第19話 藤山という男
新幹線を降りた後、浜松駅を少しだけ探索してみた。浜松は思っていたよりも都会で、一歩外に出てみると辺りは背の高いビルディングに囲まれていた。駅構内にはまだ開発の進んでいないところも残されていて、とっくの昔に閉店している洋服店や、人気のない飲食店などが、閉店当時のまま放置されていた。
一通りの探索を終えた後は、在来線に乗り換えて、藤山の家に向かった。藤山の家は駅から徒歩五分もかからない場所にあった。景観も良い。少し高い場所に上れば遠くに浜名湖が見えた。
藤山の家は屋根が黄色くておもちゃみたいな見た目をしていた。レンガの門柱に、ローマ字で「FUZIYAMA」と彫られていた。二階に部屋が二つとトイレが一つ、一階には広いお風呂と更に広いキッチンがあった。キッチンに一通りの調味料と調理器具が揃っていることを確認した後、啓は風呂に湯を張った。両手足が伸ばせるほど、広い風呂だった。床や壁は白く、清潔に保たれていた。家自体はそこまで大きくはないものの、風呂やトイレ、キッチン等は広々としていて使いやすかった。簡潔に言ってしまえばとても快適な家だった。
風呂に入った後、冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んでみた。苦くてまずい。一口飲んで、後は流しに捨てた。楕円形の飲み口から流れ出る黄色い液体がシンクの底を叩くのを、啓は黙って見ていた。
入れ替わって二日目の朝だった。特にやることもない。米を炊いて、インスタントの味噌汁と一緒に食べた。藤山の部屋にはゲーム機も、テレビもない。ただブックシェルフいっぱいに文庫本が詰め込まれていた。一冊抜き取って読んでみたら予想外に面白くて、一日中本棚に詰め込まれた小説に読み耽っていた。
それは、子猫のようなものだったのだろう。大切にしていたのに、どこかに消えてしまったもの。一冊の小説に、栞代わりに葉書が挟み込まれていた。葉書の裏面には同窓会の知らせが書かれていた。「柳山中学校」の同窓会。この葉書が無事この住所に届けられたということは、中学生の時からここに住んでいるのだろうか。それとも律儀に、幹事に転居を知らせていたのだろうか。真偽は分からないが、明日静岡駅前の居酒屋で同窓会が開かれることは間違いがないようだった。
葉書は、参加か、不参加に丸をつけて送り返せるようになっていた。もうとっくに返信の期限は過ぎてしまっている。手付かずで、参加にも不参加にも丸がついていない。
これは、おれが見つけるべきではなかった葉書だ。
啓は葉書を小説から抜き取り天井のライトに透かしてみた。どちらかに丸をつけて、消した形跡なども見当たらない。
恐らくこの葉書は、入れ替わりの前に捨てられるはずだった。そして啓はこの同窓会の存在を知らずに、藤山駿之介としての人生を歩むはずだった。けれどそうはならなかった。子猫のようなものだ。啓は藤山に知られる前に、子猫を藤山の家に連れて行ってしまうつもりだった。けれど子猫はどこかに消え失せてしまった。藤山も同じように、この葉書を捨てる前になくしてしまったのだろう。
知っているようで、啓は、藤山という男の素性を何も知らない。その葉書はこれから長く続くであろう退屈な人生の、分岐点だった。
その居酒屋は、飲食店が詰め込まれたビルディングの四階に入っていた。遠くから様子を見るつもりだった啓は、周囲を気にしながら、エレベーターに乗り込み四階に上がった。四階に上がったらそこはもう居酒屋の店内だった。まさか店内に繋がっているとは思わなかったため、狼狽した。騒がしい音楽に、笑い声に、足音に、全てが重なり合って新しい音を生み出していた。すぐに店員が駆けつけてきて、啓に声を掛けた。若い大学生の男で、髪の毛がオレンジ色だった。
「いらっしゃいませ。柳山中学校同窓会に参加されるお客様でしょうか」
「あ、少し、様子を、見に来ただけで参加するかどうかは」
「本日は貸し切りですので、奥のお席にどうぞ」
噛み合っているのかいないのか分からない会話を済ませた後、啓はおずおずと暗い店内を進んだ。もう逃げられなくなってしまった。どんな反応をされるだろうか。そもそも、参加の連絡も入れていない。しかも藤山駿之介ではなくそっくりの別人なのだ。中学生以来会っていないのであればさすがにばれないとは思うが、直近に会ったりしていたらかなりまずいことになるだろう。
