第15話 <回答編>あべこべな方向を向いた靴

 ゆりの後を追うように、すぐに電車に乗り込んだが、そこに見知った顔はなかった。そのまま、家に帰るための路線に乗り換えて、二人掛けのシートに腰を下ろす。過ぎ去っていく窓の外の景色を、ただぼんやりと眺める。

 ゆりと春斗のことが、否応なしに頭に浮かんでくる。むしろ二人のことを考えると、心がすっと軽くなる。二人の関係が、あれほど夏樹の心を苦しめていたというのに。春斗に対する執着心が、段々と薄れていく。

 気がつけばいつかと同じように、郵便屋さんが隣に座っていた。肩と肩が触れ合いそうな距離にいるのに、存在感は希薄だった。重たそうなショルダーバッグを膝の上で抱えて、瞬きもせずに窓の外の気色をぼんやりと眺めている。

「郵便屋さんじゃん」

「夏樹、分かった?」

「うん、多分」

「じゃあ教えてくれるかな。もうそれほど時間は残されていないから」

 上手く説明できるだろうか。夏樹は、頭の中に浮かんでいる言葉を、ゆっくりと紡ぎ合わせた。


「まず――私が時間を聞いた時、春斗が一六時二十七分なんて答え方をしたのは、壁に掛かっていた時計が止まっていたから。だからアナログの時計じゃなくて、携帯電話にデジタル表示された時刻を読まなければならなかった。時計が止まっていた理由は、電池が必要だったゆりが電池を抜いたから」

「うん」

「なぜ、私の部屋の時計からわざわざ電池を抜いたのか?そもそも――その考え方が間違っていたの」


 郵便屋さんは軽く頷いて、話の続きを促した。


「答えは靴にあった。あの部屋で見たあべこべに置かれた靴。片方は踵が入り口を向き、片方は爪先が入り口を向いていた。それらは実は、どちらも正しい方向を向いていた。片方は外履きで、片方は――の」

「だから二足は、あべこべの方向を向いていた?」

「そう。ホテルの部屋って、土足で入るところが多いでしょ?だけど靴を履いたまま部屋に入ることに抵抗がある人も多い。だから、使い捨てのスリッパが備え付けられたりするものだけれど、あの部屋にはなかったか、あっても使う気にならなかったか。とにかく自前でスリッパを用意した。それを私は外履きのものだと勘違いした。勘違いして、部屋の中に土足で入りこんだ。重要なのは、なぜ私が勘違いしていたかということ」

「うん」

「なぜ未来の私は勘違いしていたのか?答えは簡単、

「じゃあ誰の部屋なんだい?」


 唇を噛んで、夏樹は俯いた。


「それはもちろん……あの部屋は、ゆりの部屋だった。ゆりはサークル室でもスリッパを履くくらいの人だし。時計の電池が抜かれていた理由は、そもそもあの部屋がゆり本人の部屋だったから」


 車内アナウンスの放送と共に、電車の動きが緩やかになっていく。車内がほんの少しだけ騒がしくなった後、電車は完全に停車した。


「私がゆりの部屋を訪れた理由は、穏やかなものじゃない。そもそも、話し合いたくなかったはずの春斗を部屋の中に引き入れた理由は、ゆりの部屋の前で話し合う姿を誰かに見られたくなかったから。きっと私は、ゆりに何かをしてしまったんだ。重大な何かをしでかしてしまった。春斗はそれに気がついていた。だから私は殺されたんだ」


 開かれたドアから数人が車内に乗り込んできた。白いブラウスに青色のタイトスカートを合わせた三十代くらいの女性。スポーツブランドのロゴがついた大きなボストンバッグを斜めがけにした、高校生くらいの男の子。


「その通りだ。謎解きはそれくらいでいいだろう。君はゆりにひどいことをした。ここから先は僕が教えてあげよう」

 乗客たちに郵便屋さんは見えているのだろうか。ほんの少し気になったが、夏樹はすぐに考えることをやめた。


「ゆりはお酒に弱かった。それは君も知っているだろう。君はそのことを利用しようとした。酷い二日酔いにさせて、みっともない姿を春斗に見せようとした。そうしたら春斗もゆりに幻滅するだろうと目論んだ」


 夏樹は下唇を噛んで、俯いた。


「ところが、加減がわからなかった君は、ゆりに大量の――限界を超えるお酒を飲ませてしまった。君は泥酔したゆりを放置して、眠り込んでしまった。朝起きたらゆりは急性アルコール中毒で――詳細には吐瀉物を喉に詰まらせて――死んでいた。君は怖くなって、事実を隠そうとした。ゆりが一人で酒を飲んで、一人で死んだことにしようとした。ゆりは未成年で、インターンシップ中に一緒に飲んでいたと知られたらまずいことになると判断したんだろう」


 責任から逃れようとする、自分ならやりそうなことだと夏樹は思った。


「そうした事実に、春斗は気がついた。君の態度や、部屋の時計が止まっていることから推理して事実を導き出した。そのために、過剰に君を攻撃したんだ。証拠隠滅のために殺されるとでも思ったんだろう」


