第5章 身勝手な創造主
5-1
「――メイ!?」
懐かしい声で、メイは瞳を開いた。
薄桃色をした水の膜の向こうに、忘れるはずのない風景が広がっている。
暖色のマーブル模様に染まった空。生き生きと咲き誇る、彩り豊かな花々。何度も思い描いては、もう決して見ることができないと諦めていた故郷――天界の景色だ。
そして、こちらに向かって駆けてきているのは愛する幼なじみたちだった。その背中には、純白の美しい翼が輝いている。
「メイッ! 無事だったのね!?」
涙ぐんだ声で我に返ったメイは、弾かれたようにして振り返った。背後にそびえ立っているのは、今通ってきたばかりの『白百合の扉』だ。
「――あ」
創造主の戯れか。手を伸ばし触れようとした瞬間に、光の粒子になって跡形もなく消えてしまった。
現実が容赦なく押し寄せてきて、メイは一気に青ざめる。
(天使を逃がしたなんて大罪だ。よくて投獄……もしかしたら、処刑されてしまうかもしれない)
『今度こそ、利用させてもらう』
抱きしめられたとき、ジュエルが耳元でささやいた言葉が蘇る。
(まさか――)
『ジュジュは、昔から父が嫌いだったんです。あの日も、「勇者」になったきり顔も見せない父を連れ戻してくるって……そう言って、教会を出て行きました』
かつてステラが悲しげに語ってくれたことを思い出した瞬間、確信に限りなく近い予感が押し寄せてきた。
(エルさんはきっと、
愛する姉や教会の家族を死に追いやった父親を、彼は誰よりも憎んでいるに違いない。素性を偽ってメイを騙し謁見を申し込もうとしていたのも、別れ際に大人しく兵士に連行されていったのも、全て勇者とまみえ殺害する機会を作るため……そう考えると
「馬鹿っ! 本当に、心配したんだから!」
水を蹴る音が聞こえたかと思うと、背中越しにきつく抱きしめられた。
みな、濡れてしまうことも気にせず泉に飛び込んできてくれたのだ。嗚咽がいくつも重なる。
「無事で本当によかった……。もう、会えないかと思ったわよ……!」
正面に回ってきた幼なじみのあたたかな体温を感じた瞬間、ぷつんと何かが音を立てて切れた。涙がぽたぽたと溢れだす。
「……みんな、心配かけてごめんね」
「本当よ! この、馬鹿メイ……!」
「髪を染めたのね。人間界で暮らすなんて、大変だったでしょう……?」
天使狩りから二年。
もう会えないと思っていた幼なじみと再会し、こうして言葉を交わし抱き合うことができた。とても幸せで夢のような時間だというのに、きっと、メイが今流しているのは嬉し涙ではない。
(エルさん……)
最後にやさしく細められた深緑色の瞳が、脳裏に焼き付いて消えてくれない。
彼は、ペンダントのチェーンから『鍵』だけを抜き取った。閉まりゆく『扉』にあれを放り投げなかったのは、メイが
『俺は、優しくなんてない』
明るく笑いかけてくれたことも、好きだと言ってくれたことも。二度目の出会いから共に過ごした全ての時間は、嘘で塗り固められていた。
それでも、彼は迷子のメイをこうして故郷に帰してくれた。
二年半前。晩夏の日差しに照らされながら手を引き導いてくれた少年は、あのときのまま。メイが心惹かれた不器用な優しさは、ちっとも変わっていなかった。
「ほら。こんな冷たいところ、もう出ましょう? 無事に帰ってきたって、
「本当にね! ……だけどきっと喜ぶと思う。ペガサスを派遣してメイを連れ戻してくださいって頼んだとき、『私たち天使は、もう一切人間界とは関わりを持たない。身勝手な行いをした者のために、その決定を
「……最初はすごく不満だったけど、ブルースターの花をパレスの部屋で大切に育ててるって聞いた時はじーんとしちゃった」
「ふふ。それはそうと、そんなに着飾って、どこぞのお姫様にでもなったの? 見違えたわよ」
幼なじみたちが、涙ながらに明るく笑う。
やがて「ほら、行きましょう」と優しく差し伸べられた手に触れるでもなく、メイはじっと彼女の白い指先に視線を落としていた。
「……メイ?」
「わたし、人間界に戻りたい」
その声は、自分のものだとは思えないほどはっきりと響いた。
顔を上げると、幼なじみたちが目を見開いてこちらを見ている。手を差し出してくれていた一人が、はっと我に返りメイの肩を乱暴に掴んだ。
「何を言ってるの!? せっかく帰ってこれたっていうのに!」
「会いたい人がいるの! もう一度、会わなくちゃいけない!」
「まさか恋人……? だけど! いくら好きだからって――」
「そうよ! それに、『扉』はもう消えたもの、戻れっこないわ!」
混乱した幼なじみたちの声が、次々に重なっていく。
(恋人なんかじゃない。大嫌いだって、はっきり言われた)
あの婚約指輪が、結局どういう意味を持っていたのかはわからない。記憶を失っていなかったとはいっても、心に決めた相手はいるのかもしれない。
けれど、それでも……。
(どうか、もう一度会いに行かせて! あの人を死なせたくないの!)
誰にともなく強く願ったときだった。白いケープの上に飛び出していたペンダントが首からするりと抜け、天高く舞い上がっていく。
パリン!
音を立て、小瓶が砕け散った。光の粒子となった欠片とともに、ふわりふわりと舞い降りてくる羽根。それを呆然と見上げていると、どこからともなく声が聞こえてくる。
――メイ、つれて帰ってきてくれてありがとう。
背中に清らかな風を感じた。そして、まるで「彼女たち」が包み込んでくれているようなぬくもりも。
「――っ!? メイ、あなた……それ……!」
幼なじみたちが息を呑む。
状況が把握できないまま泉に映る自分を見下ろしたメイは、彼女たちよりもさらに大きく息を呑みこんだ。
背中に翼が生えているのだ。透明じゃない、光を纏った純白の大きな翼だ。
(これ、みんなが……)
胸が熱くなる。きっと、メイが集めた羽根に宿った魂たちが授けてくれたのだろう。そんな話は聞いたことがないが、不思議と確信することができる。
「……ありがとう」
メイは熱い吐息を吐き出すようにして呟いた。
天使狩りで命を断たれた「彼女たち」は、言葉はなくてもずっと傍でメイを見守ってくれていた。孤独に押しつぶされそうな夜も、ひとりきりで新たな旅に出る朝も、小瓶に触れ心を落ち着かせることで乗り越えてこられたのだ。
(恩を返さなくちゃいけないのは、わたしのほうだったのに)
どこからかやわらかな風が吹き、舞い降りてきていた羽根をさらっていく。
「彼女たち」は、もう決してモノとして扱われない。きっと海に還り、脈々と繋がれる命の環に加わることができるだろう。
(よかった。これでもう大丈夫だね)
きらめく風が去って行くのを見送り、メイは表情を引き締めた。「彼女たち」が与えてくれた美しい翼を、無駄にはしない。
「みんな、勝手なことばかりしてごめんなさい。ありがとう。……ずっと、大好きだよ」
最後に幼なじみたちに笑顔を向けると、メイは大きく翼をはためかせ舞い上がった。飛んだことなどないのに、まるで最初からそこにあったかのように自然と扱うことができる。
「メイッ!」
名前を呼ぶ声が絶えず聞こえてくるが、振り返らない。純白の翼で力強く風を打ち、遙か下方に広がる雲の海へと飛び込んだ。
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