第8話 <回答編2>明里ちゃんと血のついたティーシャツ

「叶、分かった?」

 郵便屋さんが優しい声色で問いかける。叶はゆっくりと頷いた。


「うん。やっぱり……あの狭い小路で明里ちゃんを刺すことは不可能なんだ。明里ちゃんの後ろには間違いなく私がいたし、人がすれ違うことなんて出来ない。明里ちゃんは詩織さんの服の裾を摘んでいたから、詩織さんと明里ちゃんの順番が入れ替わることもあり得ない」

「じゃあ、どうやって明里ちゃんは刺されたんだ?」

「明里ちゃんは小路で刺された訳ではなかったんだ」


 空調すらついていない部屋の中、布団に籠もっていたせいで体はじっとりと汗をかいていた。


「けれど、明里ちゃんのティーシャツには血がついていた。何故か?……あれは、明里ちゃんが自分で外側からつけた血なんだ。片面だけ血に汚れたナイフ、あれは服を汚すために使われたんだ。恐らく、ネズミか何かの腹を割いてナイフを血で汚した後、自分でティーシャツに血を付けたんでしょう。外側からね。あとは、ナイフの先でティーシャツに切れ目を入れれば良いだけ。そうすれば刺されたように見えるでしょ。だからあのナイフは、刃の片面だけきれいになっていたんだ。片面だけ、服で拭かれたから」

「全ては明里ちゃんの自作自演だったと言うのかい?でも、外側に滲み出していない血の跡もあった」


 そうなのだ。明里ちゃんのティーシャツには、二箇所刺されたような跡があった。一つは外側に血が滲んでいたが、もう一つの跡は、ワッペンの裏側にしか血が滲んでいなかった。そのせいで叶は、ティーシャツの血の汚れが、内側から汚されたものだと信じてしまったのだ。


「そこに私は引っかかってしまった。私はティーシャツを見て、この二つの血は同時期にティーシャツを汚したんだと思っていた。けれど、そう思わせるために刺し傷は二箇所あったんだ。あの二つの汚れは、別々につけられたものなの」

「別々……」

「そう。ワッペンの裏側の汚れは、あらかじめ明里ちゃんがつけておいたものだったんだ。あらかじめ内側に血を付けておくことで、どちらの汚れも出血による血の汚れだと、勘違いさせようとしていたんだ。全ては最初から、仕組まれていたことだった。刺されたように見せかけるための、罠だった」

「なるほどね。だからわざわざ叶たちにティーシャツを渡したのかい」

「学校帰りなら、私の鞄の中にナイフがあるって分かっていたんでしょう。だからあのタイミングで実行したんだ。刺されたように見せかけた後、私の鞄の中をさらえば、ナイフが出てきて容疑者の出来上がり。目撃者もいる。時期を見計らってからこのことを親にチクって、晴れて私は退学。退学にはならなくても、米原家から追い出されることは間違いがない」

「じゃあ、明里ちゃんは実際には刺されていなかった?」

「それは違う」


 明里ちゃんの出血の量、それに蒼白な顔面。明里ちゃんは、確実に刺されていたはずだ。


「刺されたタイミングが違ったんだ。明里ちゃんが実際に刺されたのは、私と詩織さんが家に戻っている時。その時に私のナイフを使って刺したんだ」

「じゃあ、犯人は」


 そうだ。明里ちゃんと二人きりになれるタイミングがあったのは、さっちゃんしかいない。


「何でさっちゃんが明里ちゃんを刺したのかは分からない。今なら、私に罪を着せられると思ったんでしょう。でも、ティーシャツがある。あのティーシャツをつぶさに調べたら流石に、あの汚れと刺し傷が偽物であることは簡単に判明するでしょう。だから証拠隠滅のために私を崖から突き落としたんだ。自分が罰から逃れるために」

「まあ、それはちょっと違うんだけれどね。さっちゃんは、足止めしたかった。叶を殺したかった訳じゃなかった。ただ、叶より先に家に着いてティーシャツを回収してしまいたかったんだよ。だから叶を崖から突き落として、自分の方が先に家に辿り着けるようにしたかった。崖があんなに抉れているなんて思ってもいなかったのさ」

「ふうん」

「まあ、小学生にしてはよく頭の回る子だったけれど。向こう見ずだね。元々叶を退学にするための罠は、さっちゃんと明里ちゃんの二人で考えたものだった。けれど途中から明里ちゃんが乗り気じゃなくなって、口論になった。いざこざの末、さっちゃんは明里ちゃんを背中から刺してしまった」


 明里ちゃんが乗り気じゃなくなった?一体、どうしてだろうか。


「叶が思っているよりも、周りの人間は強くないんだよ」

 そう言って郵便屋さんは笑った。

 


