第17話 居場所のない実家

 家賃だけで選んだアパート「ハピネス」は、ぴかぴかした新築の家に囲まれていた。七帖の洋室に、二帖のキッチンがついている、本当に最低限の機能しか持たない部屋。ロフトがついているものの、背の高い啓には使いづらく、物置になっていた。運び込んだ家具はほとんどがダンボールに詰められたまま放置されている。愛着なんて何もないから、家具も少ない。室内に洗濯機を置く場所もなく、洗濯物が溜まったら近くのコインランドリーまで足を運ばなければならない。そんな事情も相まって、用がない限り啓は外出しないようになった。最低限の機能しか持たない部屋にお似合いな、生きるために最低限のことしかしない人間。


 二階の角部屋――二〇二号室の前でリュックサックを肩から下ろし鍵を探していると、誰かが階段を上ってくる音がした。振り返るとそこに隣の部屋、二〇一号室の住民である長谷川さんの姿があった。

「こんにちはぁ」

 長谷川さんは顔中に笑みを浮かべて、まん丸に膨らんだエコバックを両手に握りしめていた。六十を過ぎた女性とは思えないほど、俊敏な動きで階段を駆け上がる。

「今日はね、あっこのスーパーで卵が八十八円だから、橋本さんも買いに行くと良いよ」

「あ、ありがとうございます」

 長谷川さんは満足そうに頷くと、エコバックのサイドポケットから素早く鍵を取り出し、隣の部屋に吸い込まれていった。

 まいったな。

 さしたる友人もいなければ、職場の人間関係なんてものも存在しない啓であったが、マンションの隣人とは最低限の交流があった。啓が藤山と入れ替われば、六十歳を超えているとはいえさすがの長谷川さんも気がつくのではないだろうか。

 入れ替わる前に引っ越すべきだろうか。まあ、もし入れ替わるとしたらの話だが。

 啓は独り言を言いながら、ようやく見つけた錆びついた鍵を鍵穴に差し込んだ。


 その日は何の集まりだったろうか。忘れてしまったので、どうせ大した理由で集まった訳ではなかったのだろう。職場の人間がチェーン店の居酒屋に集められて、懇親会のようなものが開かれた。席は幹事によって事前に決められていた。

 大体、一つのテーブルに八人ほどの人間がいたと思う。いや、この八という数字に間違いはないはずだ。絶対に。

 そのテーブルでは、啓が一番若かった。他のテーブルを見ると、一番若い者がサラダを取り分けたり、酒を注いだりしていた。そのため啓も木製の深皿に盛り付けられたサラダが運ばれてきた時、ああ取り分けなければと腰を浮かした。

 しかし、隣に座っていた女性の先輩がそれらを全てやってしまう。サラダが運ばれてきたら真っ先にトングに手を伸ばし、さっさと取り分ける。グラスが空いたら瓶ビールを注ぐ。啓は手持ち無沙汰になり、居心地が悪くなった。

 偶然、隣の女性が席を立った時にピザが運ばれてきた。ピザカッターも一緒に添えられていて、そのピザは当然まだ切り分けられていなかった。チャンスだと思った。自分が何かをするチャンスだ。ピザカッターを手に取り、啓は固まった。

 八人。どのように切れば八等分になるのだろうか。必死になって頭の中で考えた。まず、縦に一回。横に一回。それで四等分。斜めに一回。それで何等分になる?

 前に座っていた三十代くらいのスーツの男性が笑った。「普通に切るだけで八等分になるでしょう」と言って、ビールを一口飲んだ。いつの間にか隣に戻ってきていた女性の先輩が「貸して」と冷たく言い放ち、啓の手からピザカッターを引ったくった。

 ピザを切り分けたかった。そうすれば、その場に居られるような気がしたから。その場に居ても良い理由になる気がしたから。けれど丸くて大きなピザは結局、女性の先輩の手によってさっさと切り分けられてしまった。正確に、素早く。

 切り分けられたピザは、冷めていて、まずかった。


 ふとした拍子に、社員だったころの記憶が蘇る。そしてその記憶は啓を内側から苦しめた。まず胸が締め付けられるような痛みがあり、その後息が苦しくなった。それから冷静になって、もう社員ではないのだと、自分を慰める。しかし苦しさは消えない。

