5-3

 呟いた声は、ジュエルにも勇者にも届かなかったようだ。


「おい。早く逃げろ、殺されたいのか」


 素早く囁かれたジュエルの声は威圧的で、顔を見ずとも険しい表情をしていることがわかった。一歩、また一歩と近づいてくる勇者を見据えながら、メイも強い言葉を返す。


「嫌です。私はあなたを死なせない。――人殺しになんて、させない」

「――っ」


 息を止めたジュエルを背に庇うようにして、メイはすっくと立ち上がった。

 ドレスの裾をぎゅっとたぐり寄せ、勇気を振りしぼって、息子と同じ色味をした勇者の瞳を見つめる。


「勇者ブルネット。あなたに聞きたいことがあります」


 少しだけ震えてしまったが、自分なりに毅然とした声が出せたと思った。しかし、群衆たちのざわめきにあっけなくかき消されてしまう。 


 天使だ。どうしてここに? 本物なのか? どうでもいい、殺してしまえ。


 辛辣な言葉の波だ。まるで刃物でざっくりと切りつけられたように、胸が大きく痛む。

 そんな中にあっても無言のまま推し量るようにしてメイを見ている勇者の後ろから、血相を変えた兵士が二人処刑台に駆け上がってこようとしているのが確認できた。焦りとともに、言葉が喉の奥からせりあがってくる。


「どうして天使を殺したの? 奥さんは守護天使だったんでしょう? それに、シスターだった娘……ステラちゃんのことは考えなかったの!?」


「ブルネット様の奥様が天使? 何馬鹿なこと言ってんだ!」

「勇者様に娘なんていないんだよ!」

「そうだ! さっさと殺されちまえ! 人間界から消えろ!」


 怒号と共に、石のつぶてがいくつも飛んできた。頬に、腕に、容赦なく当たっては傷を作っていく。

 痛い、とても痛い。泣き出してしまいたいほど。

 それでもメイはぐっと唇をかみ、自分を奮い立たせてその場に踏みとどまる。


 急に強くなれるはずなんてない。それでも、友人ステラの思いを伝えたい、大切な人ジュエルをこの手で守りたいから。


 泣き虫な自分とは、今ここで決別する。



「ステラちゃんは、ずっとあなたを待ってた! あなたと、ここにいるジュエルさんを! 家族三人、心は繋がっているはずだからって――」

「もういい!」


 叫んだのはジュエルだった。一瞬にして、メイを押しのけるようにして前に出る。


 勇者を殺す算段を整えていたのだろうから、縄をほどくなんて造作もないことだったのだろう。メイに当たるはずだった石つぶてを全て受け、彼は肩で浅く息をしながら勇者を睨みつけた。


「……お前を殺すために今日まで生きてきた。潔く死ね!」


 ジュエルが一直線に駆け出す。捨て身の特攻だ。彼は武器を持っていない。


「エルさんっ!」


 急ぎ剣を抜こうとした兵士たちを、勇者が押しとどめたのが見て取れた。

 何か指示を出したようだが、一人で何の問題もない、余裕だから手を出すなということだろうか。


(いけない……!)


 必死で周囲を見回す。すぐさま、視界の端に光るものを見つけた。

 不思議な空間で、もう一人の勇者から託された剣だ。目立つ場所に転がっているというのに、回収されずにそこにある。

 天使が登場したという衝撃で、みな存在を忘れているのだろうか。


 なんにせよ好都合だ。これさえあれば、無力な自分でも、少しはジュエルを守る盾になれる。


 転がるようにして素早く剣を拾い上げた時、兵士たちがこちらに向かって駆けてきてることに気づいた。

 はっとする。先ほど勇者から、『天使』を捕らえるよう指示されていたのだろう。


「こ、来ないで!」


 メイは飛べることも忘れ、震える両手で剣を構えた。思わずといった様子で足を止めた兵士たちが、あざ笑うようにそろって口角を上げる。


「剣でも構えてるつもりか?」

「綺麗に翼をそいでやるから、安心しな。暴れたら痛い思いをするだけ……」

「嫌っ!」


 伸ばされた手が触れる寸前で、慌てて地面を強く蹴り舞い上がった。どよめきが起こるなか、メイは剣を胸に抱えるようにして空中で息を整える。

 頬に焼け付くような痛みが走ったのは、その直後だった。


「!?」 


 ヒュン! と風を切り、光――いや、鋭い矢が飛んできている。

 勇者城の尖塔からだ。早くも情報が伝わったんだろう。くりぬき窓の向こうに、弓を構えた兵士の姿が数人、おぼろげに確認できる。メイを撃ち落とそうとしているのだ。


 次々と飛んでくる矢をすんでのところでかわすことができているのは、視力が優れているという天使の特徴のおかげにほかならない。もしそれがなければ、きっと心臓を射貫かれていた。

 しかし、メイは俊敏なタイプではないのだ。

 せっかく手にしている剣を盾にできるほど器用ではないし、運がいいだけで、いつ撃ち落とされても不思議ではない。そこを捕らえられ翼を傷つけられれば、おしまいだ。死んでしまう。


 眼下のジュエルの様子を確認したいのに、矢をよけるのに精一杯でかなわない。


「ぐ……っ!」


 そうこうしている間に、ジュエルのうめき声があがった。

 はっと視線を落とすと、勇者に首を片手で掴まれている彼の姿が確認できる。宙づりにされ、足が地面から離れている状態だ。


 考える間もなく体が勝手に動いた。剣を強く握りしめたまま、純白の翼で強く宙を打ち、メイは一気に下降していく。

 途中、矢を数本受けた。

 どうせすぐに治る。そう思えば、こんな痛み、なんてことはない。


「愚かな青年だ」


 勇者の声は、決して大きくないというのによく響く。 

 群衆から大きな歓声があがるなか、彼は最愛の息子であるはずのジュエルを、容赦なく処刑台の床にたたきつけた。そして、手にした何かを、ごみを捨てるかのような仕草で放り投げる。


「指輪型の暗器とは考えたな。大方おおかた毒でも仕込んでいたのだろうが、私の前では全て無意味なことだ」


 ぎりっと歯を合わせたジュエルを、勇者はためらいもなく斬りつけた。

 真っ赤な鮮血が、まるでアネモネの花びらのように舞う。メイは悲鳴に似た叫び声をあげた。


「やめて……っ! やめてよっ!」


 手にしていた剣を捨て、腕を広げながら両者の間に滑り込む。

 倒れる寸前のジュエルを抱きとめることには成功したが、重みで処刑台の床に崩れ落ちてしまった。そんなメイを前にして、ジュエルにとどめを刺すべく剣を振り上げていた勇者の動きがぴたりと止まる。


 目が合った瞬間、ステラと……ジュエルにも似た、薄い唇が怪し気に歪んだ。あの不思議な空間で見たはずのくっきりと刻まれた皺は、どこにも確認できない。


「天使……。目の前に、天使がいる……」


 彼はおもむろに右手を挙げて矢を止めると、駆け寄ってこようとしていた兵士をもその場にとどまらせた。

 そして膝を折り、無遠慮に顔を近づけてくる。

 場にそぐわない恍惚こうこつとした表情に、メイの背筋は一気に凍った。


「ああ、実に美味そうな匂いだ……」

「――え」


 耳元で囁かれた言葉に、あふれ出していた涙がぴたりと止まった。そして。


(な……に? これ)

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