第三章 もう一人の自分はどこに消えた? (橋本啓 25歳)

第16話 もう一人の自分との出会い

 橋本啓は、ハローワークでの手続きを終えて家に帰る途中だった。背負った箱型のリュックサックには、失業給付金に関するあれこれが書かれた分厚い冊子と、給付を受けるための書類とが適当に詰め込んであった。

 春になったばかりだった。半袖の黒のティーシャツに、灰色のチノパンを履いていた。チノパンは丈が短く、すね毛の生えた足首と、灰色の靴下が見えていた。

 自動ドアが開いて、風が流れ込んでくる。ハローワークが入ったビルから出ると、書類を片手に抱え込んだ、パンプスを履いた女たちが待ち構えていた。ハローワークから出てきた女性を捕まえて、生保レディにならないかと勧誘するためらしい。最も男性である啓にとっては無縁の話だ。いつも通り、女たちの脇をすり抜けて駅に向かおうとしたその時、脇からにゅっと男が飛び出してきた。


 何かの勧誘かと顔を顰めて、次の瞬間驚いた。目の前に現れた男は自分自身だった。


 啓は足を止めて、目の前に突然現れた男の容姿をまじまじと見た。よく見れば服装こそ違うものの、顔や髪型は瓜二つだった。気持ちが悪いくらいだった。身長は啓より十センチほどは低いだろうか。けれどその点を除けば、その男は、だった。


「あの、少しお時間よろしいでしょうか」


 男は啓を見上げながら、微笑んだ。声は啓より大分高い。声を発すれば、啓とは違う人間なのだということが分かる。自分との決定的な違いを見つけて、少し安堵しながら、啓は答えた。

「何でしょう」

「あの、長くなるので。喫茶店でも行って話せれば良いのですが」

 啓は辺りを見渡した。通行人や勧誘の女たちが、突如現れた瓜二つな男性二人に好奇の目を向けている。

 もし男が、これほど自分と似ていなければ、啓は即座に誘いを断り地下鉄に乗り込んで家路についていたことだろう。しかし、二度とは目にかかれないような、自分と瓜二つな人間を見失いたくなかった。都会の雑踏に紛れていくのを見過ごすのは惜しい気がした。

「良いでしょう。この近くにチェーン店の喫茶店がありますから」

 そう言って啓は男と並んで歩き出した。自分そっくりな男と肩を並べて歩くのは気恥ずかしかったが、後に待つ何かのために耐えた。


 小綺麗な喫茶店に入り、四人掛けのテーブルについた。男は啓の真正面に腰を下ろしたが、その顔を改めて見る勇気がなかったため、机の上に広げて置かれていたメニューに目を落とした。ウェイトレスが水とお絞りを持ってきて、啓と男の前に置いた。

「僕は藤山駿之介というものです」

 ウェイトレスが去った後、男は小さな声で言った。フジヤマは、啓の頭の中で「富士山」に変換された。何とも縁起が良さそうだと思うと同時に、どうやらこの人は自分の親戚等では無いらしいぞと冷静になった。

「あ、私は、橋本啓というものです」

 後を追うように啓も名前を述べた。藤山はにっこりと笑って啓の目を見た。笑った顔も啓によく似ていた。

「お若く見えますけれど。橋本さんはおいくつですか?」

「二十五歳です」

「へえ。私はもう三十歳になるんですよ」

 藤山は実年齢よりも大分若く見えた。肌が白く、出来物など見当たらない。啓の口元は朝剃ったばかりの髭が既に生えてきて青くなっていたが、藤山の顎は剥きたてのゆで卵のようにつるりとしていた。

 自発的に何かを話す気にはなれなかった。元々啓は誘われた身で、藤山に用などない。自分にそっくりな人間の生い立ちが気にならない訳ではなかったが。沈黙していると藤山が口を開いた。

「僕はね、出身は静岡の方なんだ」

 啓が年下だと分かったからか、藤山はタメ口になっていた。しかし決して威圧的ではなく、口調は柔らかい。

「そうなんですか」

「うん。それで、農業をやりたいって言う親戚に土地を貸していてね。そこの土地使用料が定期的に収入として入ってくるんだ」

「そ、そうなんですね?」

 話が怪しい方へ流れていく気配を感じて、啓は頬を引き攣らせた。やはりこの手の怪しい勧誘だったか。

「興味ある?」

「いえ、興味ありません」

 早くも後悔し始めていた。何でこんな怪しい男についてきてしまったのだろうか。自分は無事家に帰れるだろうか。

 ハローワークからトボトボと出てきた惨めな男だと思われていたのだろうか。藁にも縋る思いで、美味しい話にはすかさず飛びつくと思われていたのだろうか。啓の頭の中を、暗いものが占めていく。

