持ってないって言うから」

「ああ、そうだった」

 入れ替わったばかりで家の電話番号も覚えていなかった。そのために住所を教えるしかなかった。けれど、手紙のやり取りくらいを想定していただけで、まさか実際に遊びに来るとは思ってもいなかった。

「どうしよう。とりあえず、喫茶店にでも移動する?」

 大地はどうやら啓に気を遣ってくれているらしかった。

「いや、上がっていきなよ。大してきれいじゃないけれど」

「え、良いの?」

「もちろん」

 その小綺麗な家は一人で住むには大きすぎた。一人でいると、誰も存在しない家の余白が気になって落ち着かなくなる。四人家族で暮らしてきた啓にとって、家とは余白が存在しないものだった。余すところなく使われて、むしろスペースが足りなくなることの方が多い、それが啓にとっての家だ。藤山の家は、旅行で泊まったきれいなホテルとか、お泊り会で行った友だちの家とかに近い。

 大地と麻衣をリビングに通し、二人が買ってきた缶チューハイをグラスに注いで氷を入れた。二人は最初かしこまっていたが、チューハイの酔いが回ってくるにつれて普段の調子を取り戻していった。

「藤山くんって謎だよね」

「謎、って何が?」

「こんなしっかりしたお家に一人で住んでるなんて。大地のアパートよりよっぽど広いじゃん。大地たちは、二人で住んでるのに」

 大地は首を竦めて、グラスを口に運んだ。

「そのうち引っ越すから。結婚したら」

「いつすんだよ」

「もうするって。うるさいな」

 酔っているのか、大地の頬は赤く染まっている。前髪から覗く額が汗でキラキラと光っている。啓は席を立ち、窓を開けてやった。冷たい春の夜風が、部屋の中に入りこんでくる。

「大地くんは付き合っている人がいるの」と、啓が聞くと、間髪入れずに麻衣が得意げな顔をして答える。

「そうだよ。一緒に暮らしてるの。同棲ってやつ。籍は入れてないみたいだけれど」

「じゃあ結婚してもあんまり変わらないのかな」

「そうかもしれない。もう私の中ではあんたたち二人は増田夫妻って感じだし」

 勝手に話を進める啓と麻衣に対し、大地は曖昧な言葉で相槌を打った。啓は、麻衣と二人で笑いあった。

「でも、藤山くんって本当にすごい。こんな立派な家持ってるのに、威張り散らしてないし」

「そんなことないよ。すごくない」

「すごいよ!人生設計が出来てるっていうか」

 今度は啓が言葉に詰まる番だった。つまみとして出したスナック菓子を口に運んで、笑って誤魔化す。本当はすごい人間なんかじゃないのに。

「大学もすごい良いところ出てるし、本当すごいよね」

 同意を求めるように、麻衣が大地を見た。大地はただ頷いただけだった。

「それより、そろそろあれ見ない?」

 そう言って大地はショルダーバッグから分厚い冊子を取り出して、テーブルの上に置いた。白地に桜の模様が入った高級そうな冊子で、表紙には「柳山」の二文字が箔押しされている。柳山中学校の卒業アルバムだった。

「私、三年生の時何クラスだった?」

「おれの隣、Cクラス」

 二人は自然な動作で表紙を開き、まるでファッション雑誌を見る時のように、次々とページを捲っていく。


 怖くないのだろうか。

 中学生の頃の自分を振り返ることに、抵抗はないのだろうか。

 啓にとって、中学生の自分は、自分であって自分ではない存在だった。今では考えられないような馬鹿なことをしたり、恥ずかしいことをしたりした。出来ることなら振り返らず、美しい装丁で飾られた卒業アルバムだって、手垢をつけず閉じられたままにしたい。

 目の前にいる二人が自分とは違う世界に住む人間のような気がして、少しだけ寂しくなった。


「あ、藤山くん、見つけた」


 麻衣の声に反応して、体が自然と前のめりになった。橋本啓の卒業アルバムなんて、二度と見たくない。けれど藤山駿之介の卒業アルバムは気になる。

 そこにあったのは、他の生徒と大差ない、口元にぎこちない笑みを浮かべている中学生の藤山駿之介だった。今より幼い感じがするくらいで、大きな違いはない。少しだけほっとした気持ちになった。

「あれ、でも藤山くん」

 麻衣がページを捲くりながら、首をひねった。

「何?」

「集合写真にはいないね」

 そう言われて、真っ青な空を背景に撮られた集合写真に写っている顔を一つ一つ確認していった。確かにいない。藤山駿之介は、集合写真には写っていない。

「なんでだろうね」と言いながら、麻衣は新しい缶チューハイを開けた。


 調子に乗ってまた三人で飲みすぎてしまった。麻衣がシャワーを浴びたいと言うので、タオルを貸して浴室に案内してやった。大地は、床に寝そべってスマートフォンをいじっている。二人ともなかなか帰りそうにない。

 夜が更けていく。電車はまだあるだろうか。二人は泊まっていくのだろうか。大地の彼女は心配しないだろうか。


「藤山くん、ごめんね」


 大地の、何の脈絡もない唐突な言葉の意味を理解するために、啓は数秒考え込んだ。

「何が?」

「中学の時」

 中学の時。何も言えなくなった啓を、良いように解釈してくれたのか、大地は勝手に喋り始めた。

「あの時助けられなくてごめん。おれ、何にもできなくって」

「あの時……」

「今なら何で助けなかったんだろうって思うけどさ、あの頃はクラスの和みたいなのを壊すのが怖くて。見て見ぬ振りして……」

「ごめん、何の話?」

「えっ?」

 目をしばたたかせる大地に、啓は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。寒くなってきたので、立ち上がり、窓を閉める。音が、空気が、部屋の中に閉じ込められたようだった。

