第11話 <未来編>恋人だったはずの人

 夏樹は急いでいた。ホテルの廊下を足早に歩く。履いていた紺色のスリッポンは踵を踏みつけられていて、ふとした拍子に脱げてしまいそうだ。

(あれ、なんで私)

 こんなに急いでいるのだろうか。分からない。けれど、急がなければならなかった。

 廊下の角を曲がり、無機質に並べられた扉の一つの前で立ち止まり、カードキーをジャージのポケットから取り出す。カードキーを差し込むと、ガチッという音がして、扉が開かれた。

 部屋の中は暗く、無音で、無臭だった。セミシングルのベッドが壁にくっつくように置かれている。反対側の壁にはカウンターテーブルと、申し訳程度の小さなテレビが備え付けられていた。壁には小さな丸いアナログ時計が掛けられている。

 扉を開いた先には靴が二足並べられていた。一足は黒のパンプス、もう一足は夏樹が今履いているようなスリッポンによく似た白色の靴。

(おや?)

 パンプスは爪先が扉に向けて揃えられているのに、スリッポンは踵が扉側に向けられている。つまり、二足の靴はあべこべな方向を向いている。ほんの少しだけ違和感を覚えたが、その小さなモヤモヤも、すぐに消えて無くなった。扉が叩かれるコン、コンという軽い音がどこかから聞こえてきたのだ。

 背筋が凍るような感覚があった。ゆっくりと振り返り、先程自身で開いたばかりの重たい扉に目をやる。オートロックであるため、外側から扉が開かれることはないだろう。それでも名状し難い恐怖のようなものを感じた。


「――夏樹?」


 誰かが扉の向こう側から自分の名前を呼んでいる。その人物は、夏樹が部屋の中にいることを知っているのだ。開けなければ良いのに、そうはいかなかった。扉が閉じられたままなら、厚い壁に守られたままでいられるのに、そうである訳にはいかなかったのだ。

「……春斗、どうしたの」

 夏樹は内側から扉を開いて、顔だけを覗かせた。目線の先にはほんの少し前までは飽きるほど見てきた顔があった。柔らかくカーブした眉に、ほくろの多い、色白の肌。

「いや、夏樹が入っていくのが見えて、話がしたくて」

「話?話すことなんて、何もないよ」

「なんか、夏樹は誤解しているんだと思う。おれのこととか、その、色々とか」

「分かった、話するから、廊下で話すのやめない?カフェでも行く?」

 夏樹はほんの少し苛立ち混じりに言った。

 焦っていた。こんなところを、誰かに見られたらという思いがあった。

「そこまでの話じゃないんだけれど」

 ぐずぐずする春斗は本当に子供っぽくて、腹が立った。なら、どうするか。否定ばかりしていないで解決策を出してほしかった。

「なら入って、本当、こんな痴話喧嘩みたいなところ誰かに見られたくないから」

「え、でも、それは」

 半ば強引に春斗を部屋の中に引き入れた。春斗は戸惑いながら、しかし抵抗はしなかった。


 密室の中に二人きりになっても、特別な感情は生まれなかった。友達以上恋人未満の距離感、遠慮がちに、所在なさそうに部屋の中に目線を彷徨わせる春斗。少し前まで恋人同士だったなんて考えられない。

 夏樹はそのままベッドに腰を下ろした。

「春斗も座ったら?」

 春斗はおずおずと部屋の中に足を踏み入れる。並べられた二足の靴を見て、靴を脱ぐべきか迷ったようだったが、夏樹が靴を履いたままなのを見てそのまま入ってきた。遠慮がちに、音を立てないようにカウンターテーブルから椅子を引き出した。流石に元恋人のベッドに腰を下ろすのは気が引けるらしい。