「僕の話はこれくらいにしよう。啓くんの話が聞きたいんだ」

「ああ、えっと」

 どのようにして切り上げようか。相手を刺激しないように、この場からすぐにでも立ち去りたかった。言葉を慎重に選んでいると、藤山は笑い出した。

「普通の怪しい話じゃないんだ。そう警戒しないで欲しい。これからするのは、そう、普通じゃない、怪しい話だ」

「どういう、意味ですか?」

 藤山は目の前に置かれていたグラスを手に取り、一口飲んだ。氷がガラスの中でぶつかり合い、カラリと乾いた音を立てる。


「本人が、その本人であると証明するものって何だと思う?」


 精神的なことを言っているのか、現実的なことを言っているのか分からなかったため、どうにも答えようがなかった。「身分証明証とかの話ですか?」と言って、曖昧に誤魔化した。

「そう。その身分証明証と本人が一致することを確かめるための手段って、大体顔だろう。指紋とか、生体に埋め込まれた特殊なチップとか、そういうものじゃない」

 何となく藤山の言いたいことが分かってきた。店内は空調がよく効いているせいか、うすら寒い。


「僕らが入れ替わっても誰も気が付かないと思わないか?」


 藤山の一言で、店内がしんと静まり返ったように思えた。実際には、他の客の喋り声や食器がぶつかり合う音で適度に騒がしかったのだが。

「見知らぬ人は分からないと思いますよ。でも、親とか、友人とか、職場の人とかにはさすがにばれますよ。声も身長も違いますから」

「僕は働いていない。親も海外にいる。友人だっていないさ。貯金と収入があって働く必要のない僕みたいな恵まれたやつと進んで仲良くしてくれるやつはいないんだ。君だって仕事はやめたばかりだし、親としょっちゅう会う必要もないだろう」

 この人は、事前におれのことを調べている。今日、ハローワークの前で会ったのは偶然なんかではない。待ち伏せされていたのだろう。啓は肩を強張らせた。

 単なる怪しい仕事の勧誘ではないことは分かった。それと同時に、危ない何かに巻き込まれようとしていることも理解しなければならなかった。


「それで、何なんですか一体」

「人生を入れ替えてみないか?」


 藤山はもう笑っていなかった。適度に手入れされた眉毛が、斜めに流された前髪の下で弧を描いている。入れ替わるのであれば、眉毛を整えなければ。仕事を辞めた後からもう二ヶ月以上手入れしていないなと啓は思った。

 

 啓には五つ上の姉がいる。里美という名前の彼女は、「さとちゃん」と呼ばれ周囲の人から愛されて育った。ピアノにお習字、バレエ等様々な習い事を経験して、結局どれも続かなかったらしい。穏やかで、鈍感で、人の悪意に鈍い彼女は、啓にも優しく接してくれた。

 父親は厳しい人だった。里美と啓に多くを求めた。勉強、教養、人格の面においても完璧を要求した。里美は勉強も教養もてんで駄目で、塾に行っても同い年の女の子と遊んでばかりだった。但し他に類を見ないほどに人がよく、どんなに愚かな人間であっても優しく接することが出来た。他の女の子たちが誰かの悪口で盛り上がっていたとしても、その輪には決して加わらなかった。器量良しとは言い難かったが、いつも笑顔でいるものだから、多くの人から好かれた。そんな彼女のことが、啓は苦手だった。

 啓は幼い頃から父親の要求に応えようと、尽力してきた。夜遅くまで勉強し、毎日新聞を読んだ。里美よりも努力に努力を重ね、結果良い高校に入学した。初めは啓もちやほやされたものだったが、段々と要求のハードルが上がっていった。テストで少し悪い点を取れば、苦い顔をされる。里美は何もしなくてもちやほやされるというのに。あまつさえ大人たちは「啓は暗い」とこぼすしまつだった。啓が暗くなったのは、啓のせいではない。多くを要求してきた父親のせいだというのに。怠け者にも関わらず、周囲から愛される里美が苦手で、なぜ自分は除け者にされなければならないのかと不満は日々募り、結果その鬱憤は里美に向けられた。しかし里美は啓のことなど歯牙にもかけず、恋人をつくり、その恋人を家に連れてきたりした。

 啓は大学に進学しなかった。大学入試に失敗して、次も失敗することが怖かったため、そこで諦めた。代わりに釘を作る会社に就職した。一緒に入った同期の稲葉くんに嫌がらせをされて、九ヶ月で辞めた。それからはフリーターになった。父親はもちろん、良い顔をしなかった。


「良いか。啓」


 父親の姿を思い浮かべると、記憶の中の彼はなぜかいつもショッピングモールにいる。ショッピングモールのフードコートで、利用可能なスペースいっぱいいっぱいに詰め込まれたテーブルの一つに大人しく着き、呼び出しベルを握りしめている。彼が外食で頼むのはいつも丼ものだった。一食毎にカロリーを摂取しすぎるのに加え、職場が家からすぐの場所にあったため、やや太り気味だった。