「本当に分からない?」と大地に聞かれたので、啓は正直に頷いた。

 無理があるだろうか。そんなに印象的な事件か何かがあったのだろうか。

「中学の時、藤山くんいじめられてたよね。クラスの派手なグループに」

「あ、あー」

 そういうことだったのか。集合写真にいなかった理由。同窓会で、だれも藤山の隣に座らなかった理由。

「何か、今思うと犯罪だったと思う」

「どんなことされてたっけ」

「ズボン盗まれたり、トイレの便器に顔を突っ込まれたり」

「あっ」


 クラウドに保存されていた動画が、鮮明な映像となって脳裏に蘇る。湯船に頭を突っ込まれて苦しそうにもがく花梨ちゃん。藤山は花梨ちゃんを押さえつける手を緩めようとしない。


「謝れよ!」


 藤山の、怒りに任せて発せられた獣の咆哮のような叫び声が、耳の中で繰り返される。頭が痛くなってきて、啓は強く目を瞑った。

「本当にごめん、見て見ぬ振りしか出来なくて」

「いや、大丈夫、もう過去の話だから」

 こんなことを言ったら、藤山は怒るかもしれない。恐らく藤山は許すことを望んでいないだろう。同じことを花梨ちゃんに対して繰り返すくらいなのだから、本人は呪縛から逃れられないままなのだろう。あの時見て見ぬ振りをしたクラスメイトたちにも同じ思いをさせたいと考えているに違いない。

「完全に嫉妬だよな。藤山くんの家が、お金持ちだからって」

 どうであれ、「いじめを受けた藤山駿之介」はこの世から完全に消失してしまったのだ。最後に大きな爪痕を残して。だから、いじめっ子を責めるものもいない。全ては無に帰してしまった。

 一つ、気になることがあった。啓はおずおずと口を開いた。

「このことって、麻衣ちゃんは知ってる?」

「いや、知らないと思う。ずっと別のクラスだったから」

 少しだけほっとして、表情が緩んだ。そんな啓を見て、大地は何を思ったのか口角を上げて話し始めた。

「麻衣ちゃんはいい子だよ。たまに「すごい」の大渋滞が起こるけど」

「ああ……」

 大きな家を清潔に保てるのがすごい。良い大学を卒業しているのがすごい。その通りなのかもしれないけれど、すごいのは啓ではなくて、藤山駿之介なのだ。いつかその金メッキが剥がれ落ちてしまうのではないかと思うと、気が気でなくなる。

「おれも昔よく言われてさ。おれ、イラストとか漫画とかよく描くんだよね。それを見て麻衣ちゃんがすごいすごいって言うんだよ」

「うん……」

「でもさ、おれは自分がすごくないって知ってるんだよね。イラストが上手い人なんていっぱいいるし、漫画が描ける人なんて珍しくないし。だから、すごいって言う麻衣ちゃんが、おれのことを調子に乗せようとしているみたいに思えて」


 いつからだろう。いつからすごいという言葉を素直に喜べなくなったのだろう。すごいという言葉は言う分にはとても簡単だ。言う側にしてみれば、そんなに深く考えずに、ただ喜べば良いのにと思うことだろう。けれど、すごいという言葉の先や、その言葉を裏切ってしまうことを考えると、素直に喜べなくなる。言葉に囚われてしまう。


「でもそんなことはなくて、麻衣ちゃんは純粋に、すごいと思ってすごいって言っているんだよね」

「大地くん」

「何?」

「一人の人が、二人に見える時って、どんな時だと思う?」

 唐突に訳の分からない話をし始めた啓に対して何を言うでもなく、大地は話の続きを促した。

「それってどういうこと?」

「あるところに、Aさんっていう人がいました。Aさんは、Bさんから見るとAさんに見えるんだけれど、Cさんから見るとAさんに見えないのです。さてそれは何故でしょう?って話なんだけれど」


 大地なら、相談できるような気がした。啓が藤山を見つけられなかった理由が、見つけられるような気がした。

 大地はグラス一杯に入った水を半分くらい飲んでから、もったいぶって話し始めた。


「それって、それ以上の情報はないの?」

「いや、結構ある。質問してくれれば答えられるけれど」

「じゃあ、三人の内誰かが嘘をついてるとか、そういうのってあり得るの?」

 嘘。啓は少し悩んでから慎重に答えた。

「絶対に嘘をついていないのは、Cさんだけかな」

 Cさんは、自分だ。自分が嘘をつく理由がない。

「なら、AさんとBさんがこっそり手を組んで、Cさんを騙しているとか。例えば、Aさんは既に顔を変えていて、Bさんはそれを知っているけれどCさんはそれを知らないとか」

 整形?藤山は実は入れ替わった後すぐに整形していて、それを長谷川さんには打ち明けたとか。なんだか、突拍子もない話だし、あまり論理的な結論とは言えない気もするけれど、とりあえずこの線で考えてみるのもありかもしれない。

「それか、Cさんが信頼できるなら、Aさんの勘違いかな」

 勘違い。確かに長谷川さんはおっとりしたお婆さんではあるけれど、きちんと物事を考えることが出来る人だし、結構勘も鋭い。何だかそれは、釈然としない。

「むしろおれが長谷川さんを勘違いしているのかもしれない」


 そう言ってみて、何かが頭に浮かんだような気がした。けれど浮かんだ何かは、お風呂から戻ってきた麻衣の声でかき消された。

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