第4話 <未来編>ここはどこの細道じゃ?

 ――あれ?


 気がつくと叶は、詩織さんの隣に座っていた。机を挟んだ向かい側には、明里ちゃんとさっちゃんが肩を並べて座っている。机の上には、飲み物が入ったグラスが人数分置かれている。どうやらファミレスにいるようだった。

 天井から垂れ下がるペンダントライトは店内を隅々まで照らし出し、橙色を基調とした装飾は店内を暖かく演出している。笑い声や話し声はうるさくなり過ぎず、店の雰囲気に適度に溶け込んでいる。

 目の前に座っていた明里ちゃんが、グラスを置いて叶に目をやる。

 ぎくりとして、叶は固まった。昔はあれだけ仲が良かったというのに、今は明里ちゃんが怖くて仕方がない。

「うち受験のお祈りとかしてないからさ、今から行かない?」

 何を言っているのだろう。叶は目の前に置かれていたオレンジジュースをストローで飲みながら、上目遣いに明里ちゃんを見た。

「あ、良いね!行く行く!」

 さっちゃんが歯を見せて笑った。

「こんな時間から?」

 詩織さんが渋るので、叶は店内の壁掛け時計に目を向けた。今の時間は、八時過ぎだ。ファミレス店内には窓がなかったが、恐らく今は夜の八時なのだろう。外から聞こえてくる音から、夜の気配がしていた。

「うん、もう遅いから、裏の神社で簡単にお参りするの」

 裏の神社。つい最近神社に続く小路で不審者が出たと聞かされたばかりではなかっただろうか。

「えー、危ないよ。明日にしようよ」

 詩織さんが唇を尖らせた。

「だから、肝試し的な意味も込めて。明るい内から行ってもつまんないじゃん。皆で行こうよ」

 明里ちゃんが八重歯を見せて笑った。久しぶりに明里ちゃんの笑顔を見た気がする。

「行こうよ。叶ちゃんはどうする?」

 さっちゃんに問われて、叶は小さくうなずいた。

「う、うん。行く」

 久しぶりに見た明里ちゃんの笑顔。機嫌を損ないたくなかった。

「じゃあ、三人で行くから、姉ちゃんは留守番で良いよ」

「え、それなら私も行くってば」

 詩織さんが慌てて立ち上がった。明里ちゃんが小さく笑った。

(なんだ、これ)

 夢なのだろうか。夢にしては、妙にリアルだった。

 

 外は少し肌寒く、叶は半袖のセーラー服から剥き出しになった肌を両手で擦った。

「寒い、寒い」

 明里ちゃんは、背中に小さなワッペンのついた半袖のティーシャツに、デニムのショートパンツと露出の多い格好だ。雑誌の付録だった黒のトートバッグを肩から下げて、紺色のスニーカーを履いている。

 さっちゃんは長袖のフレアシャツにジーンズで、いつもより大人びて見える。叶と詩織さんは制服を着ていた。叶は、いつものワインレッドのスクールバッグを肩から下げている。


 ファミレスから大通りを越えて少し歩くと家についた。家の裏庭から小路が伸びていて、その先に神社がある。

 その小路は周りを低木に囲まれていて、昼でも夜でも薄暗かった。人一人がやっと通れるような細い道だ。特に夜になると、足元も見えないくらいの暗闇が小路を包んだ。野生動物が住み着いているのか、時折奇妙な鳴き声が聞こえてくる。

 その暗闇を前にして、明里ちゃんも少し怖気づいたようだった。

「そういえば」

 詩織さんのその言葉が誰に向けられたものなのか分からずに、叶は黙っていた。顔を上げると、詩織さんと目が合った。

「昔、二人でこの小路探検したよね」

「えっ」

 そうだっただろうか。けれど、確かに、そんなこともあった気がする。暑い夏の日だった。夏休みの半ばに、詩織さんと二人で神社に行った。その頃叶はまだ小学生だった。明里ちゃんとも、仲が良かった。

「その時に、あのわらべうたの話をしたの覚えてる?」

「わらべうた?」

 通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ。

 その歌の話を、幼い頃にした気がする。

 行きはよいよい帰りは怖い。何で、帰りは怖いのか、分かる?

