5-2

 人間界との境界線は、一体どこにあるのだろう。

 ペガサスに乗らない限り越えることはできないと知っているが、この翼ならきっとその先に導いてくれる。そんな確信がある。


 まごうことなき天使であるこの姿で人間界に降り立てば、うまく逃げ切らない限り死はまぬがれないだろう。

 それでもいい。殺される覚悟は何度もしてきたし、自分よりも、ジュエルが命を失うことの方がずっと怖い。それに、彼が人を……父親を手にかけるなんて嫌だった。


(どうか間に合って!)  


 固く瞳を閉じたとき、全身がなにかに飲み込まれたような奇妙な感覚に陥った。

 瞼を上げて、大きく息を呑む。目の前に広がっているのは、気がふれてしまいそうなほど圧がある色彩の海だ。


 どろりと。まるで粘土細工がつくられていく過程のように、この世にある色を全てごちゃ混ぜにした粘り気のある波があちらこちらで生まれては空間になじんでいく。 

 その中で、一人立ち尽くしている人間がいた。


 はっきりと目が合う。

 涼やかな奥二重をした深緑色の瞳に、うなじで切りそろえられた黒に近い灰色の髪、大切な友人の面差しをはっきりと感じさせるその男性は――。



「勇者、ブルネット……」



 メイは、はばたきを止め、愕然と呟いた。

 しかし、ビビアナ半島で偶然見かけた時、天使である自分以外はきっと雄々しく精悍な印象を受けるだろうと感じた瞳には陰りがある。目の前の彼が纏っている雰囲気は、どういうわけか今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。

 それに、白地に金の装飾が施された上着ではなく、麻布で仕立てられた質素な衣装に身を包んでいることも気になった。


 なぜ、勇者城にいるはずの彼がここにいるのか。そもそも、ここは天上……翼を持たない人間がどうやってここまで来たのか。


 あまりに不可解すぎる状況だというのに、数秒も経たないうちに戸惑いよりも強い怒りが勝った。喉の奥からせり上がってくる言葉を止めることなどできない。


「――っ、どうして、天使狩りなんて! 子どもたちのことは考えなかったんですか……!?」


 勇者は無言のまま。メイの瞳をじっと見つめたのちに、おもむろに腰からげた剣に手を運んだ。


(斬られる……!)


 身を固くしたメイだったが、彼にその気はないようだった。どういうわけか刃を下ろした状態で、握った剣をこちらに差し出してきたのだ。


 意図もわからず、蔓草や小鳥の紋様が彫り込まれた白銀のつかを見下ろす。『白百合の扉』を彷彿ほうふつとさせるような意匠だと思ったとき、そっと手を取られグリップを握らされた。


「……え?」


 おそるおそる顔を上げると、すぐそこに立っていた勇者とまっすぐに目が合う。

 彼は何も言わず、眉を下げ、皺の目立つ口元に微かな笑みを浮かべた。今にも泣き出しそうな表情に、メイは言葉を失う。


 彼は深く、深く一礼をした。そして、剣を託したままこちらに背を向け歩き出す。


「!? 待って! まだ話が――ブレスレットを――」


 自分の叫び声が、くぐもったように聞こえなくなっていく。

 寂しげな背中が景色に溶け込んだ時、急に目の前が真っ白に染まった。



 *   *



「――覚悟!」


 はっと瞳を見開いた瞬間、ぎらついた光が降ってくる。

 剣先だ。

 判断するより早く、メイは反射的に、自らを庇うようにして握ったままの剣の刃を立てた。腕全体に重い振動が伝わり、剣が手元を離れ音もなく後方へと飛んでいく。


「きゃっ!」


 反動で、メイは水色のドレスを大きく揺らし派手に尻もちをついた。すぐ隣から聞き慣れた声が降ってきたのは、その直後だ。


「!? お前、どうして……!」


 弾かれたように顔を上げると、そこには会いたくてたまらなかった人がいた。

 ジュエルだ。別れたときの礼服姿のまま、火傷の跡が痛々しい顔をこわばらせ、深緑色の瞳を大きく見開いてメイを愕然と見下ろしている。


「エルさん……!」


 安堵の声を漏らしたあとで、彼の胴回りにきつく巻かれた縄に気づく。背後に立つ鉄の柱にくくりつけられているのだ。まさに処刑が行われる寸前だったのだとわかり、ぞくっとする。

 純白の翼を与えてくれた同胞たちの力か、それとも創造主の戯れか。

 境界線を越え、ここまで一気にやってくることができたことで、間一髪間に合ったのだ。


(よかっ――)


「天使、だと……?」


 荒々しいわけではないのにすごみのある声が響いたのをきっかけに、ジュエルだけを映していた瞳が、今自分を取り巻く状況をとらえる。


 ここは処刑台の上だ。

 正面には、目を見開き、剣の構えを解いた勇者ブルネットの姿がある。


 先ほど剣を振り下ろしたのは彼で、きっとジュエルを処刑するためだったのだ。それは瞬時にわかったが、強い違和感を覚える。

 つい先ほど会ったときの弱々しさが嘘のように、全身から威圧感を放っているからだ。


 微風にはためく紺碧のマントには光沢があり、純白の上着に施された金の装飾は朝日に照らされ燦然さんぜんと輝いている。まさに英雄といった衣装と堂々たる立ち姿は、麻布の古びた服に身を包んでいたあの人とはまるで別人だ。

 深緑色の瞳は凍てつくように冷たく、見下ろされているだけだというのに背筋が凍る。


「……あなたは、誰……?」

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