第一章 人殺しの、私のナイフ (叶 14歳)
第2話 鞄の中に隠されたもの
「七海ちゃんって、おっぱい透けてない?」
そんな会話が、真後ろから聞こえてくる。盗み聞きする趣味なんてない、けれどどうしても、耳が会話を拾ってしまう。
「あ、それ、気になってた。早くブラ付ければいいのに」
おっぱい透けてる、とは一体どのような状態なのだろうか。
叶は七海ちゃんのおっぱいが透けている状態を想像した。七海ちゃんは雨に濡れてしっとりと湿った白い体操服を着ている。体操服は七海ちゃんの体にぴったりと張り付き、腰や、胸が、体のラインが強調されている。
「体育の松浦とか、七海ちゃんのおっぱいたまにチラ見してない?」
「あー、見てる。分かる」
声が大きすぎたのだろう、男子に掛り切りになっていた松浦先生が女子の列をちらりと覗き込んだ。真後ろの女子たちは途端に静かになった。
体育祭の練習中だった。曇りの予報だったのにも関わらず、太陽は厚い雲の隙間からしっかりと顔を覗かせている。半袖の体操服から伸びる腕は、紫外線によってダメージを受けて赤くなっている。
生徒たちを整列させるために、五十分しかない授業時間の内既に二十五分を浪費している。今日から体育の授業は全て体育祭の練習になるらしいが、先が思いやられる、と叶は思った。
叶たちは背の順で、男女に別れて一列に並んでいた。叶は一番先頭だった。後ろで話題に上がっていた七海ちゃんは、背の順で叶より一つ後ろになる背の低い女の子だ。彼女は風邪で欠席しているため、今日はいない。
「背が低いから親に買ってもらえないのかな」
「それってかわいそう」
真後ろの女子たちがまたお喋りを始めた。
七海ちゃんの姿を思い出す。彼女の髪は長い。学校の校則に則って、耳の下で二つ結びにしている。背は低いが、叶よりは高い。恐らく百四十七センチくらいだろう。体型は若干肉付きが良い感じで、制服の上からでも胸のふくらみが分かる。
体操服を着ている七海ちゃんを思い浮かべる。そう言えば彼女は、白い体操服の上からでも二つの突起が分かる。叶はそれを見て何とも思っていなかったが、そうか、おっぱい透けてるとは乳首の突起が服の上からでも分かる状態を指しているのだ。
しばらくの沈黙。風にのって聞こえてくるささやき声。
背中に視線を感じる。脇の下がじっとりと汗ばんでいく。叶は、身長が百四十四センチしかない。細身で、体操服を着ると体と服の間にたくさんの空白が生まれる。しかしそれでも、近所の衣料品チェーン店で買ってもらったスポーツブラを身に着けている。ほぼ膨らみのない胸は、何の洒落っ気もない白一色のスポーツブラによって守られている。
叶ちゃんは、付けてるね。
いらないでしょ。
そんな声が聞こえてくるかもしれないと、耳をそばだてる。しかし何も聞こえてこない。聞こえてくるのは、松浦先生の苛立った声だけだった。
「ただいま……」
誰にも聞こえないような小声でぼそぼそと呟きながら、叶は玄関の引き戸を引いた。広い玄関の先に薄暗い廊下が伸びている。
どうして「ただいま」には丁度良い敬語がないのだろうか。「ただいま帰りました」なんて畏まり過ぎて変だ。だからこうして、小声で「ただいま」を言う他ない。
自分の家だったら良かった。何も考えずにただいまを言える、それは幸せなことなのだと、誰かに教えてあげたい。
廊下の奥、洗面所の電気がパッと消えて、おかっぱ頭の女の子が顔を覗かせた。色白で、目がシュッと細く、日本人形のような女の子だった。目が合った。
「あ」
女の子はそれだけ言うと、台所の方へ消えていった。
従兄弟の、明里ちゃんだ。
米原明里。叶より一つ上の、十五歳、中学三年生だった。
叶は白い運動靴を脱ぎながら息を吐き出した。こんな反応はましな方だ。いつだったか、目が合っただけで舌打ちされたことがあった。
昔は仲が良かった。明里ちゃんは母親の、お姉さんの娘だ。お盆の時期や年末に会ったりしていて、この家に住むようになるまでは仲の良い友だちだった。けれど変わってしまった。この家に住むようになってから、叶と明里ちゃんは、対等ではなくなってしまった。
元々叶は横浜の中学校に通っていた。しかし、クラスの雰囲気に上手く馴染めなかった。いじめに似たようなこともされた。背が低くて、弱々しい叶はいじめやすいのだろう。ノートを回収する時、クラスメイトたちは叶のノートだけ摘み上げるようにして持っていった。「ちび」だとか「小人」だとか、容姿に起因する悪口を言われた。
それから不登校になった。中学側から一日も登校出来なくても進級は出来ると聞いていたため、不登校であることに焦りは感じなかった。けれど父親と母親がそれを許さなかった。
田舎に越して、のんびりした空気の中でやり直すことを勧められた。それも悪くない、と叶は思った。岐阜にある明里ちゃんの家でお世話になったらどうかと、両親は提案した。楽しみだった。明里ちゃんと、同じ家に住めるなんて。毎日遊べるではないか!
