第14話 八万円

 家に帰ると、リビングのテーブルの上に夏樹宛の封筒が置かれていた。どうやら年金に関する知らせらしい。二十歳になったため国民年金保険に加入したと、封筒に書かれている。

「なにこれ、馬鹿じゃないの」

 年金なんてまだ学生なのに、払えるわけがない。

 様々なものが、外側からの力が、夏樹を大人にしようとしているみたいだった。


 母親は寝室にいるらしく、出てこない。それ幸いと、夏樹も自分の部屋に引き込んだ。肩掛けカバンを床に落とすと、開いた鞄の口からプリントが溢れ出す。黒いインクで形作られた文字の羅列。ただ試験のためだけに保管されているプリント類は、学期が変わればゴミ箱に捨てられる。


「夏樹?」


 声に驚いて振り返ると、部屋の入り口に母親が立っていた。

「何?」

 毎度毎度、ノックもせずに部屋に入ってくる。苛立ちを隠せない態度で応じると、母親も少しムッとしたようだった。

「帰ってくるなら言ってよ。ご飯、用意してないよ」

「いいよ、まだ食べないから」

「そういう問題じゃないでしょ。買い出しとか、色々しないといけないんだから」

 それ以上口答えはせずに、夏樹は床に散らばったプリントを拾い集め始めた。母親はそんな夏樹の後ろ姿を見て、諦めたように去っていった。


「夏樹」


 聞き慣れていない声に目を見開き、恐る恐る振り返ると、郵便屋さんがいた。色彩を欠いた、黒一色の学生服は、ポップなカラーで彩られた夏樹の部屋では浮いて見える。

「え、どうやって入ってきたの?」

「そんなこと、気にしてもしょうがない」

「はあ……」

「で、夏樹、分かった?」

 夏樹は視線を彷徨わせながら、自信なさげに頷く。

「まあ、ね。ゆりと春斗は恋愛関係にあった。私はそれを知っていて、逆上して春斗を追い詰めた。怯えた春斗が抵抗して、私を殺した」

「うーん」

「あれ、違うの?」

 はいともいいえとも言わずに、郵便屋さんは黙り込んだ。

「他に」小さな声で、郵便屋さんが呟く。「他に気になることはなかった?」

「電池と、靴?」

 靴はよく分からないから置いておくとして、電池くらいならどこからでも調達出来るような気がする。例えばエアコンのリモコンなどから抜き取ってしまえば良いだけの話だ。ゆりが電池をどこかから調達してきたというだけで、春斗との接触を疑うのは考えすぎだ。視野が狭くなっていたのだろう。

「まあ、良いや。考えるの面倒くさいし」

「良いのかい?死んでしまうかもしれないのに」

「ていうかね、生きていくのが大変すぎるのよ」

 二十代からがんのことを気にしなければならないし、将来貰えるか分からない年金を払わなくてはならないし、人間関係は複雑だし。

「いいよね。郵便屋さんは、楽そうで。魂回収するだけでしょう」

「は?何言ってるんだ。大変に決まっているだろう。毎日毎日死神手帳は更新されて死ぬ予定の人間はごまんといる。福岡で魂を回収して、次は青森に飛んで、また佐賀で魂を回収するなんてこともある。全くやってられないよ。どうして青森のやつはもう少し耐えられなかったんだ?」

「無茶言わないであげてよ。というか、そんなに大変なのに、どうしてこうやって私に接触してきたの?黙って魂を回収するだけで良いじゃない」

「僕はね、郵便屋さんでいることに嫌気がさしたんだよ。ただ魂を回収して、それを偉い人に届ける。その繰り返しだ。少しだけ反抗してみようと思ったんだ。手紙を開封して、中身を書き換えてやろうと思った。だから君等を助けている。それだけだ」

 郵便屋さんは目を細めて笑った。どこか艶めかしさを感じる、蠱惑的な笑顔だった。

「それってやばくない?テロじゃん」

「ふん。だから……僕は君等が生きようが死のうがどっちでも良いんだよ。ただ自分のためにこの遊びをやっているだけだ」

 郵便屋さんはそう言って、夏樹に背を向けた。夏樹は目を逸し、空中に視線を彷徨わせた。

「まあ……テレビでも見よ。今何時?」

「やれやれ、まったく。今は……五時くらいだ」

 顔を上げて、壁に掛かっている時計に目をやる。時計の針は五時三分を指していた。

「五時か、まだ何にもやってないな……あ」

 

 ――大島くんにはもう確認してあるよ。貸してないってさ。ていうか、もう、いい。この話に何の意味があるのか分からない。私今日、七時から予定があるから。今、何時?