 詩織さんに問われて、叶は答えられなかったはずだ。

「早くいこ」

「うん」

 急かされて、詩織さんは叶の元を離れていった。詩織さんが明里ちゃんの後に続いて歩く。詩織さんは背中が丸まっていて姿勢が悪い。長い手足も、姿勢で台無しだ。

「ここから一列で行こう」

「分かった。明里ちゃんについていくね」

 詩織さんがそう言うと、明里ちゃんは首を振りながら笑い出した。

「いやいや、最年長の姉ちゃんが最前列行くべきじゃないの?私たちは携帯持ってないし」

「え、そっか、ごめん」

「本当、体だけ大きくてそれ以外は全部ちっさいよな、詩織姉ちゃんって」

 明里ちゃんとさっちゃんが笑うので、叶もつられて笑った。体が大きいことを馬鹿にされている詩織さんを見て、叶は愉快な気分になっていた。詩織さんは困ったように愛想笑いを浮かべていた。


 さっちゃんが一番後ろが良いというので、叶は明里ちゃんの後ろについていくことになった。詩織さん、明里ちゃん、叶、さっちゃんの順番で小路を歩くことになる。

 詩織さんは怖いのだろう、スマートフォンで慎重に足元を照らしながら一歩一歩慎重に、すり足で小路を歩いている。明里ちゃんは詩織さんの上着の裾を握り、後に続いた。

 手も見えないような暗闇だった。詩織さんのライトの明かりは、叶の所までは届かず、ほのかに前方が明るく見えるだけだった。叶も明里ちゃんの体を掴んでいたかったが、そういう仲でなくなってしまったことは理解していた。

 風に煽られたのか、野生動物が通ったのか、茂みが揺れる度にビクリと肩が震えた。誰も何も喋らなかった。ただ、土や落ち葉を踏みしめる音だけが耳に届いた。

 後ろのさっちゃんは、やけに静かだった。こんな状況になれば、いつもは騒ぎ立てて落ち着かなくなるのに、無言で歩き続けている。少し不気味だった。本当についてきているのだろうか?

 後ろを振り返りたかったが、そうした瞬間、前の明里ちゃんたちに置いて行かれてしまうような気がして、怖くて出来なかった。ただひたすらに歩き続けるしかなかった。

 ふと、おばさんの言葉を思い出す。不審者が出たという話だった。あの話は一体、誰に向けて語られたものだったのだろうか。我が子に向けての言葉であり、「とにかく気をつけてね」という言葉は、叶には向けられていなかったのではないだろうか。我が子が無事ならそれでいい、むしろ叶がいないほうがおばさんもやりやすくなる。

それなのに自分は、その言葉が自分にも向けられたものであると、勝手に解釈していたのではないか。恥ずかしい。存在しない優しさを勝手に作り上げて、なんて愚かなんだろう。

 自分なんていらないんだ。不審者に襲われて、消えてしまいたい。

 叶は、気分が急に落ち込んでいくのを感じた。物事を深く考えすぎて落ち込むことが叶にはよくあった。

「きゃぁっ」

 短い悲鳴が聞こえて、叶は顔を上げた。誰の悲鳴だろうか。後ろから聞こえたのか、前から聞こえたのかも分からない。

 さっきまで消えてしまいたいと思っていたのに、今はとにかく早くこの道を無事に抜けたいと願っていた。いやだ。死にたくない。

 自然と足が早くなる。前を歩いている明里ちゃんにぶつかるかと思ったが、どれだけ早足で歩いても、明里ちゃんの体に触れることはなかった。

 やがて前方に、チラチラと揺れ動く光が見えた。叶はそれに飛びつくようにして、小路を抜けた。


「痛いよぉ……」

 

 小路の先は石段が続いていて、石段を登りきるとそこは神社の境内になっている。赤い鳥居は塗料が剥がれ落ち、手水舎の水盤には落ち葉が浮かんでいる。誰が管理しているのか分からない、小さな神社だった。