「どういうこと?明里ちゃん」

 詩織さんは腰を折り曲げて、うつむく明里ちゃんの顔を覗き込んでいる。明里ちゃんは唇を噛み締めたまま微動だにしない。

 足音がして、叶は振り返った。夜闇に紛れてさっちゃんが近づいてくる。何かを察したように、バツの悪そうな表情を浮かべている。

「ひどい話だよね」叶は言った。「詩織さんさ、この二人ね、私のことを陥れようとしていたの。私の鞄の中にナイフが入っていることを知っていたから、これを使って私を退学にして、家から追い出そうとしていたんだよ。私が邪魔だから」

「そんなもの……入れてる方が悪いんでしょ……私は悪くないもん……悪いのはそっちだ」

 明里ちゃんは、俯いたままボソボソと、呪詛のようなものを吐き連ねている。

「人の気も知らないで、頭ごなしに否定しないでよ!」

「知らないよ!逆にっ、叶ちゃんは私の気持ちが分かるの?」

 どきりとした。叶ちゃん、という呼び方に親しみを感じてしまった。叶はかぶりを振り、今まで以上に、大声で叫んだ。

「知らない!ひ、人を退学にしようと画策する人間の気持ちなんて、分かんない!」

「だから!退学になるようなもの、鞄に入れている方が悪いんじゃん!」

 言葉の応酬の合間に、不気味なほど静かになることがあった。叶と明里ちゃんは、目線を合わせないよう、俯くことしか出来なかった。

 違う、言い争いがしたい訳ではない。けれど言葉を発しなければ、元の叶に戻ってしまう。弱い者にだけナイフを振りかざす、そんな叶に戻ってしまうだろう。

「詩織さん、どうしよう」

 叶は詩織さんの顔を見た。詩織さんは困惑しているかと思いきや、柔らかい笑みを浮かべていた。

「とりあえず、皆無事なんだよね?帰ってから話そうよ。ここ、寒いよ」


 神社の境内には冷たい風が流れていた。人の声に反応して集まってきた鳩が、大きな羽音を立てて空に舞い上がっていった。

「私、今度は最後尾を歩こうかな。これ、ライトに使っていいよ」

 そう言って詩織さんは自分のスマートフォンを明里ちゃんに手渡した。明里ちゃんは不承不承、先陣を切って小路に入っていった。その後をさっちゃんが続く。

 叶はそっと背後を振り返ってみた。詩織さんがいる。優しくて、柔和な、詩織さんがいる。

 小路は静かだった。低木に囲まれているために風も吹き込んでこない。前を行くさっちゃんの荒い鼻息が聞こえてくるくらいだった。

 詩織さんに、謝らなければいけない。優しくしてくれた詩織さん。叶を救い出そうとしてくれた詩織さん。


「通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ」


 そう言えば、そんな話をした。行きはよいよい帰りは怖い。何故帰りは怖いのだろう?


「天神様の細道じゃ。ちっと通してくだしゃんせ。御用のないもの通しゃせぬ」


 そうだ。詩織さんは、こう言っていた。

「行きはね、御用があるの。この子の七つのお祝いに、お札を納めにまいります。そう言っているでしょ?」

「うん。歌詞はそうなってる」

「でもね。帰りは御用がなくなっちゃうでしょ。行きはお札を納めるっていう御用があった。けれど帰りは?帰るための御用がなくなって、御用のないもの通しゃせぬって言われて、帰れなくなっちゃうんだよ」

「じゃあ、細道に入る前に、御用を作っておかないと」

「そうだね。例えば、誰か大切な人に待っていてもらうとか、何か用事を作っておくとか」


 そうだ。そんな話をしたのだった。御用のないもの通しゃせぬ。御用のない人たちはそうして帰れなくなってしまうのだ。


 いつの間にか小路を抜けて、家の裏庭に出ていた。伸び放題になった雑草が、足の脛をくすぐる。先に抜けていた明里ちゃんとさっちゃんは、奇妙な顔をして叶のことを見ていた。

「ねえ、お姉ちゃんは?」

「あれ?」

 振り返るとそこに、詩織さんの姿はなかった。



 結局そのまま、詩織さんは帰ってこなかった。部屋から財布などが消えていたため、おじさんとおばさんは家出したのではないかと思っている。

 けれど叶は知っている。詩織さんはこの家に、帰る用がなかっただけなのだ。居場所のない叶に唯一手を差し伸べてくれた詩織さん。その手を取れば良かった。

 窮屈な毎日の最中に、ふと、詩織さんのことを思い出す。あの小路で、詩織さんと一緒にどこか別の場所に行っていたら、今頃自分はどうなっていたのだろうか。待ち受けていたであろう非日常を脳裏に思い描く。

 相変わらず学校は息苦しく、家では窮屈な思いをしなければいけない。結局のところ、何かが大きく変わることはなかった。部屋の中で、たまに郵便屋さんの姿を探してしまう。日常から逃げたいと思うことは何度もあった。けれどもう、あの死神は叶の前に姿を現さないだろう。

 神社に続く小路は結局、入り口をフェンスで閉ざされてしまった。それでも、叶は生きている。それだけが真実だった。

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