序章4
引き返しはじめてから、どれくらい時間が経ったのだろう。
無事に森から脱出できたとき、満月は雲に隠れ、藍色だった空は真っ黒に染まっていた。
今晩天界に帰れない時点で、訓練は失敗だ。一人前の天使になる日が遠のいてしまったことは間違いない。
そんな激しく落ち込んでもおかしくない状況にあって、メイの胸には別の気持ちが押し寄せてきていた。理由はないというのに、そわそわと落ち着かないのだ。
(……早くみんなのところに帰ろう)
明日は天気が悪いのか。星のない夜空の下、足を前へ、前へ。
いつの間にか小走りになっていたメイを迎えたのは、息をのむような光景だった。
「――なに、これ」
教会の庭が、変わり果てた姿になっている。
シアン牧師が丹精込めて世話をしていた花壇が踏み荒らされ、数時間前まで可憐に咲きほこっていた冬の花々がひしゃげて
(庭荒らし……?)
思わず一歩後ずさったメイの目に、見慣れないものが飛び込んできた。
呆然と立ち尽くした小さな体に、
どうか、どうか――。
しかし。必死に繰り返した願いは、扉を開けた瞬間にあっけなく砕け散った。
血の海だ。愛した場所が、愛した人たちが、真っ赤に染まっている。
壁にもたれかかるようにして座りこんでいるシスターの腹部には鎌が刺さり、彼女を庇おうとしたのか、おかしな首の曲がり方をしたシアン牧師が
薔薇の花びらのように点々と落ちた血をのろのろと視線でたどると、地下に繋がる扉の手前で、もう一人のシスターが倒れていた。右足が――ない。
「……、うえ……っ」
切り落とされた足首が転がっているのを見た瞬間、メイはその場にしゃがみ込んだ。苦い味が口中に広がって、
もうやめて。
そう懇願しながらも、長椅子の影から床に広がった鮮やかなオレンジ色の髪が見えていることに気づいてしまった。知りたくない、しかし確認せずにはいられなくて、メイは這いつくばるようにして進んでいく。
そして、視界に映った光景。それは、抱き合うようにして倒れた守護天使二人の姿だった。
大きな違和感に襲われ、やがて彼女たちから翼が失われていることに気づく。それぞれの背中には、翼の根元だけが残っていた。無残に、切り落とされている。
不老長寿である天使の唯一の弱点は翼だ。大きく傷つけられると、死に至る。
彼女たちの肉体に傷はつけられていない。
「どう、して……」
ひどい。ひどすぎる。決して許されることじゃない。
これはなんなのか。夢だ、きっと夢だ。――そうに違いないと、思ったのに。
視線の端に見つけてしまった。
変わり果てた、友人の姿を。
「……ステラちゃん……っ!」
守護天使たちからさほど離れていない場所で仰向けに倒れた彼女の喉元には、ナイフが突き刺さっていた。見開かれたままの青い瞳に、もう輝きはない。
言葉も出てこなかった。
ただ呆然と、雪のように真っ白なステラの顔を眺め続ける。
どれくらいの時間、血の臭いが立ち込める空間で座り込んでいたのだろう。ふと、ステラが何か握っていることに気づいた。
どうしてなのか確認せずにはいられなくて、固く閉じた右手におそるおそる触れてそっと指をほどいていく。すると、三つ重なったブレスレットが目に飛び込んできた。
「――あ」
革紐でつくられた、簡素ながら丁寧なしつらえのものだ。ところどころに編み込まれた紫色の小さな石は、ライラックの花の色をイメージして選んだと教えてくれた。
ステラの名は、ステラ・ライラックという。
(これ……ステラちゃんが作った……お父さんと弟さんの……)
ひとりでに蘇ったのは、ほんの数日前の光景だった。
『家族三人おそろいなんです。離れていても繋がってるっていう想いを込めて作ったもので。いつか渡したいなって……そう思っているんですけど』
切なげに瞳を伏せたステラに、メイは「きっと渡せるよ。二人とも喜ぶね」と願いを込めて微笑みかけたのだ。
「……っ」
メイは表情を硬くして涙をこらえながら、もの寂しく光るブレスレットを二つ手に取った。そのときだ。
ガタガタ、とはめ込み窓が音を立てて揺れ、開け放したままだった扉から強い風が吹き込んできた。振り返る間もなく、何者かに首根っこを乱暴に掴まれ、宙に放り投げられる。
「きゃっ!」
うつ伏せになった状態であたたかく滑らかなものを肌に感じていると、緊迫した声が脳に直接流れ込んできた。
――急ぎ天界に向かいます! 振り落とされないよう、ペガサスによくつかまって!
(天使長……!)
声音から異常事態が起きているのだと伝わってくる。そして、自分を今背に乗せているのが彼女の使いであるペガサスだということも理解できた。
「ま……まって、ください! みんなが……」
なんとか絞り出した声を無視して、ペガサスが教会の床を強く蹴って駆け出す。玄関扉から外に出た瞬間、星ひとつない夜空へと大きく飛び上がった。
ペガサスは、『白百合の扉』を通らずとも天界と人間界の境界線を越えることができる特別な存在だ。神々しい光を
振り落とされないように必死でつかまっているうちに、全てが夢だったような気がして。だけど、とっさに手首につけた二つのブレスレットは、間違いなくそこにある。
(どうして……?)
再会を誓い合ったばかりだった。一人前の天使になって、今度は自分がみんなを助けたい。恩返しをしたいと思っていたのに。
涙が
故郷――天界の香りだ。
「メイ……ッ!」
のろのろと顔を上げると、幼なじみたちがわっと駆け寄ってきたところだった。
いつもと変わらない暖色のマーブル模様に染まった空の下、彩り豊かな木々を背景にした彼女たちは泣きはらした目をしている。
「無事でよかった……っ!」
ペガサスの背から抱き下ろしてくれた一人が、メイをぎゅっと両腕で包み込む。他のみなもそれに続いた。
「ああ、メイ。怖かったでしょう? 本当に……怖かったでしょう……?」
「大丈夫。私たち、もう大丈夫よ……」
「――蕾の子らよ」
凜とした声に、水を打ったように場が静まりかえる。
みなが一斉に視線を向けた先には、ドーム型の丸い屋根が特徴的な白亜の建物がそびえたっている。頂点に花をかたどった精巧な硝子細工が飾られたそれは、天使たちが住まういわば共同住宅――宮殿(パレス)だ。
生活に欠かせない仕事をこなす機関がある最上階から伸びた
ゆるやかに流れ落ちる黄金の艶髪、くすみのない肌、華奢な背中から生えたやわらかく豊かな翼。みなが憧れるたおやかな姿はいつも通りだが、藍色の大きな瞳には焦りがはっきりと浮かんでいる。
厳格な天使長とは対照的にいつも穏やかで笑顔を絶やさない彼女がこれほど硬い表情をしているところを、メイははじめて見た。
「天使長に代わり、急ぎ現状を説明します。よく聞きなさい」
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