「お前の人生は、おれの人生だ」


 そう言い捨てると、呼び出しベルが鳴る。ピッピッピー、という場違いに明るい音が鳴り、父親は席を立つ。カツ丼を取りに行くために。彼の人生の話は、カツ丼が出来上がったことを知らせるベルによって中断される。

 父親はこの自分勝手な持論を啓にしか話さなかった。里美に対し、「お前の人生はおれの人生だ」などとのたまうことはなかった。里美の人生と父親の人生があまりにかけ離れていたからかもしれない。その真意は分からない。

 

 里美は結局、大学を卒業してすぐに結婚し主婦になったため、社会人を経験することはなかった。父親は結婚し名字の変わった里美にもはや何も言うことはなかった。

 一方で父親は啓に失望し続けていた。啓はフリーターを経験した後、自分で授業料を払いデザイン系の専門学校に入った。そこでの学生生活は、楽しかった気がする。同じコースを専攻する仲間は三人しかいなかったが、これまでのように荒波にもまれることもなく二年間が過ぎた。卒業後はデザイン系の仕事がしたかったが、結局、インターホンを作る会社に就職した。その会社も、半年で退職した。

 父親に退職理由を話さねばならなかった。退職の理由はやはり人間関係だった。けれど、父親がその理由で納得してくれるとは思えなかった。しかし、運が良いのか悪いのか、同じタイミングで里美に子どもが産まれた。里美が赤子を連れて実家に帰ってきたため、家が騒がしくなった。慌ただしさに乗じて退職を告げるだけ告げ、啓は逃げるように実家を出た。築三十年のアパートの一室を借りた。そして、今に至る。


「へえ。デザイン系の専門学校に」

 啓の話を聞き終えた藤山は、アイスコーヒーに口をつけた。一緒についてきたストローをグラスに刺すことはしなかった。紙の包装に包まれたストローは、ガムシロップと一緒に脇に追いやられている。

「結局、デザインの仕事がやりたかったかどうかも分からないんです。本当に、おれの人生は下らないです。おれなんかと入れ替わったら、何もかもを失うことになりますよ」

「僕だってね、都内の良い大学を出てはいるけれど就職していないし。同じようなものさ」

 そう言って藤山は出身大学を教えてくれた。誰でも聞いたことがあるような、都内屈指の有名大学だった。

 この男と入れ替わったら、何もかもが手に入る。それに、もう働く必要もないのだ。

 頭がくらくらしてきて、啓は強く目を瞑った。目を瞑っても、目の前に藤山が存在していることが分かった。彼には圧倒的な存在感があった。特に、啓にとっては。

「藤山さんは……どこでおれのことを知ったんですか?」

「SNSだよ。とある企業が、歓迎会の写真をネット上に載せていてね。そこに君がいた。あまりにも自分とそっくりだったから、気になって調べてみたんだ。色々調べていく内に君のSNSのアカウントに辿り着いて、今日ハローワークに来ることが分かったから、待ち伏せしていたんだ。君の存在自体は、三年前から知っていた」

 やはり本名でSNSなんてやるもんじゃないな、と少しだけ思った。例えこの話が自分にとって良い話だったにしてもだ。

「どうして、どうしておれなんかと入れ替わりたいんですか?」

「そうだな。僕は、二十代を無為に過ごしてしまったからね。取り戻したいんだ。仕事もしてみたい。この財産があると、変な人間しか寄ってこないし、普通の友人もつくってみたい。普通の人になって、普通の人生を取り戻したいんだ」

 藤山の話はあまり共感できるものではなかったが、しかし若さを取り戻したいというのは本音であろうと思った。

 納得し、啓は鼻からたっぷりと空気を吸い込んだ。

「少し時間をください。すぐに返事が出来る類の話ではないみたいですから」

 まだ藤山という男を完全に信頼してはいなかった。藤山は啓の意図を汲んだのか、ゆっくりと頷いた。

「分かりました。この話の続きは、今度啓くんがハローワークに来る日にしよう。今度はいつ来ないと駄目なのかな?」

「あ、職業相談のために、二日後にまた来る予定ですけれど」

「分かった。その日にまたこの喫茶店で会おう。ここは払っておくよ」

 丸められた伝票を手に取り会計に向かおうとする藤山を、啓は慌てて呼び止めた。

「何かあるといけませんから、連絡先くらい交換しませんか」

 啓がそう言うと、藤山は困ったような顔になり、ほんの少し微笑んだ。内側に反った伝票を指で弄んだ後、声のトーンを幾分か落として、かすれた声で言った。

「啓くん。我々がやろうとしていることは世間に認められるようなものではない。本当はこんな小さな喫茶店で会うことすらも気が引ける。だから我々の繋がりは、なるべく残さないようにする。良いかな?」

「は、はい」

 啓は会計に向かう藤山の広い背中を目に焼き付け、喫茶店を後にした。

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