 ――えっと……十六時二十七分だけど


 春斗と交わした言葉を一言一句、正確に思い出す。時間を聞いた時、春斗は今「十六時二十七分」だと言っていた。この言い方は少し妙ではないだろうか。壁にはアナログの時計が掛かっていた。春斗もその時計は目についていたはずだ。アナログの時計から時刻を読んだのなら、「十六時」ではなく「四時」と言うはずではないか。夏樹は直前に「七時」から予定があると話している。夏樹に合わせて「四時」というだけで充分に話は通じるはずだ。

 それに、「二十七分」という具体的な数字をアナログの時計からパッと読み取れるものなのだろうか。郵便屋さんのように、五時くらいとか、三十分くらいとか、アバウトな言い方になる方が自然だ。


「アナログの時計じゃなくて、携帯電話の時刻表示を見た?」


 デジタルで表示された「十六時二十七分」という時間をそのまま正確に読んだのだろう。目につく場所にあったアナログ時計の時間ではなく、わざわざ携帯電話を取り出して時間を見た理由は何なのだろう。

「え、もしかして」

 そこが電池と繋がるのか。時計の電池が抜かれていて、時計が動いていなかったから、春斗は携帯電話を取り出して時間を読んだのではないか。

 だとしたら新しい謎が生まれる。なぜゆりは、夏樹の部屋の時計から電池を抜いたのか。自分の部屋の時計から抜けば良い話ではないか。そして、時計の電池が抜かれたことに夏樹は気がついていなかったのだろうか。

「うーん」

 首を捻り、頭を働かせるが、どうにも分かりそうにない。そもそも、ゆりという人間自体が分からなくなってきた。誰かと恋愛するような――外の世界に飛び出していくような、そんな子じゃなかったのに。


 八万円。ふいにその数字が頭に浮かんだ。


 二十二歳の子どもが、家に入れる額としては、少し多すぎやしないだろうか。そんなことを言ったら反論されてしまうだろう。「あなたを育てるのにかかった額は月八万円払ったくらいじゃ返しきれない」と。確かにその通りだ。その通りなのだが、八万という数字が、家族に払う額というよりは同居する他人に払う額に近いと感じてしまう。

 異常というほどではない。ゆりのお母さんは、普通の人だった。入学式の時、ゆりと一緒に車に乗せてもらったことがある。本当に普通の、キャリアウーマンという言葉が似合いそうな、サバサバしたお母さんだった。

 けれどどうしてだろう、どうしてこんなにも、八万という数字が気になるのだろうか。大人になるということは――子どもじゃなくなるということだ。子どもじゃなくなってしまえば、家族の中での役割は失われる。八万円という数字が、暗に家族は終わったということを示唆しているようで、寂しくて、苦しかった。



 ゆりと話さなければならなかった。大学の講義が終わった後、夏樹はミステリー研究会のサークル室に足を運んだ。白のブラウスに青いフレアスカートを合わせたゆりは、いつも通り猫の耳がついたスリッパを履いて、パイプ椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた。

「やっほ」

「夏樹ちゃん、もう授業終わった?」

「うん」

「ゆりさー、年金のやつ届いた?」

「ああ、二十歳になったら来るやつね。来てないよ、私まだ十九歳だし」

「なんか届いててさー。手続きとか面倒くさいから放置してるけど」

「え、それでどうするの?」

 夏樹は少しムッとして投げやりに言う。

「どうもしないよ。お母さんに任せた」

 そんな深刻そうに言わないで欲しいと思う。就活や、試験、色々なことを深刻なこととして捉えないで欲しい。そんなにたくさんのことをまじめにこなすことなんて出来ない。やらないでどうするの?なんて、聞かないで欲しい。辛くなる。荷が重すぎる。