 石段の一番上で、明里ちゃんが蹲っている。後ろで、詩織さんが不安げな表情のまま、明里ちゃんの背中を覗き込んでいた。

 叶はダラダラと汗を流しながら、石段を登った。明里ちゃんは叶に気がつくと、表情を曇らせた。

「あっ」

「何?」

 訳が分からないまま顔をしかめる。石段を登りきったばかりで息が上がっていた。

 叶は、詩織さんと同じように明里ちゃんの背後に回り込んだ。背中に何かついているのだろうか。

「あっ」

 明里ちゃんのティーシャツの背中は、血のような赤黒い染みで汚されていた。

「どうしたの、これ?虫?」

「刺されたって言ってる」

 詩織さんが不安げな表情のまま、答えた。神社の境内には不穏な空気が漂っている。

「到着!」

 明るい声がして、目をやると、さっちゃんが汗を拭いながら石段を登ってやってくるのが見えた。

「どうしたの?」

「明里ちゃんが、刺されたって……」

 詩織さんはさっちゃんの問いかけに、弱々しい声で答えた。

「え、大変。傷口見ないと。あと、止血とかしないと、駄目じゃないの」

 さっちゃんは三人の中では一番落ち着いていた。叶と詩織さんは、突然の出来事にただただ狼狽えることしか出来なかった。

「服が、汚れちゃう」

 こんな時でも明里ちゃんは自分の物が汚れてしまうことを心配していた。何度も頭を突っかけながら、血に汚れたティーシャツを脱いだ。

 叶は何も出来ないまま、遠巻きに明里ちゃんを見ていた。そんな叶に、さっちゃんは向き直り、厳しい声色で問い詰めた。

「叶ちゃんさ、ちょっと鞄の中見せてよ」

「えっ」

「だってさ、叶ちゃんが明里ちゃんの後ろ歩いてたんじゃん。刺せるの叶ちゃんしかいなくない?」

 なんて恐ろしい発想なのだろうか。叶は思った。自分が明里ちゃんのことを刺したりする訳がない。しかし、さっちゃんは小学生なのだ。短絡的な思考になってしまうのは仕方がないことだ。叶は渋々、肩に下げていたワインレッドのスクールバッグを手渡した。

 さっちゃんはスクールバッグを地面に下ろし、中をあさり始めた。

 ふと、そこで、


(しまった!)


 大事なことに気がついた。

 あの中には、アーミーナイフが入っている。今回の事件とは全く関係ないものの、見られたら面倒なことになる。さっちゃんからスクールバッグを取り戻そうとして、一歩踏み出したが、しかしもう既に遅かった。

「なにこれ!」

 刃の部分が包帯でぐるぐる巻きにされたアーミーナイフ。さっちゃんはそれを取り出すと、高々と掲げて見せた。

「ナイフだ……」

 詩織さんが、口に出すのも恐ろしいと言った様子で、その言葉を吐き捨てた。

 厳しい視線が自分に集まるのを感じた。さっちゃんも、詩織さんも、明里ちゃんも、叶が明里ちゃんを刺したのだと思っている。

「ち、が」

 口内がカラカラに乾いて、声が出なかった。違うのに。否定、したいのに。

 けれど叶の鞄の中にナイフが存在していたことは真実だった。

「ちょっとさ、叶ちゃん、離れてくれない?こわいよ」

 さっちゃんがそう言うので、叶は一歩後ずさり距離を取った。

「あ、離れるついでにさ、家から服とか、応急キットとか持ってきてよ。これと交換」

 そう言ってさっちゃんは、叶に何かを投げてよこした。

 それは明里ちゃんが今まで身につけていた、背中にワッペンがついた半袖のティーシャツだった。明里ちゃんはブラウス一枚になり、背中をハンカチか何かで抑えている。寒そうな明里ちゃんに、詩織さんが上着をかけてやるのが見えた。