 俯いた目線の先に、自分の手のひらがあった。夏樹は柔らかい手のひらを、じっと見つめていた。


「どうだい?事実を知って、君はどう思う」

「……私は、くずだね」

「その通りだ。全く酷い人間だよ。自己中心的で、他人のことなんて考えちゃいない。大体、君は僕に馴れ馴れしすぎる。世界が自分中心に回っているとでも思っているのかい?嫌なことからは大抵逃げるし、手に入らないものは奪ってでも手に入れようとする、そのくせそのための努力はしない。他人より自分の方が優れていると思っているからね」

「そんなこと……思ってない」

「思っているだろう?君はいつだって、周りの人間を見下していた。特にゆりだ。見下していたはずのゆりに春斗を取られて、むきになって取り返そうとして。全く愚かだな」


 いつから春斗を取り戻したいと思い始めたのだろうか。春斗が夏樹に興味を示さなくなってから、徐々に春斗のことが気になり始めた。その感情は、春斗とゆりが恋愛関係にあると知った時に更に大きくなり、爆発した。本当に春斗とよりを戻したいと思っている訳ではない。夏樹はただ、春斗を「取り戻す」ことに執着していた。何かから春斗を奪いたかった。

 それだから、ゆりが春斗と一線を超え、そのことを後悔していると知った時、夏樹の中で春斗の存在が小さくなった。春斗に「取り戻す」価値がなくなったから。結局のところ、夏樹は春斗をモノ扱いしかしていなかった。そんな夏樹の元に、春斗が戻ってくる訳がない。

 誰かの感情を考えて、動いたことなんて一度も無かった気がする。いつだって自分本位で、そのくせ確固たる自分なんて持っていない。夏樹という人間はふわふわふらふらしている。その時その時で「夏樹」は変わる。春斗と一緒にいる時は明るくていつも笑顔を浮かべている「夏樹」、ゆりと一緒にいる時は面倒臭がりで怠惰で我がままな「夏樹」。両親と一緒の時は無口で無表情でいつも不機嫌な「夏樹」。自分なんて持ってない。誰かと一緒にいることで、何とか自分を保とうとしているだけの、つまらない人間。


「……でも、これで私は死ななくて済む?」

「うん、まあ、約束だからね。せいぜい前向きに生きると良いよ。まあ別に、君はくずだが、君みたいなやつを愛している人間もいるのだから」

 ほんの少しだけ、肩の荷が降りた気がする。春斗やゆりとの関係が戻った訳ではないけれど、最悪の未来は避けられた。春斗に拘泥するあまり、ゆりを殺してしまう、そんな最低の未来。

「ゆりに謝らないと」

 傷つけてしまうつもりはなかった。彼女が傷ついているところなんて見たこともなかったから、予想できなかった。

 スマートフォンを鞄のサイドポケットから取り出し、ガラスフィルムが貼られた画面を指でなぞっていく。ゆりに対して、メッセージを送信する。

「そんなことをして、何になる?」

 いやに冷たく響いた郵便屋さんの声にびくりと肩を震わせて、夏樹は顔を上げた。

「何になるのって、関係修繕だよ」

「いくら取り繕っても、ゆりは死んでしまうのに?」

「え?何言ってるの?ゆりが死ぬ未来は変えてくれるんでしょ?」

 郵便屋さんはゆっくりと首を左右に振った。短い黒髪が、顔の周りでパサパサと音を立てて踊った。

「僕が変えられるのは、夏樹が死ぬ未来だけ。ゆりが死ぬ未来は変えられない。なぜなら、僕は夏樹を担当する死神であって、ゆりを担当する死神ではないから」

「つまり、ゆりが死ぬ未来を変えられるのは、別の死神ってこと?」

「まあ、端的に言ってしまえばそういうことになるだろうね」

「その死神はどこにいるの?」

「知らない。日本にはいないかもしれない。探すのは困難だね」

 淡々と事実だけを述べていく郵便屋さんの唇を夏樹は凝視した。耳から得られる情報だけでは郵便屋さんの言っていることを理解出来なかった。郵便屋さんから発せられる言葉を理解するために、その柔らかそうな桃色の唇を見つめ続けた。

「ゆりは助からない?」

「うん。まあ、そう。多少未来は変わるかもしれないけれど、死は彼女に、確実に訪れるだろうね」

 握りしめた手の中でスマートフォンが振動する。ゆりからメッセージを受信したみたいだった。


「まぁ……お互い、水に流すか\(^o^)/」


 この一文だけ。目を皿のようにして探しても、ゆりからのメッセージは他に無かった。

 積み上げられた石の山が、土台を失ってガラガラと崩れ落ちるように、もう戻れないほどに壊されたはずの関係は、たった一つのメッセージによって、呆気なく修繕されてしまった。