「ところでさ、ゆり、大島くんから聞いたよ」

 普段から表情の変化に乏しいゆりが、ほんの少しだけ驚いたような顔をして夏樹を見上げた。

「春斗と、付き合ってるんだって?」

 軽い調子で聞いたつもりだったのに、思いがけず声が震えた。

「いや、別に」

「こっちは分かってるんだよ。大島くんから全部聞いたから」

 ゆりと春斗の関係については幾分か推測が交ざっていたが、大島から全て聞いたと言った方が効果的だろうと思った。実際ゆりは戸惑って、息を吐き出した。

「でも嘘はついてないよ。私たち、付き合ってないよ。多分」

「多分?多分って、何?」

「だって、付き合ってなんて言われてないし」

「でも多分っていうことは、お互い好き同士なんでしょ?」

「さあね」

 その言葉は夏樹を苛つかせた。曖昧な態度ではぐらかされているように感じた。

「ねえ、春斗は私の元カレなんだよ。私を疎外しないでよ」

「夏樹ちゃんを仲間外れにしてるわけじゃないけれど。私にだって分からないから」

 いつの間にかゆりは文庫本を閉じて、俯いていた。長い黒髪に隠されていて表情は伺えない。

「田山くんとは境遇が似ていて、気が合ったんだよ。厳しく躾けられて育ってきたから。お互いに」

 ゆりは暗に夏樹のことを非難しているようだった。


 夏樹は甘やかされて育ってきたでしょう?年金の手続きだって親がやってくれるのでしょう?


 夏樹は不愉快になり顔をしかめた。確かに、母親も父親も甘かった。特に母親は、自分が厳しく躾けられてきたから、子どもには楽をさせたいと言って、夏樹に何でも買い与えてくれた。しかしそれでも、夏樹だって苦労してこなかった訳ではない。何も知らないくせに非難されたくなかった。

「それどうでもいいから付き合ってるのかどうかだけ教えてよ」

「分からないもん。何か、流れでそういうことになってさ。でも付き合ってなんて言われてないし、言ってないし。どういう関係か分からないから」

「え、そういうことって何?」

「だから、そういうことじゃん。大学生がよくするやつ」

 本当に驚いて、声が出なくなった。大人しくて、地味なゆりが、春斗と。


「春斗と、そういう……恋人同士がすることしたってこと?」

「うん」


 怒りよりも好奇心が勝った。どうしてそうなったのか、二人の関係をもっと掘り下げたいと思った。

「何でそうなったの?」

「なんか夏樹の話聞いてる内に成り行きで。このサークル室で」

 ただの無骨なサークル室が、急に生々しい空間へと変わり、夏樹は眉を潜めた。あの、壁際に置かれたソファで。二人はそういうことをしたのだろうか。

「でもさ。それは、付き合ってるのと同じでしょ?だって、私と春斗なんか四年くらい付き合ってたのにそういうことしたこともなかったよ」

「そう」

「良かったね、ゆり。私よりも発展してるよ。ていうかそういうことしたのならがん検診受けないといけないね。あれ、性行為したら女子だけ受けないといけないらしいよ。男の方は受けなくていいらしいね。本当、不公平だよね。ゆりの方ばっかり気にしないといけないことがたくさんあるもんね」

「そうなんだ」

「何でそんな不機嫌なの?良かったじゃん」

「へえ」


 段々と腹が立ってきて、ゆりの肩を掴んで顔を上げさせた。思いがけず、ゆりは泣いていた。


「何で、泣いてるの?」

「分からない?夏樹ちゃんは大事にされていた。私はされてない。だから付き合う前にそういう関係になっちゃったの。私だって本当に田山くんのことが好きなのか分からないままそうはなりたくなかった。でもなっちゃった。焦っていたから」

「焦っていたって、何に」

「居場所を作らなきゃいけないの」


 外の世界に、居場所を。


 夏樹の脳裏に浮かんだのは、八万という数字だった。八万円だ。八万円が、ゆりのいた内の世界を壊してしまったのだ。


「私だって二年生から就活なんてしたくないし、出来ることなら家でゲームしたり漫画読んでたりしてたいよ。でもね、そんなの許されないの。夏樹ちゃんは良いよね、何歳になっても帰る家があってさ。そんなの、一握りの人間だけだから。大人になった子どもを、子どもとして扱ってくれる親なんて、ほんとうに少ししかいないんだから」

 ゆりはそれだけ早口でまくし立てると、リュックサックを掴み、サークル室を飛び出していった。後に残された夏樹は、ゆりと、春斗が情交を結んだであろうソファをただ黙って眺めていた。

「あ……」

 サークル室の隅に脱ぎ捨てられたスリッパ。それが夏樹に、何かを伝えようとしていた。ゆりは普段、こんな風にスリッパを脱ぎ捨てたりしない。夏樹は重なり合ったファンシーなスリッパをそっと拾い上げて、小さく呟いた。


「ああ、そういうことなんだ」


 そうだ、端々にヒントは転がっていたではないか。

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