しかしそう上手くはいかなかった。毎日遊べるどころか、毎日顔を合わせなければいけないことが、苦痛になりつつある。
「お母さん、体操服洗って!明日着るの」
明里ちゃんの声が家の奥から聞こえてくる。
スクールカースト。それは学校でしか適用されないはずの上下関係だ。明るくて、可愛くて、格好良くて、面白い子たちが上位にいて、暗くて、可愛くなくて、格好良くなくて、つまらない子たちが下位にいる。それがクラス内における力関係の基本だ。しかし学校内でしか有効でないはずのそれは、家庭内にも持ち込まれてしまった。
米原家では、クラスの中で地位が高い人ほど偉くなる。米原家の子どもたちは三人。それに叶を加えたら四人になる。明里ちゃんは学校でも人気者で、男の子に告白されたこともある。だから米原家の家庭内カーストでも上位に位置している。
一方叶は前の学校でいじめられていた、カースト最下位の者だ。叶がいじめられていたことを知ると、明里ちゃんは対等に接してくれなくなった。米原家はフラットじゃない。段差がある。カースト制度が存在している。
「おかえり、叶ちゃん」
明るい声がして顔を上げると、灰色チェックのプリーツスカートが見えた。黒のハイソックスがよく映える長い脚が、叶の目の前を通り過ぎていく。明里ちゃんの姉である、高校生の詩織さんがそこにいた。
明里ちゃんにはお姉さんと妹がいる。三人姉妹だった。
「ただいま」
そう言って、目を合わせないようにしてそそくさと玄関から立ち去る。詩織さんの視線を背中に感じた。
叶は高校生である詩織さんのことが苦手だった。詩織さんは、背が高い。百六五センチ以上あるだろう。足がスラリと長く、大学生に間違われることも多い。
見た目は、地味だ。長い黒髪は何の工夫もされず一つ結びにされているし、制服のスカートは膝小僧を覆い隠している。クラスでも目立たない方なのだろう。けれどいじめられはしないはずだ。背が高いから。叶と違って、小さくないから。
米原家カーストの中では、詩織さんは下位に属する。けれどそれでも叶よりは上位にいるはずだ。四人の中では、年齢も、背も、一番上なのだから。
詩織さんはよく家に友だちを連れてくる。中学生から見るとずっと大人に見える、高校生の友だちだ。
ある初夏の日、詩織さんは男の子を家に連れてきた。もしかしたら彼氏だったかもしれない。柔らかい髪の毛が肌の上にふんわりと乗っかった、可愛らしい男の子だった。
詩織さんは大人しい。けれど男の子に興味がないとか、そういう訳ではない。
たまたまその日、家には詩織さんの他に叶しかいなかった。叶は詩織さんに手招きされて部屋に連れ込まれた。詩織さんの部屋は物が多く、ゲーム機やオーディオ機器のコードが床で渦を巻いていた。小さなローテーブルを挟んで、三人は地べたに座った。
詩織さんは三人で話をしたいようだった。男の子は叶を見てにっこりと微笑んでいた。緊張しなくて良いんだよ、そんな目配せが、叶には少しだけ上から目線に感じられた。
しばらく他愛もない雑談をした後に、詩織さんは言った。
「良いよね、叶ちゃんは背が低くて。かわいい、羨ましいなぁ。背の低い女の子のほうがかわいいよね」
そう言ってチラリと、男の子の方を見た。
男の子は笑顔を絶やさずに、
「いやいや、俺は背が高い方が好みだから、気にしなくて良いと思うよ」
と言った。
その日から、叶は詩織さんのことが大嫌いだった。
人をお膳立てに使うなよ。
私が、どれだけ、背が低いことを気にしているか知らないくせに!
この家は、敵だらけだ。
いじめられていた叶を邪魔者扱いする明里ちゃん。
背が高くて、そんな自分が大好きな詩織さん。
もう一人、末っ子のさっちゃんがいる。まだ小学六年生だったが、明るく、友だちも多い。米原家カーストの中では叶よりも、詩織さんよりも上位にいる。そのせいか年上の叶を時々見下すような発言をする。
「こんなところ、早く」
早く、なんだろう?
自分は、あの場所に帰りたいのだろうか。自分には帰る場所があるのだろうか。
一階の奥、用意してもらった自分の部屋に入り、肩掛け鞄を下ろした。少しだけ開いたファスナーの隙間から、白い布のようなものが見えている。
叶はそれを取り出した。キャンプ用品店で買った、大きめのアーミーナイフの刃の部分に、包帯が何重にも巻き付けられている。
弱いものが、身を守るためには。
武器を持つしかないのだ。
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