 何だか訳の分からないものが込み上げてきて、夏樹は電車の天井を見上げた。左右に張り巡らされた小さな広告のポスターを、訳も無く黙読した。

「ああ、あるかもしれないね。一つだけ、方法が」

「え、どんな?」

 小さく、細く、頼りない子どもが差し出した手を握らない訳にはいかなかった。夏樹は郵便屋さんの言葉に飛びついた。

「少し前にあった話だけれど。山田さんが佐藤さんに殺される予定だったんだが、山田さんの死神が何もしなくても、山田さんが助かったってことがあった。原則としてその人の死が決定したら、その人を担当する死神しかその死を回避させられないはずなんだけれどね」

「山田さんは何かしたの?」

「いいや、山田さんは何もしてない。佐藤さんの死神が、佐藤さんの魂を前狩りしたんだよ。どういう事情があったのかはしらないけれど。まあ、気分かな。佐藤さんっていう奴はクズ人間だったらしいからね。そうしたら山田さんは死ななくてすんだ」

 郵便屋さんは遠くに目をやりながら、一句ずつ区切りながら話す。話の要点を掴むために、夏樹は神経を集中させなければならなかった。

「つまり……私が先に死ねば、ゆりは助かるかもしれないってこと?」

「まあ、そうだな。一応、夏樹がアルコールを過剰に摂取させて、ゆりが死ぬってことになっているからね。夏樹が先に死ねばゆりも死なずに済むかもしれない。でも、夏樹が死んだショックでゆりがやけ酒して、やっぱりゆりも死ぬかもしれないね」

「なんでよ。そこら辺、分からないわけ?」

「すまないけれど、分からないね」

 夏樹は腕を組んだ。腕を組んで、考えるふりをした。

 私が死ねば、ゆりが助かるかもしれない?そんな話、乗るわけない。ゆりは私にとってただの友人でしかない。私の娘だとか、私の妹だとか、そういうのじゃなくて、今後何人も出来るであろう私の友人の一人だ。彼女のために、自分の命を差し出すことなんて出来ない。

 幸運なことに、逃げる理由も用意されていた。「百パーセントじゃない」という郵便屋さんの言葉に乗っかれば、誰も私を責めたりしないだろう。助かるか、助からないか、分からない方法のために命を投げ出すなんて愚かじゃないか。

 そこまで考えて、夏樹は首を捻った。そうまでして、私は生きたいのだろうか。仕事、人間関係、年金、病気、これから待ち構えているものは嫌なことばかりだ。何だか最近、歯茎が赤く腫れているような気がする。まだまだ若いけれど、確実に体は衰えていくのだろう。それに私は、生き長らえて何かを残せるような人間じゃない。

「郵便屋さん。もし私が先に死ぬって言ったら、あなたが私を殺してくれる?」

「物騒だな。殺すんじゃない、魂を狩るだけだ。魂を前狩りするくらいならしてやってもいいよ」

「それって痛い?」

「痛くない」

 何だか、悪くない気がしてきた。死と、病気と、老化と、色々なものに怯えて生きるよりは、今ここですっぱり終わってしまった方が良いのかもしれない。

 しかしそのことを決断するには時間が必要だった。

「まあ、ちょっと考えるよ」

 夏樹はそう言って、小さな郵便屋さんに力なく微笑んだ。

「夏樹、忘れるなよ。君はくずだが、君を愛している人間もいるってことを」

 郵便屋さんのささやき声は、車内の喧騒に紛れて消えていった。



 家に帰ると、リビングに明かりが点いていた。橙色の部屋の中で、もうすぐ五十になる母親がせわしなく動き回っている。髪の毛は艷やかで、後ろからみると三十代のようにも思えた。

 食卓として使っているテーブルの上に置かれていた年金の封筒が無くなっている。誰かがどこかに移動させたのだろうか。

「お母さん」

「ああ、おかえり」

 母親がこちらを見もせずに、言った。

「年金のやつってどこにやった?」

「ああ、それ。お母さんが書いといたから。あとは学生証の写しとかが必要らしいから、それだけやっちゃいなよ。夏樹ちゃんの部屋に置いてあるから」


 どうして?

 どうして、娘の老後の心配なんてするのだろう?

 その頃にはお母さんはいないんだよ、確実に。

 私たちの住む世界は確実に離れていく。内と、外。それなのにどうして、子どもじゃなくなっていく娘の心配なんてするのだろう。


「お母さん」

「はい?」


 年金の封筒が置かれていたはずの机から、夏樹は目が離せなくなっていた。

 色々なものが込み上げてきて、抑えきれなくなる。


 お母さんの中では――お母さんが死んだ後も、私とお母さんは家族のままなんだ。私がお婆ちゃんになっても、お母さんはお母さんでいてくれるんだ。


 お母さん、ごめんね。

 科学館に行ってあげればよかった。

 風船なんて欲しがらず、科学館に行ってあげればよかった。

 お母さんが行きたいっていったんだから、行ってあげればよかったんだ。


 何も言えずに呆然としていると、水がシンクに落ちる音が聞こえてきた。どうやら母親は洗い物を再開させたらしい。


 死にたくない。ずっとずっと、お母さんの子どもでいたい。

 夏樹はそっと、母親の首筋を覗き込んだ。そこにあるいくつかのシミが、シワが、全部どこかに行ってしまえばいいのに、と夏樹は思った。

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