第18話 その部屋に残したもの
その後は他人に接触しないよう、慎ましやかな生活を送った。最低限の暮らしを淡々と続ける。退屈だったが、何かやりたいことがあるわけでもない。人に会わないように努めていたせいか、昼夜はほとんど逆転していた。
入れ替わりは一週間後に迫っていた。啓はコインランドリーで洗濯をするために、ネットに衣類をまとめた。外出しなくても下着は汚れていく。三日おきにコインランドリーに行かなければ、着る服がなくなってしまう。
洗濯物の入ったネットを服屋で貰った紙袋に入れて、アパートを出た。コインランドリーはアパートのすぐ向かいにあった。車の往来がなければ、アパートから一分もかからない距離にある。そのためいつも部屋の鍵すらかけなかった。
独特な洗剤の匂いがするコインランドリーは無人だった。使用されている洗濯機もない。隅の方で背の高い観葉植物が静かに佇んでいるだけだった。啓は洗濯乾燥機にネットごと洗濯物を突っ込んで、小銭を投入した。後はアパートに帰り、乾燥まで終わるのを待つだけだった。コインランドリーはアパートからあまりにも近すぎた。顔見知りに会わないためにも、コインランドリーに留まらない方が良い。そう思い自動ドアをくぐり抜けたところで、短い髪をくるくるとカールさせた長谷川さんに出会ってしまった。
長谷川さんは、蛍光色の、取っ手のついた洗濯カゴを両手で抱え込んでいた。右足と左足を交互に前に出し、重そうなカゴを抱え込んで、ペンギンのように歩いてやってきた。啓と目が合うと、嬉しそうに目を細めた。
「橋本さんもお洗濯?ここ近くて便利でしょ。洗剤も不要だし、本当、洗濯機なくてもなんとかなるものだね」
「そうですね」
適当な相槌を打ち、長谷川さんの脇をすり抜けようとしたところで、呼び止められた。
「そういえば、橋本さんって、何のお仕事してるの?」
あっ、という間抜けな声が出た。何と答えれば良いのか分からない。嘘をつこうか。けれど、そうしたら藤山が困ることになるかもしれない。
「今は、休職中なんです」
どうしても仕事をしていないと言うことが出来なくて、誤魔化しが効きそうな嘘をついてしまった。長谷川さんは休職中、の三文字に首を傾げた。
「まあ。それは大変だろうけれど、頑張ってね。私だって大した仕事はしていないからね。たまにスーパーのレジ打ちするくらいで」
「そうなんですか」
「うんうん。橋本さんならいい仕事が見つかるって」
「僕、部屋の鍵掛けてきてないので、これで」
「ああ、呼び止めてごめんね」
顔が熱い。いい仕事が見つかる?休職中だと言ったのに、何故、無職であることが露呈してしまったのだろうか。
自分の部屋に戻った後は、何故だが鼻が痛くなって、視界がぼんやりと悪くなった。溢れ出した涙が頬を伝った。
長谷川さんは休職中、ではなくて求職中だと思ったのだろう。その事実がどうしようもなく悲しかった。偽ろうとしたのにも関わらず、真実が語られてしまったことが、情けなく、辛かった。
その後、長谷川さんは啓に会っても軽く会釈をするくらいで、積極的に関わってこなくなった。いつもは手渡しの回覧板も、玄関のポストの中に突っ込まれるようになった。
入れ替わりの前日の朝、啓は物音で目を覚ました。赤ちゃんの泣き声が、断続的にどこかから聞こえてくるのだ。それは悲痛な叫び声のようでもあり、無視することは出来なかった。慌てて起き上がり、服を着替えた。髪を整えている時間は無かった。
外に出てみると、何てことはない、泣き声の正体は子猫だった。小さな白と黒のまだら模様の子猫がニャーともギャーとも言い難い声をアパートの駐輪場であげ続けている。母親が迎えに来るかとしばらく待ってみたが、夕方になってもその子猫は独りぼっちだった。