「どうしよう。大人の人とかは、呼ぶ?」

「は?叶ちゃん、本気?」

 さっちゃんが何を言っているのか分からなくて、叶は眉を潜めた。

「ど、どういう、意味?」

「だってさ。こんな状況知られたら、困るの叶ちゃんなんだよ。とりあえず、服と応急キットだけ持ってきてよ」

 視界が涙で滲んでいく。泣いていることを悟られないように、踵を返し、来た道を戻りだす。


 何もしてないのに。


 けれど、刃物を持ち歩いていたことだけは事実だった。その事実を、皆に知られてしまった。自分は学校を退学になるのだろうか。これからどうなるのだろう。

 枯れ葉を踏みしめて、小枝に足を取られそうになりながらも、細い道を真っ直ぐに進む。

 ふと、足を止める。

 小路は相変わらず真っ暗で、何も見えなかった。何もかもが闇夜に溶け込んで、一つになろうとしていた。

 自分は明里ちゃんを刺していない。では、一体誰が明里ちゃんを刺したのだろうか?おばさんが言っていた、あの不審者が茂みに隠れていて、明里ちゃんのことを刺したのではないだろうか。

 そうだとしたら、今自分は非常にまずい状況にあるのではないだろうか。一人きりで、薄暗い小路を歩いている。前や後ろに誰かいたとしても、分かりやしない。

 急に恐ろしくなってくる。明里ちゃんたちの元に戻ろうか?いや、なぜ戻ってきたと詰られるだけだろう。

「ひゃっ」

 足に何かが触れた。よく見るとそれは、ネズミの死骸だった。腹がぱっかりと割れていて、中から何かが飛び出している。

「気持ち悪い……」

 死骸から目を逸し、激しく波打つ心臓を落ち着かせながら、小路を進む。

 落ち葉を蹴散らす音だけが、薄暗い小路に響く。

 今、足音が一つ、多くなかっただろうか。自分以外に誰かが小路を歩いているのだろうか。背筋が凍るような感覚。

「ひゃっ!」

 恐ろしくなり、引き返そうとして、何かとぶつかった。叶はそのまま、後方に尻もちをついた。

 顔を上げると、詩織さんがいた。スマートフォンで足元を照らしたまま、困惑した表情で固まっている。

「し、詩織さん、何で?」

「二人にちゃんと応急キット持ってくるか見張ってろって言われて……」

 詩織さんがそう弱々しく言うので、叶は笑った。

「何それ。言いなりじゃん」

 詩織さんが傷ついたような表情を浮かべたが、罪悪感は全く無かった。

「あ、あと、叶ちゃんライト持ってないでしょ?」

 取り繕うように詩織さんが言うので、叶は「ご丁寧に、どうも」と言って叶さんのスマートフォンを受け取った。

 立ち上がる。足は、震えていた。


 台所の勝手口から、こっそりと家に入った。おばさんとおじさんはまだ帰ってきていないらしい。

 詩織さんが応急キットを、叶が明里ちゃんの替えの服を探すことになった。叶は明里ちゃんの部屋に入り、クローゼットを漁った。明里ちゃんの服はファッション誌でよく見かけるような、おしゃれなものばかりだった。古着屋で流行遅れの服を買う叶とは大違いだった。

 適当な服を見繕い、詩織さんの元へ行こうとして、立ち止まる。明里ちゃんが元々着ていた服はどうしようか。

 明里ちゃんが着ていたティーシャツをよく見ると、二箇所、穴が空いていた。どうやら本当に、鋭い刃物のようなもので刺されたらしい。一つは左肩と右肩の間に、もう一つは右肩の辺りに縫い付けられているワッペンを貫通して、穴が開けられていた。

 左肩と右肩の間に開いた穴の周りには血が滲んでいる。見ていると気分が悪くなってくる。動悸が止まらない。

(私が刺したわけじゃないのに、どうしてこんなに心臓が高鳴るの)

 ワッペンに開けられた穴の周りには、血は滲んでいない。しかしティーシャツを裏返してみると、ワッペンの裏側がしっかりと血で汚れていた。どうやらワッペンが分厚くて、表面まで血が滲み出なかったらしい。

 本当に、刺されたのだ。誰に刺されたのだろうか。やはり、不審者なのだろうか。

「叶ちゃん」

 声に振り向くと、背後に詩織さんがいた。どうやら応急キットを見つけてきたらしい。叶は手に持っていた汚れたティーシャツを明里ちゃんのクローゼットの奥に押し込んだ。

 

 詩織さんと共に、神社に駆け戻ってきた。石段の先を見上げても明里ちゃんの姿が見えないため、叶たちはうろたえた。

「入れ違い?」

 石段を一つ飛ばしで上りきり、荒い息を整えながら周囲を見渡す。小さな賽銭箱の影に明里ちゃんが寝転されているのが見えた。

 薄暗い賽銭箱の影に寝転されている明里ちゃんが怖くて仕方がなかった。もしかして、もう死んでいるのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。