 学生の頃は何かになってしまうことが怖かった。自分が枠にはまってしまうことが怖かった。けれど、社会人になった今は、何者でもない自分に苦しめられる。何かに属していたい。誰かに認められる枠にはまっていたい。

 結局、生きている限り何かに苦しめ続けられるのであろう。啓は布団から起き上がり、スマートフォンのロックを解除した。今日は藤山と会う日だった。


 その喫茶店は相変わらず空いていて、すぐに藤山の姿を見つけることが出来た。藤山は布製のブックカバーが掛けられた文庫本を熱心に読んでいて、こちらには気がついていない様子だった。

「藤山さん」

 なるべく小さな声で後ろから声をかけると、藤山は本にしおりを挟み、ゆっくりと振り返った。

「啓くん。良かった、もう来ないのかと思ったよ」

「すみません。職業相談が、長引いて」

 啓は他人の顔を覚えるのが苦手だったが、藤山に関してはその心配はいらなかった。相変わらず、己を鏡に映したかのようにそっくりな見た目をしていた。

 毒にも薬にもならない雑談の後、本題に切り込んだ。啓は入れ替わりを承諾する旨を藤山に伝えた。

「本当に?良いの?」

「はい。おれはずっと、自分を変えたいって思っていたんです」

 そう答えると藤山は嬉しそうに目尻を下げた。

「そうか。その気持ちは僕も同じだよ」

 藤山は自分の境遇について簡単に話してくれた。静岡の浜松に家を持っていること。土地を貸している親戚とはメールでやり取りをしていること。友人などは一切おらず、普段は家で絵を描いて過ごしていること。

 話が一段落して、藤山はアイスコーヒーに手を伸ばした。啓もガムシロップを入れたアイスティーを口に含んだ。

 机の脇の通路を若い女性のウェイトレスがせわしなく動き回っている。客が帰った後のテーブルを清掃しているらしい。

 ふと藤山に目を移すと、彼はそのウェイトレスの動きを目で追っていた。とても熱心に。一挙一動を見逃さないように、気を張っているようだった。

「知り合いですか?」

 啓がそう聞くと、藤山は呆気に取られた表情になって、

「ん?誰が?」

 と答えた。


 入れ替わりは三週間後に敢行することになった。急ぎ足だが、ダラダラしていても仕方がないだろう。入れ替わった後はお互いになるべく接触せず、各々の人生を歩むこと。そう取り決められた。

 家具や私財を持っていく必要はない、というより持っていけないため、準備は必要ない。むしろ何かしらの準備をして誰かに気が付かれてしまってはそれでお終いだ。


 行動を起こすべきではないのだろう。けれど啓はけじめをつけたかった。よく晴れた土曜日の朝、足は自然と実家に向かっていた。

 啓の住むアパートから実家まで、電車で一時間弱かかる。しかし言い換えればその程度の距離だった。決して遠くない。両親は、啓がどこに住んでいるのかを知らない。そのため、接触するためには啓の方から実家に出向かなければならなかった。連帯保証人である里美は啓のアパートの場所を知っていたが、何か接触してくるにしても年賀状を送ってくるくらいだった。

 事前に連絡は入れていない。住み慣れた実家に向かうというのに、啓は緊張していた。向かう電車の中で、何度も、何度も、会話をシミュレーションした。最悪の場合も想定した。縁を切られるかもしれない。いや、そうなった方が好都合だ。自分を宥めすかし、奮い立たせる。

 最寄り駅に到着し、狭苦しい住宅街を歩く。比較的新しい建物が隙間なく並んでいて、息苦しい。学生の頃は、駅まで車で迎えに来て貰ったりしたものだった。いや、それは優しさなんかではなくて、どうせ何かのついでだったのだろう。里美の送り迎えのついで。買い物のついで。啓が生まれたのだって、里美のついでだったのかもしれない。

 車も通れないような細い道や、不親切な坂道の先に、見飽きた実家がどんと腰を据えていた。かつては新築であっただろうその建物は、何十年かの年月を経てくたびれていた。乳白色の外壁は黄ばみ、野ざらしになっている駐車場のコンクリートは黒ずんできている。実家の外観を眺めていて気がついた。車がない。父親の愛車が駐められていない。