リスキーな行動だった。しかし、これから何が起こるのだろうという、わくわくする気持ちもあった。
窓際に、大きなテーブルが三つ、少しずつ離して置かれていた。掘りごたつになっていて、若草色の座布団が等間隔に並べられている。席はまだ半分も埋まっていなかった。既にグループが出来上がっているかと危惧していたが、何人かは離れたところに一人で座っていたので、安心した。薄暗く、顔はよく見えなかったが、皆啓よりもずっと年上のように思えた。たった五歳しか違わないはずなのに、年齢に大きな隔たりを感じた。
啓がテーブルに近寄ると端の方に座っていた男が会釈をした。啓も会釈を返したが、この男と藤山がどういう関係であったか覚えていなかったため、戸惑った。
「ごめん、名前良いかな?」
「藤山駿之介だけど」
男は手元のスマートフォンを操作しながら、首を傾げた。
「あれ……参加の予定って貰ってたっけ?」
「あれ、届いてなかったっけ」
「え、ごめん。見落としていたみたい。分かった、参加ね。一人来れなくなったから丁度良いや」
いい人だな、と思った。啓の言葉を疑っていない。嘘をつくこと自体に抵抗は無かった。もっと大きな嘘を抱えているのだから。
好きな席に座って、と言われたので、一番端の座布団の上に腰を下ろした。そうするともうやることがなくなる。藤山は携帯電話すら持っていない男だった。手持ち無沙汰で、視線を辺りに彷徨わせる。遠くに座っている女の集団が、何かの話で盛り上がっている。「旦那」という単語が聞こえてきたので、恐らく既婚者なのだろう。
しばらくしてから、人が一気に集まりだした。多くが二人か三人の集団でやってきた。事前に集まってから居酒屋に来たようだ。賢い人たちだな、と他人事のように思った。啓の隣と正面はいつまでたっても埋まらなかった。啓だけが離島で独りぼっちだった。することもなく、ただぬるくなったお絞りで手を拭き続けている。
開始時間になった。幹事が飲み物を頼むように言った。最初の一杯は店員に直接頼むらしい。すべてが他人事だった。声は遠くに聞こえた。溶け込めていない。しかしそれほど気に病んではいなかった。おれがこの場に溶け込めないのは仕方がないことだ。なぜならおれは、二十五歳でこの人たちとは一切面識がないのだから。そう思うと、啓の心は落ち着いた。
すべり込みで、男女のペアがやってきた。二人は何の疑問も抱かずに、ごく自然な動作で啓の真隣と正面に座った。幹事が安心したような表情を浮かべるのが見えた。男は生ビールを、女はジントニックを頼んだ。啓は、コークハイを頼んだ。
「だから言ったじゃん。二戦目は無理だって」
「でも間に合ったからいいだろう」
「間に合ってねえし。てか、最後じゃない?」
啓の真正面に腰を下ろした男は、首の詰まった白のシャツを着ていた。シャツの胸ポケットに、黒縁のメガネが差し込まれている。急いで来たのか、髪が強風に煽られたかのごとく荒立っている。全体的に、真面目で大人しそうな印象を受ける。
一方啓の隣に座った女は、派手派手しい見た目をしていた。髪はほとんど金に近い茶色で、肩の辺りで切り揃えられている。化粧が濃く、横から見るとまつげの長さが小指ほどもある。唇には何をしても取れなさそうな真っ赤なリップがまんべんなく塗られている。
女は膝立ちになり、羽織っていた桃色のスプリングコートを脱いだ。コートの下から胸の膨らみが強調されるような白い薄手のニットが顔を覗かせた。啓は俯いて、何度もお絞りで手を拭いた。
女は背伸びをして、壁に掛かっているハンガーを取ろうとしていた。その様子を横目でちらりと確認して、啓は息を吸い込んだ。頭の中に浮かんだのは、大きな丸いピザだった。この場に居続けるためには、今度こそピザを切り分けなくてはならない。
「取ろうか」
啓は立ち上がり、壁からハンガーを取って女に渡した。女は目を丸くして啓のことを見た。
「うわ、でっか!」
百八十センチを超える体躯は、日常生活において基本的に邪魔でしかないが、時々役立つことがある。啓は曖昧に微笑んで、コートが掛けられたハンガーを受け取って、壁に掛けてやった。女はありがとうと言って頭を下げた。
「え、ごめん、誰だっけ。名前聞いても良い?」
「藤山。藤山駿之介」
「分かんないなぁ。誰と仲良かった?」
「覚えてない」
「え、なにそれ」
女はお絞りで手を拭きながら優しい笑顔を啓に向けた。