「で、何なの?」

「何なの、っていうか、今日二人共インターン来てなかったから、どうしたのかなって」

「別に、どうもしてないよ。私はそう、生理痛が酷くて行かなかっただけだし」

 わざと言及しにくい理由を述べて、春斗の追及から逃れようとしていた。案の定春斗はもごもごと口を動かしながらそれきり黙ってしまう。

 嫌な気持ちが胸の中に広がっていく。春斗は心配してわざわざ夏樹の元を訪れてくれたのだろうか。

 いや、違う、そうじゃない。春斗は心配して見に来てくれた訳ではない。夏樹は春斗が自分の元を訪れた理由を知っていた。

「私を、心配してくれた訳じゃないよね」

 春斗は黙っていた。図星のようだった。

「夏樹、何か言ったでしょ」

 春斗の口から出たのは、低い、責めるような声だった。

「何かって?誰に、何を?言ってくれなきゃ分かんないけれど」

「昨日、女子で飲み会したんでしょ?その時におれのこと何か言ったでしょ」

「飲み会じゃない」

 顔が熱くなる。なぜだかは分からないが、胸が苦しくなった。

「でも、二人で集まったって」

「だけど、お酒は飲んでないから。だってゆりは未成年だし」


(何で急にゆりの話なの?)


 苦しかった。苦しくて、仕方がなかった。部屋が狭く感じられる。呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。

「春斗さ、よくそんな被害者面出来るよね。なんで私が責められないといけないわけ?仲良くしていたのは君たちの方でしょ?ゆりと二人で、こそこそ仲良くして」

「そんなに仲良くしてないよ。本当に、インターンシップ中は全く会ってないし」

「嘘だね。電子辞書の電池、借りに来たでしょ……ゆりが」

 その言葉に春斗は固まって、首を傾げた。

「電子辞書の電池?」

「そう。あの子、一昨日の夜、インターンシップで使う電子辞書の電池が無いって言って、外に買いに行ったの。でも近くのコンビニに電池無かったって言って、帰ってきたの。だけど昨日のインターンシップでは自分の電子辞書を使っていた。どういうことか分かる?」

「電池を……誰かに借りたって言いたい?」

「そうだよ、春斗が貸したんでしょ」

「違う、知らないよ。大島くんに借りたんじゃないの」

 大きなため息をついた後、夏樹は俯いて、顔を覆った。

「大島くんにはもう確認してあるよ。貸してないってさ。ていうか、もう、いい。この話に何の意味があるのか分からない。私今日、七時から予定があるから。今、何時?」

「えっと……十六時二十七分だけど」

「そっか。じゃあそろそろ帰って」

 春斗は中々腰を持ち上げようとしなかった。苛立ちは募っていく。


「あれ、夏樹?」


 先程までとは違う声のトーンに、夏樹は少し驚いて顔を上げた。春斗は驚いたような、怯えたような顔をして固まっていた。


「え、何?」

「ご、ごめん。俺帰るから」


 急に態度を変えた春斗に困惑しながら、しかし、このまま帰してしまって良いのだろうかと不安になる。

「ま、待ってよ。急に態度変えないでよ。何なの。何かあった?」

「何でも無いよ。おれも用事思い出したんだ」

 椅子をカウンターテーブルに戻し、さっさと立ち去ろうとする春斗の腕を掴んだ。

「春斗、待ってよ」

 目の前にある時はどこに行っても良いと思っているのに、手の届かない場所に行ってしまうと惜しくなる。我がままで、自分勝手。分かってはいるけれど、こんな自分を変えることが出来ない。

「春斗」

 縋るように、何かを求めて、何かが返ってくることを期待して、春斗の顔を見上げる。

 春斗は怯えた目をしていた。目の奥に渦巻く、どす黒い感情。嫌悪。

「やめろよっ」

勢いよく振り払われた手が、夏樹の顔を掠めた。夏樹は拒絶されたことを無かったことにしたくて、再び春斗の手を掴んだ。

「行かないで」

 春斗の目から怯えが消えた。膨らんでいく、夏樹に対する負の感情。

「やめろって、言ってるのに!」


 勢いよく突き飛ばされた。夏樹の体はカウンターテーブルに叩きつけられて、跳ねた。角で頭を打ったのか、額から血が流れた。


 夏樹は引かなかった。素早く体を起こして、春斗の体を捉えようとした。対して春斗は、かさのついたテーブルランプを逆手に握りしめて夏樹に応戦した。

 元々体格の良い春斗に、勝てる訳が無かった。何度も、何度も、真っ白なテーブルランプが夏樹の体に振り下ろされる。電球が割れるような音が聞こえてきた後、夏樹の頭に重たい一撃が振り下ろされた。


 夏樹の意識はそこで途切れた。

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