終章2

(わたしは、ジュエルさんのそばにいたい。――きっと、愛しているから) 


 天使だったメイに、恋愛の経験はない。だからはっきりとはわからないが、これがきっと恋というものなのだろうと自覚している。

 周囲からはよく「優しいね」と言われるが、決して慈しみ深いからじゃない。全て自分の為にやっているだけだ。 


 家庭菜園まで作りやりすぎだと言われるくらい料理に精を出しているのは、「美味しい」というやわらかな声を聞きたいから。


 下肢装具について勉強するため、希少な装具士を必死に探し出し頭を下げて弟子入りしたのは、いつか再び歩けるようになった彼と気ままな旅がしたい――本人の希望も聞かず、勝手にそんな夢を抱いているからだ。


 最近では、一週間のうち、食堂で働いている日よりも船に乗った先にある街で書物や金属に触れる日の方が増えてきた。それを許してくれる『お父さん』店長には頭が上がらない。


(ジュエルさんは、わたしのことをどう思っているんだろう……?)


 先ほどのようにそそっかしいと心配してくれはするものの、それは彼の優しさなのであって、メイに特別な感情を抱いているわけではない気がする。

 隣にいてほしいと言われたこともなければ、今後言われるところも想像できないのだ。


(……やっぱり、迷惑なのかな。きっと、「一人で生きていけるように」って、ずっと頑張ってきたんだもんね)


 元々手先が器用だったという彼は、現在、芸術家として活動している。木箱の中に絵画を描いた布を張った――ジオラマを作成しているのだ。

 布の後ろから光を当てると絵に遠近感が生まれ、そこに風景が広がっていたり、人物が実在していたりするように見える不思議で精巧なものだ。光の強さや角度によって映し出される絵が変わるため、紙芝居に代わる新たな娯楽として、近年普及しはじめている。


 興行師として自ら巡業をしている者もいるというが、ジュエルは「がらじゃないから」と言って、作成のみを専門にしている。駆け出しではあるが、すでに数人の興行師とやり取りをするなど滑り出しは好調のようだ。


 彼が作業机に向かう姿を見るのがとても好きなのだが、時々寂しい気持ちになることもある。

 倹約家であるため、王から賜った資金にはまだ余裕があるはず。

 それなのに食い扶持ぶちを必死になって稼ごうとするのは、メイから自立するためなのではないかと感じるからだ。


「っと、いけない」


 気付けば、やかんから湯気がもくもくと立ち上っていた。

 よく火傷をしてはジュエルから怒られているため、細心の注意を払ってポッドに湯を注ぐ。ティーセットの乗ったトレイを手に、メイは彼の元へと向かった。


「お待たせしました」


 テーブルに一式を並べ、ティーカップにハーブティーを注いだところで、ふとジュエルが膝の上に置いた手を落ち着きなく動かしていることに気付いた。


「ジュエルさん。もしかして、お急ぎの仕事でもあるんですか?」

「え? いや、そういうわけじゃ……」


 彼にしては珍しく、歯切れの悪い答えが返ってくる。不思議に思いつつ椅子を引いて席に着くと、メイはティーカップを手に取って口をつけた。


「ああ、いい香り。ジュエルさんも、どう――」

「お前に! 話がある!」


 急に大声を出されたものだから、メイの肩がびくっと跳ねた。危うく落としそうになったティーカップをテーブルに戻し、おそるおそる口を開く。


「な、なんでしょう……?」

「先に言っておく。これは強制じゃない、少しでも嫌だとか不安だとか思ったら、遠慮なく断ってくれ。いいな?」 


 こちらを見つめる深緑色の瞳は、やけに真剣だ。それに、緊張しているように見えるのは気のせいだろうか。


(一体、なんの話なんだろう……?)


「いいな?」

「あ、はい!」


 念押しをされ我に返ったメイは、慌てて大きく頷いたのだが。


「……」

「あのお……」

「……」

「あの、ジュエルさん?」


 いつまで経っても、彼は口を開かない。口をつけないまま冷めてしまったハーブティーに、じっと視線を落としている状態だ。


(本当に、何の話なんだろう?)


