第21話 <未来編>見つけられない「啓」

 ベランダに続く掃き出し窓は網入りガラスになっている。そのため、部屋の中から外の景色を見ようとすると、菱形に張り巡らされたワイヤーが視界の邪魔をする。ワイヤーは景色を小さな菱形で切り取り、細かく区切ってしまう。それが嫌だった。窓を開けて、網戸にした。同じ網目状ならもっと細かく、認識できないくらいの方が良い。

 窓を開けてしまうと、外から聞こえてくる猫の鳴き声がよりいっそう酷くなった。何を求めているのか知らないが、悲劇的な鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。アパート「ハピネス」の周りにはよく似た新築の家が建ち並んでいる。新築から聞こえてくる子どもの声よりは、猫の声の方が幾分かましだった。

 アパートの廊下を誰かが通り、チャイムが鳴らされた。軽く舌打ちをした後、ドアスコープから外の様子を確認した。長谷川さんの姿があった。回覧板を大事そうに両手で抱え込んでいる。ポストに入れてくれれば良いのにと思うが、彼女が何を考えているかは若い自分の知るところでは無かった。

 ゆっくりと玄関のドアを開けると、長谷川さんは機敏な動きで回覧板を手渡した。

「ああ、良かった。橋本さんいたのね。これ、いつもの回覧板。今日は忙しいから、また今度ね」

 そう言うと長谷川さんは隣の二〇一号室に帰っていった。忙しいなら、ポストに入れればいいだろうと思ったが、そんなことを言って話を長引かせたくない。回覧板を抱えて、大人しく部屋に帰った。

 嫌な予感がした。アパートの外付けの階段を、誰かが上ってくる。どん、どん、と音が響く。足音が近づき、二〇二号室の前で止まった。その人物はチャイムを鳴らさずに、しばらく中の様子を伺っていた。物音がしないか、光が漏れていないか。


 今度は誰だ?


 その人物は、頑なにチャイムを鳴らさなかった。その代わりに玄関の戸を乱暴な手付きで二、三度叩いた。

「啓ちゃんいるんでしょ?分かってるんだから。早く開けてよ」

 女の声だった。長谷川さんでないのなら、対応する必要もないだろう。立ち去るのをじっと待つしかない。

「今日は公ちゃんも連れてきたんだよ。公ちゃんがね、啓ちゃんに会いたいって」

 どうやら、二〇二号室の前には二人の人物がいるらしい。謎の女と、公ちゃんと呼ばれる人物だ。しかし、二人も階段を上ってきただろうか。足音は一人分しか聞こえなかった気がする。じっと待っていると、女はため息をついた。

「実はね、管理人さんから鍵を貸して貰っているの。家族の連絡がつかないって言ったら、貸してくれたんだ。開けるよ?」

 それはまずい。身を翻し、機敏な動きでベランダに出た。たかが二階だ。飛び降りたって大事には至らないだろう。

 ベランダから顔を出して、下を覗き込んだ。すぐ下は一階の住人の庭になっている。思ったよりも地面が遠くに見える。一階の住人はガーデニングに凝っているのか、植木鉢が所狭しと並んでいる。飛び降りるにしても、飛び降りるためのスペースがない。

 玄関の鍵が開けられる音がして、部屋に人が侵入してきた気配があった。迷っている内に上がり込んできたらしい。今自分は、広さ七帖、ロフト付きの洋室にいる。玄関から洋室まではキッチンを挟む。しかし、キッチンと洋室を隔てる扉に鍵は付いていない。万事休すだ。

 すぐに扉は開けられた。当然だ、特に探すスペースもないのだから。しかし、扉からゆっくりと顔を覗かせたのは、一歳を少し過ぎたような小さな子どもだった。


 この子が恐らく公ちゃんなのだろう。公ちゃんは動物がプリントされた長袖のティーシャツに、灰色のスウェットパンツを履いていた。髪は薄く茶色がかっている。

 公ちゃんは自分には全く興味を示さず、ベランダに向かって一直線に歩いていった。

 なるほど、公ちゃんは猫の声に反応しているようだ。今も外から絶え間なく猫の鳴き声が聞こえてくる。公ちゃんはベランダに出て、一生懸命背伸びをして猫を探そうとしていた。しかしベランダに取り付けられたフェンスが高過ぎて、何も見えないみたいだった。不満そうな声を上げながらフェンスをよじ登ろうとするが、手が滑って上手くいかない。