かわいそうに思い、その子猫をバスタオルで包んで、部屋に連れ込んだ。子猫は一切抵抗せずされるがままだった。まだ人間への警戒心が薄いらしい。近くで見るとその子猫は、手のひらに収まってしまいそうなほど小さかった。ダンボールにバスタオルを詰めて即興の猫ベッドをつくり、そこに押し込んだ。慌てて近くのコンビニに走り、猫用のミルクを購入した。人間の飲む牛乳よりも内容量は少なく、値段は高かった。
ミルクをマグカップに入れて出してやると、子猫は少しずつそれを飲み始めた。子猫の舌がミルクに触れると、小さな魚が水面を跳ねるような音がした。子猫の口周りが白くなっていくのを見ていると、心が落ち着いた。
「さて、これからどうしよう」
よりにもよって、入れ替わりの前日に猫を拾ってしまった。動物病院に連れて行こうにも近くにそんなものはない。アパートでペットを飼うことは禁止されている。壁の薄いアパートだ。猫なんて飼っていたら、隣の長谷川さんに気が付かれてしまうかもしれない。
藤山は家を持っている。この猫は、おれと一緒に入れ替わるべき存在なのかもしれない。そう思い啓は子猫の瞳を覗き込んだ。
「一緒に来るか?」
子猫は何も言わなかった。かすれた声で鳴いた後、ダンボールのベッドの中で丸くなった。
戸締まりを完璧にしていたかどうかは覚えていない。けれど、抜け出せるかもしれない場所なんて限られている。玄関か、ベランダか。そして、朝起きた時、それら二つの場所はきっちりと鍵が掛けられていて、外との往来は出来ないようになっていた。部屋の鍵だって、いつも通りの場所に、いつもと何ら変わりなく置かれていた。
猫が消えていた。目覚めた時、ダンボールの中にいたはずの子猫がいなくなっていた。探せる場所なんて限られている。小さな猫は床を這うくらいしか出来なかったはずだ。猫は密室から、見事に消え失せていた。
時間はあまり残されていなかった。今日は入れ替わりの日だ。藤山がいつも通り、あの喫茶店で待っているはずだった。腑に落ちない。けれど自分を納得させなければならない。手のひらに収まってしまうくらいの小さな猫なんて、最初からいなかったのだ。
手持ちの衣類から藤山が着そうな服を選び、身につけた。薄手のセーターに深緑色のカーゴパンツを合わせ、ショルダーバックを斜めがけにした。今年買ったばかりで毛玉も少なく、くたびれていない。入れ替わりの際に持っていける唯一の物だったが、服自体に愛着は無かったため、客観的に無難なものを選んだ。
支度が済んでしまうと、啓はほんの半年足らずを共にしただけのアパートの一室に別れを告げた。ろくに片付けられていないダンボールだらけの小さな部屋。もうここに戻ってくることはないのだろう。寂しさはなかったが、怖さはあった。何か置き忘れているかもしれない。昨日拾ったはずの子猫が、部屋の隅で冷たくなっているかもしれない。啓に出来ることは、それらを考えないようにすることだけだった。
静かな喫茶店の、いつもの席に彼はいた。出入り口に背中を向けて、四人掛けのソファ席でアイスコーヒーを飲んでいた。啓が声をかけると、藤山はいつも通りゆっくりと振り返り、薄く笑った。窓から射す西日が彼の顔を立体的に浮かび上がらせていた。
「早速なんだけれど、鞄を交換しますか」
藤山はそう言って、レザーのトートバッグを啓に手渡した。交換は堂々と行われた。人目を気にする風でもなかった。啓も藤山に習い、周囲を気にしないようにしてショルダーバッグを藤山に渡した。
「ここに、住所の書かれた免許証と、家の鍵が入っている」
「そうです」
とは言っても、藤山は事前に啓の住所を聞いて知っているはずだった。もし免許証を入れ忘れていても、何とか辿り着けるだろうと思った。彼は恐らくこれからの生活を何度かシミュレーションしたはずだ。啓の住所をマップで調べ、近くにコインランドリーとコンビニがあることを確認し、駅まで徒歩二十分もかかりその駅の月極駐輪場が全部埋まっていることに頭を悩ませたはずだった。