よく見ると童顔で、可愛らしい顔立ちをしている。背が低く、化粧を落としたら高校生のようにも見えるかもしれない。
「私は木下麻衣。中学の時はすげー地味だったから覚えてないと思うけれど」
啓は目の前の男に目を向けた。男は一切口を挟まずに、お通しの枝豆を一粒ずつ食べていた。
「そっちは?」
啓が声をかけると、男は枝豆の房を皿に戻した。
「増田大地」
増田大地も、木下麻衣も、藤山のことは覚えていないようだった。藤山という男の輪郭は、いつまでもぼやけたままだ。
酒がテーブルに届いた後は、中学時代の思い出話に花を咲かせた。数学の先生が嫌いだったとか、テストで0点を取ったことがあるとか。もちろん啓には訳の分からない話ばかりだったが、適当に相槌を打って話を合わせた。
中学卒業後の進路の話になって、啓は藤山が卒業した大学の名前を出した。二人は目を丸くして、すごいと褒め称えてくれた。かすかな罪悪感があった。
二人は啓に好い印象を抱いたようだった。話に入ろうと気を張らなくても、自然な流れで啓に話を振ってくれる。もう啓は孤島に一人きりではなかった。
三杯目のハイボールを空にした後、啓は手洗いのため席を立った。飲み会の場でこんなに酒を飲んだことはなかったため、少しだけ足元がふらついた。
「あれ、藤山くん?」
手洗いに続く薄暗い通路で呼び止められた。背が高く、細くてヒョロリとした女だった。長い黒髪を後ろで一つにまとめている。酒が回っているのか、頬が赤く染まっている。
「えっと……」
「藤山くん、花梨ちゃんは?」
花梨ちゃん?
酔っ払った頭を必死に回転させて、考える。
この女は自分を藤山だと思っている。つまり藤山と最近接触した訳ではない。けれど、花梨ちゃんという人物と藤山に接触があったことを知っている。なら、花梨ちゃんの友だちか何かで、藤山とはそこまで親しくないはずだ。
「君は、誰だっけ?」
「花梨ちゃんの友だち。藤山くんって、花梨ちゃんと付き合ってるんだよね?もうすぐ結婚するみたいな話も聞いていたけれど」
付き合っている?結婚?
女の表情は、段々と曇っていく。まずいな、と思った。下手に答えられないが、答えられないと不信感を与えてしまう。
「花梨ちゃん、最近連絡つかないの。何でか知ってる?」
「それは、えっと」
何も思いつかない。頭が、体が、急速に冷えていくような感覚。女は間髪を入れずきつい口調で言った。
「正直、私、あなたのこと良いように思っていないから。暴力とか振るうんでしょ?」
「え?」
「で、結局、別れたんだ?」
「……ごめん」
それ以上追及することなく、女は「そっか」と一言呟いて、同窓会の席に戻っていった。
啓はトイレの洗面台で手を洗いながら必死に考えた。
これで良かったのだろうか。
藤山は最近女性には縁がないと言っていたはずだ。藤山の言葉を信じるのであれば、この返しで間違っていなかったはずだ。
けれど、こんな大事なことを黙っていたなんて。花梨ちゃんという人物が、啓に接触してきたら、どうすれば良いのだ。そこはきっぱりと後腐れなく別れたということなのだろうか。しかし、藤山が暴力を振るうなんて、考えられない。飲みすぎたせいか、頭の奥が痛む。上手く考えがまとまらない。そろそろ、席に戻らないと二人が心配するかもしれない。
それはアルコールが見せた幻だったかもしれない。重い足取りで席に戻ると、啓の座っていた座布団に、真っ黒な子どもが膝を抱えて座っていた。学生帽に、詰め襟の学生服、一式全てが黒で染め上げられている。唯一の例外は学生帽に縫い付けられた金色の紋章だった。紋章は、よく見るとドクロの形をしている。座っているために分かりづらいが、肩からショルダーバッグを下げている。同じく真っ黒なそれは、中に入っている何かでパンパンに膨らんでいる。いつかの時代の、郵便屋さんの格好だった。
増田大地も木下麻衣も、その子どもの存在には気がついていない様子だった。二人で熱心に何かを話し込んでいる。時折、スマートフォンの画面を見せ合っている。ゲームの話をしているみたいだった。
子どもは何かに気がついたのか、ゆっくりと顔を上げた。啓は慌てて目線を逸した。逸した目線の先には厨房があった。若い男女の店員が、何か話しながら飲み物を作っている。一拍置いてから目線をテーブルに戻すと、もうそこに子どもはいなかった。
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