 この辺りをうろついていると知り合いにでも声を掛けられかねない。諦めて、玄関チャイムを鳴らした。

 チャイムを鳴らしてすぐに玄関が開かれた。パジャマにカーディガンを羽織っただけの母親が顔を覗かせた。

「ええっ、啓?」

 どうやら父親が帰ってきたのだと勘違いしたらしい。予想外の訪問者に母親は固まっていた。「とりあえず入れてよ」と言って、母親を強引に家の中に押し戻す。近所の人に姿を見られたくなかった。

靴を脱ぎながら、母親が言った。

「あんた、何しに帰ってきたの」

「いや、しばらく帰れなくなるから、そのことを告げに来ただけ。別にすぐ帰るから……」

「すぐに帰る?でも、もうちょっと待っていたらお父さん帰ってくるけれど」

 そう言って母親はスリッパを履いてリビングに向かった。啓はその後ろを慌てて追いかける。お茶やお菓子でも出されたら厄介だった。長居したくなかったし、自分が口をつけたコップが、実家に残されることが何となく嫌だった。

「お母さん、本当にすぐ帰るから。何にも出さないでよ」

 啓が後ろから呼びかけると、母親は少しだけ悲しそうな顔をして手を止めた。手には小分けのクッキーが入った菓子の袋が握られていた。

「啓はやりたいこと見つけた?」

 その言葉は、聞こえないふりをしてやり過ごした。

「お父さんもね、厳しくしたい訳じゃないんだよね。啓と里美に良い人生を送ってもらいたいからって、躍起になって」

 そんなこと分かっている。だから高い金も惜しまずに、塾に入れたり、通信講座を受けさせたりするのだろう。けれど応えられない。何もかも上手くいかない。期待が重荷になる。

「啓はやれば出来る子なんだから、何でもやってみれば良いじゃない」

 その言葉を言われて嬉しかったのは、何歳までだろうか。もう知っている。自分が、やっても出来ない人間であることを。だからその言葉は、体を締め付ける鎖のように啓を苦しめるだけだった。

 低い振動音がして、啓は窓の外に目をやった。家の前の駐車場に、父親の車がゆっくりと侵入してくるところだった。どうやら帰ってきたらしい。

 前向きに駐車された車の運転席に父親が見えた。後部座席には小さな我が子と肩を並べて座る里美の姿があった。二人は楽しそうに笑っていた。父親は頻繁に、里美と里美の子どもの方を振り返っては、笑いかけている。

「もう、おれ、帰るから」

 下ろしかけていたリュックサックを再び背負い直す。何か自分の痕跡が残されていないか、首を回らせる。

「ええ?お父さん、今帰ってきたところじゃない」

「おれ、大事な仕事に就くことになったんだ。だからもう帰ってこれないと思う。連絡しても通じないかもしれないけれど、心配とかしないで。別に事件とかに巻き込まれている訳じゃないから。じゃあ、また……」

 また、はないのだった。しかし言い直す時間が惜しい。父親と、里美と、顔を合わせたくなかった。玄関に回り、履いてきたスニーカーに足をねじ込んだ。そのまま玄関の戸を勢いよく開き、前だけを見て早足で歩き出した。すぐ脇には父親が乗った車と、父親の姿があるはずだった。しかしそれらを視界に入れないように努めた。父親と、里美が啓に気がついたかどうかは分からなかった。とにかく前だけを見て、何も余計な情報を入れないようにして、啓は歩き続けた。


 来なければ良かった。こうなることなんて分かっていたはずなのに。久し振りに帰ってきた自分を、家族が歓迎してくれるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていた自分が恥ずかしい。もう良い、これで良かったのだ。もうあの家族と顔を合わせることもないのだ。後腐れなく別れられることに感謝しなければならない。

 何か嫌なことを言われた訳でもなかった。邪険にされた訳でもない。しかし、そうされるよりも、もっとずっと辛かった。もうそこに、啓の居場所は無かった。家族の中に、啓が入り込めるような空白は、無かった。

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