 公ちゃんの母親と思われる女は、まだキッチンにいるらしい。どうやら食品を買ってきたらしく、それらを冷蔵庫にしまい込んでいるみたいだった。

 悪魔のような考えが脳裏をよぎった。公ちゃんが外に――このベランダから下に落ちてしまえば、女はこの部屋を出て公ちゃんを助けに行くだろう。そうすれば自分は見つからなくて済むかもしれない。

 足音を立てないように、公ちゃんの背後にゆっくりと近付いた。なおもフェンスにへばりついている公ちゃんの腰に手を回し、持ち上げてやる。公ちゃんは抵抗せずに大人しく持ち上げられ、フェンスの上に体を乗り出した。そのまま、公ちゃんの腰から手を離した。公ちゃんは足をバタバタさせながら、頭から地面に落ちていった。

 ガチャン、と植木鉢が割れる派手な音がした。急いでロフトに上り、身を隠した。一拍遅れて女がやってきた。思っていたよりも若い、真面目そうな女だった。光沢のある艷やかな焦げ茶色の髪に、目を凝らせばやっと分かる程の薄い化粧。開け放たれたベランダから入りこんでくる風で、前髪がふんわりと持ち上がっている。

 不安そうに眉を潜めたまま、女はベランダから身を乗り出した。


「あっ」


 女は痛ましい声を上げた後、部屋から飛び出していった。

 上手くいった。静かにほくそ笑み、ロフトからゆっくりと下りた。しかしもう潮時だろう。この部屋からはもう出ていかなければならない。

 キャップを被り、布製のマスクをして、薄紫色のくたびれたコートを羽織る。そのまま靴を履き、玄関から堂々と外に出た。

 とりあえず駅に行こう。そこが全ての始点になる。そう思い足を向けた先に、男の姿が見えた。まだ距離があるためにぼんやりとしているが、背が高く、何か慌てているように見える。男はそのまま自分に向かってまっすぐ歩いてくる。その男が誰なのか、数秒置いてからようやく思い至った。あれは、「昔の啓」ではないか。

 何てタイミングが悪いのだろう。もう少し後に来てくれれば良かったのに。いや、あの女と鉢合わせしたくなくて、女が出てくるのを待っていたのだろう。どうやら全てが結末に向けて動き出しているみたいだった。方向転換し、来た道を引き返す。「昔の啓」は何かに気がついたのか、こちらに向かって走り出した。距離は二百メートルと離れていない。逃げるように走り出すしかなかった。

 体格差がある。このままではすぐに追いつかれてしまう。赤信号を無視して道路を横断し、目に入った薬局に飛び込んだ。店内は広く、客もまばらだが何人かいる。入ってすぐ左手に会計スペースがあり、客が行列を作っていた。

 帽子を外し、コートを脱いで、棚と床の隙間に押し込んで隠した。マスクも外し、ズボンのポケットに突っ込む。何食わぬ顔をして、買い物かごを手に取り、目についた商品をかごに入れる。

 間もなく「昔の啓」が薬局の店内に入ってきた。「昔の啓」は息を切らしながら店内に飛び込んで来たかと思うと、会計待ちの列に並んでいる人間一人一人の顔をゆっくりと確認して回った。その尋常ではない様子に薬局の店員は狼狽えていた。今にも奇行に走り出すのではないかと怯えた表情でその行動を見守っていた。

 会計待ちの列に目的の人物がいないと分かると、「昔の啓」は、今度は店内を歩き回り始めた。商品を吟味する罪のない買い物客一人一人の顔を覗き込み、違うと分かれば見るからに落胆し、次の顔を確認しに行く。「昔の啓」は程なくして自分に近付いてきた。

「昔の啓」は自分の顔を見て、何かを考えるかのように数秒動きを止めた。しかしすぐに目を逸した。一人一人顔を確認しながら店内を歩き回る作業に戻っていった。やがて店内に目当ての人物が見当たらないことに気がついたのか、唖然とした表情で足を止めた。

 一生そこで啓を探し続けると良い。買い物かごの中に詰め込まれた商品を陳列棚に戻し、薬局を出た。


 自由だった。水色の空には花嫁が身につけるような薄いヴェールによく似た雲がいくつも浮かんでいた。それらは風に煽られて、ゆっくりと東の空に移動していった。

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