 詩織さんが明里ちゃんの様子を見に行く。やはり姉妹なんだな、自分はこういった場面で勇気が出せない、それはよそ者だからなのだろうと、叶は何となく思った。


 境内は小路よりも明るかった。しかし、足元がはっきりと見えるほど明るい訳ではない。明里ちゃんの元へ行くことを躊躇っていると、何かを蹴飛ばした。よく見るとそれは、明里ちゃんが持っていたトートバッグだった。バッグの口は大きく開かれていて、中から何かが飛び出している。

「ん?」

 いや、こんな物に構っている暇はないだろう。叶は顔を上げた。


 詩織さんが帰ってこないため、叶も賽銭箱の影を覗き込まなければならなかった。賽銭箱の影には、背中が血でべっとりと汚れた明里ちゃんと、今にも泣き出しそうな顔で呆然としているさっちゃんがいた。詩織さんはさっちゃんの肩を抱いたまま、固まっている。

「叶ちゃん、思ったより出血がひどいみたいなの」

 暗がりでも分かる。これは、お医者さんに見せなければいけない。ナイフについて議論している場合ではないだろう。叶は明里ちゃんたちに背を向けた。

「待って!どこ行こうとしてる?」

 さっちゃんに聞かれたため、叶は、

「警察と、救急車呼ぶの!」

 と、早口で答えた。

 警察、とさっちゃんが口の中で繰り返す。

「叶ちゃん、捕まっちゃうよ」

「ううん、大丈夫だよ。私、やってない、から」

 きっと、真犯人が見つかるはずだ。その犯人を探すのは私たちでなくても良いはずだ。私たちが今すべきことは、明里ちゃんを助けることなのだ。 

「色々、現場検証とかすれば、分かるはずだから。だから、私電話してくる!」

「あ、待って叶ちゃん!」

 詩織さんの声が聞こえたが、振り返らずに、叶は石段を駆け下りた。そのまま、暗がりの中を進む。

 途中まで引き返してきて、ようやく気がついた。詩織さんのスマートフォンから電話をかければ良かったのだ。なぜ詩織さんから引き止められた時に立ち止まらなかったのだろうか。

(その理由を、私は知っている)

 詩織さんのことが嫌いだから、詩織さんの言うことが聞きたくなかったのだ。

 どうせすぐに詩織さんが追いかけてくるだろう。自分から神社に引き返していくのは恥ずかしいから、詩織さんに追いついて貰おう。そう思い、叶は家に向かってのろのろと歩き出した。

(そういえば)

 思い出したことがある。この小路の途中に、「抜け道」のようなものがあったではないか。明里ちゃんを刺した犯人は、あそこから出てきたのではないか。

 抜け道は目と鼻の先にあった。木立の隙間に獣道のような、わずかな道があった。

 しかし、叶はすぐに失望しなければならなかった。獣道の先は崖のようになっていて、とても人が隠れていられるとは思えない。足を滑らせたりしたら奈落の底に真っ逆さまだ。

「けれど……私じゃない」

 叶は肩掛け鞄からアーミーナイフを取りだすと、巻きつけていた包帯をするすると外した。

「私じゃ……ない」

 包帯に赤い染みが広がっているのを見て、叶は息を飲んだ。

 刃先は、真っ赤な血で染め上げられていた。


 本当に、私じゃないのだろうか?

 本当は、私がやったんじゃないのか?


 夜の森に一人でいること、血塗られたナイフが自分の手に握られていること、誰も仲間がいないこと、全てが恐ろしくなって、叶は立ち竦んだ。

 遠くから足音が聞こえてくる。ようやく詩織さんが来たのかと、息を吐き出す。

 足音は、段々と大きくなっていく。

 タッタッタッタッタッ……

「詩織さん?」

 振り返ろうとしたところで、誰かに背中を押された。

 目の前は崖だ。笑えない冗談だ。文句を言おうとしたところで、叶は足を滑らせて、崖を転がり落ちていった。

 痛い――痛い――

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