 もしかしたら、とても言いにくいことなのかもしれない。一度空気をえたほうがいいだろうと、メイは席を外すことにした。

 ティーカップを回収するために、ジュエルのすぐ隣まで向かう。


「ハーブティー。冷めてしまったと思うので、淹れ直してきますね」

「待て」


 カップの縁に指先が触れる寸前で、急に手首を掴まれた。

 はっとして見下ろすと、息を呑むほどまっすぐに見つめられている。ドクンドクン、心臓が高鳴って呼吸が苦しい。


「あ、あの……」


 なんとか言葉を発したメイが、恥ずかしさから視線を逸らす暇はなかった。ジュエルが意を決したように口を開く。



「――メイ。俺と、結婚してくれ」



「……え?」


 聞き間違いではないかと思った。けれど、彼は掴んだままだったメイの手を両手のひらでそっと包み込み、一層真剣な瞳でこちらを見上げる。


「出会ったとき、お前は本当に頼りなくて……こいつを放っておいちゃいけないと思った。だけど今は、俺の方が助けられている。いつも一生懸命で、周りに優しくて、ふわふわ笑ってる……そんなお前がそばにいてくれるから、俺は腐らずに生きてこられたんだ。――ありがとう」


 優しく微笑みかけられた瞬間、ひとりでに頬を涙が伝った。ジュエルが腕を伸ばし、苦笑しながら雫をそっと指先で拭ってくれる。


「ほんと、泣き虫だよな。だけど、いざっていうときは強くなるから驚かされる。勇者……親父が死んだあの日、震えながら戦うお前を見て『死ねない』って思った。ステラたちの仇を打って死ぬ、死にたいって散々思ってたくせに、『こいつを残して死んでたまるか』って思ったんだから……われながら単純だ」


 あのときから、とやわらかな声で言葉が紡がれる。


「いや、きっと出会ったときから、俺はお前に心を奪われてた。……散々告白してきたけど、今、もう一度言わせてほしい」


 ジュエルが小さく息を吸う。


「メイ、お前が好きだ。――愛してる」


 今彼がどんな顔しているのか瞳に焼き付けたいのに、涙に滲んで何も見えない。

 メイは嗚咽を漏らしながら膝を降り、愛しい人へと腕を伸ばした。そのまま、抱きつくようにしてシャツに包まれた胸に顔をうずめる。


「……っ、わたしも、ジュエルさんが好き……愛してます……っ」

「ありがとう」


 背中にそっと手が回った。


「……だけど。俺は、こんな時ですらお前を抱きしめてやることができない。ようやく稼げるようにはなったけど、間違いなく不自由な暮らしをさせると思う。……それでもいいのか?」


 メイは大きく頷くと、涙でぐしゃぐしゃになった顔でジュエルを見上げた。


「わたしは、あなたのそばにいられるだけで幸せなんですっ、本当です! だから――」


 言葉が止まる。唇を重ねられたことに気付くまで、数秒かかった。

 ぬくもりが離れた瞬間に、メイは真っ赤になる。


「……え、ジュエルさん……今の、」

「ごめん。可愛かったから、つい」

「かわ……!?」

「お前は可愛いよ、誰よりも」


 そう言って愛おしむように瞳を細めたジュエルは、メイより一枚も二枚も上手だ。『エル』とはまた違ったストレートな愛情表現に、くらくらと眩暈めまいがする。

 メイはジュエルからそっと体を離すと、床に膝をついたままぼやいた。


「……ジュエルさん、ずるいです」

「なにが」

「だって、わたしばっかりドキドキしてる……。いきなりそんなに甘やかされても、困ります。心臓がもたない」


 肩を落とし弱り切ったメイを見下ろして、「ふうん」とジュエルがぼやく。


「じゃあ、こういうのやめたほうがいい?」

「! それは……」

「嘘だよ。ていうか、俺が無理」

「?」

「今まで散々我慢してきたんだ。これからは、素直にいかせてもらうからよろしく」


 そう言って悪戯っぽく笑うと、ジュエルはメイの前髪を指先でそっと分けた。そして、ふいに口づける。


「!?」

「メイ、こっち来て」

「は……はい」


 あらがうことなんてできない。熱っぽい瞳と声にうかされたように、メイは彼の膝へと、抱き寄せられるようにして座った。そして、どちらともなく唇を重ねる。

 こんなことがあっていいのかと思うほどの幸せと、この人をもっと知りたい、もっと触れたい――そんな欲望が一気に押し寄せてくる。


 満ち足りているはずなのに、どうしようもなくもどかしくて。

 閉じた瞳からこぼれ落ちた涙が、キスの味を塩辛くする。それでも、唇に灯った熱が離れることはない。

 互いに呼吸を乱しながら、何度も何度も。


 やがて、ざらりとした舌の感触をメイが知ったときだった。

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