啓はトートバッグの中身を少しだけ覗いてみた。小さなネイビーカラーの財布と、カラビナが付いたキーリングが見えた。トートバッグは内側にポケットなど付いていなかったが、中身は整理されていた。
「僕らはパラレルワールドに住む、同一人物みたいなものだ。二つは交わっちゃならない。同じ世界に同じ人間が二人いてはならない」
藤山の言葉に、啓は頷いた。喫茶店を出たら、もう二度と藤山と会うことはないだろう。
もう既に用事は済んでいた。後はお互いに別々の道を歩むだけだった。藤山は窓の外に目を向けて、何かを考え込んでいるみたいだった。まだ、別れを切り出すには早すぎるような気がした。
「そういえば」
啓は沈黙を破り、口を開いた。オレンジジュースを一口飲んでから言葉を続けた。
「藤山さんは、猫は好きですか」
「猫?」
藤山はいつものように笑っていた。ただ、何か深刻なことを伝えられると思っていたらしく、拍子抜けした様子だった。
「あまり好きじゃない。四本足の動物は、基本的に好きじゃないんだ」
「そうなんですね」
啓はあのアパートの一室に、小さな子猫が取り残されたままになっていないことを祈った。頭の中に浮かんでくる子猫は、四肢を投げ出してぐったりと横たわっている。もう息はない。啓に見つけられないまま、部屋の隅で埃を被って固くなっている。愛らしいだけの存在だったはずの子猫に、啓は、いつしか恐怖を抱いている。
「猫なり、犬なり、好きな動物を買えば良いじゃない。もうアパート暮らしじゃなくなるのだから」
そう言って藤山はアイスコーヒーのグラスを何度か揺すった。
ああ、この人は藤山駿之介を捨てたのだと、啓は思った。藤山駿之介を捨てることはとっくに終わっていて、後は橋本啓になるだけなのだ。自分を捨てきれていないのは啓だけだった。啓だけがまだ、橋本啓という過去の自分を捨てきれないままでいる。
「あの、藤山さんは本当に友だちとかいないんですか?」
「ん?いないよ?どういう意味?」
「いや、彼女とかいないのかなって」
藤山は困ったように笑った。
「今はいないよ。ていうか、全然、縁がないよ」
「そうなんですか?何か、行動とかがすごく大人っぽいですよね。ストローとか使わないで飲み物を飲むところも、男らしいっていうか」
藤山は鼻で笑った。
「え?ストローって女が使うものでしょ?」
少しだけひやりとした。周囲の温度が少しだけ下がった気がした。啓は藤山の目を見た。そこにあるのはいつもどおり優しさに満ちた、一対の澄んだ瞳だった。
新幹線の指定席に座るのなんて、久し振りだった。柔らかいシートに腰を沈め、コンビニで買ったおにぎりの封を剥がす。家で食べると味気ないのに、新幹線の指定席で食べるコンビニのおにぎりは特別な味がした。米の一粒一粒から甘みを感じた。
もうおれは、橋本啓じゃない。
新横浜から浜松まで、新幹線で一時間、その間は座っているだけで良い。その間に自分が作り変えられてしまえば良いのに、と思う。橋本啓から、藤山駿之介に、内面から外側まで全て作り変えられてしまえば良いのに。
車窓から外の景色をぼんやりと眺める。ただ人が働くためだけにつくられた無機質なビルディングを見ていると、胸が苦しくなった。四角い箱に閉じ込められて、あくせくと働いている人たちのことを考えると、自分がとんでもない怠け者なのではないかと思ってしまう。
自分を変えなければならない。もっと他人に、誇れる自分に。
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