序章3

 半年前。

 人間界に降り立ったメイは、永遠とわの森と呼ばれるほど難解な地形をしたこの森で迷ってしまった。いや、正確にいえば、森から抜け出すことはできたのだ。

 しかし教会とは真逆の道に出てしまったようで、いくら歩けどもそれらしい景色が現れず、途方に暮れてしまった。


 救いの手が差し伸べられたのは、一夜が明けた早朝。

 晩夏の日差しに照らされながら、小川が流れるのどかな田舎道をとぼとぼと歩いていたときだった。


『おい、そこの天使』 


 おそるおそる振り返った先に立っていたのは、少し年上のように見える黒髪の少年だった。

 ほんの少し吊り目がちな深緑色の瞳、右目の下の泣きぼくろ。すっと通った鼻筋、猫のようにきゅっと口角の上がった薄い唇――。 


 男性には免疫がなかったし、なにより彼の持つ雰囲気が刺々しいものだったため、思わず固まってしまった。それに、いきなり天使だと言い当てられて戸惑ったのもある。

 しかし、少年は気にとめた様子もなく、淡々と、せかすような口調で尋ねてきた。


『迷子なんだろ? なに? どこに行きたいの?』

『……ええと、ル二カ教会に』 

『それ、真逆なんだけど。あー、わかった。永遠の森で迷ったんだろ』


 頼りなさげに頷いたメイを見て鼻で笑ったあと、少年は「どうするかな……」と胸の前で小さく腕を組んだ。そして、思わぬ提案をしてきたのだ。


『仕方ない。森の出口まで案内してやる』

『え? でも……』

『なんだよ、迷惑だって?』

『い、いえ! まさか! その……用事とか、あるんじゃないかなって……』

『ちょうどそっち方面に行くつもりだった。そうでもなきゃ、迷子を助けたりしないから安心しろよ。俺は、そこまで善人ぜんにんじゃない』


 そうして、メイは少年とともに永遠の森に戻っていくことになった。

 彼は道に慣れているようだったが、いかんせん森は深い。抜けるまでに時間がたっぷりあったこともあって、会話が徐々に増えていった。

  その中で、自分は蕾の子であり一人前の天使になるために人間界にやってきたのだと明かしたのだが、少年は全く驚かなかった。珍しい髪色から天使だとすぐにわかるし、どう見ても一人前には見えないから……と容赦ない指摘をされて虚しくなったことは記憶に新しい。


 しかし、少年は口は悪いが、実はとても優しい人間であるようだった。

 木の根につまずいて転んだメイを見て笑いはしたがすぐに手を差し伸べてくれたし、今度また迷ったときのためにと、目印になる変わった形をした木や珍しい花を教えてくれた。

 そのため、森を無事に抜け別れが訪れたときには、とても寂しい気持ちになったのだ。


『あとは一本道だから、いくらどんくさくてもたどり着ける。それじゃあな』

『あ! 待ってください!』


 慌てて引き留めて礼を言い、メイは居住まいを正した。


『今更ですけど、わたしはメイフィア……。メイっていいます。あなたのお名前は?』

『さあな』

『え?』

『もしまた会えたら、そのときは教えてやるよ』


 そう言って小さく笑うと、少年はこちらに背を向け去っていった。

 あれから半年、メイは未だに彼の名前を知らない。




(もう一度会いたかったな)


 守護天使になって人間界に戻ってくることができたら、そのときは再会できるだろうか。


(それにしても、あのとき助けてもらえて本当によかった。あのまま教会にたどり着けなかったら、訓練どころじゃなかったもん。……わたしって、なんだかんだで運がいいのかも)


 人間界は大きく五つの地方にわかれており、『扉』はそれぞれに一つずつ、計五つ設けられている。その中で最も田舎であるこの地方はいわゆるハズレであり、教会の分布を考えると、この森の中に『扉』を設けるほかなかったのだという話だ。


 それぞれが通る『扉』について発表されたとき、幼なじみたちに不憫ふびんな目で見られたことはよく覚えている。「しかも一人きりなんて、方向音痴のメイには無理です!」と天使長に進言してくれた子までいた。まあ、結局決定は覆らなかったわけだが。


(他の『扉』は、もっとわかりやすい場所にあるんだよね。近くに天使をもてなすための町が作られてる地方もあるっていうし……すごい差だなあ。わたしは騒がしいのが苦手だから、この静かで神秘的な感じが好きだけど。また迷ったら元も子もないや)


 昼に出発して、のんびり森林浴を楽しむくらいの余裕を持って帰った方がいい。

 そう助言を受けたというのに断ったのは、できるだけ長くル二カ教会にいたかったからだ。それに、天使の特徴でメイも夜目がきくため、大きな問題はないと思った。


(あ、これ。変わった形をしてるから、目印になるって教えてもらった木だ。……ってことは、こっちだよね)


 おぼろげになってしまった少年の顔と声を思い出しながら、メイは慎重に進んでいく。


(……あった! ああ、よかったあ!)


 木々をかき分けるようにして進んだ先に、その場所はあった。

 満月が映り込み黄金に染まった湖の中心に、純白の扉がぽつりと立っている。つる草や小鳥の細緻な紋様が彫り込まれた、重厚な扉だ。


 やわらかな夜風が吹き、湖を取り囲む木々とメイの髪を小さく揺らした。

 なかなかの距離を進んできたため、足が棒のようだ。人間界を離れるのは名残惜しいし、休憩がてら湖畔こはんに座って神秘的な景色を楽しみたいところだが……あいにくそんなことをしている時間はない。


(さて、と……あれ?)


 白いローブの首元から手を入れ込んだメイは、固まった。そして、一気に青ざめる。

 首からかけていたはずの『鍵』がないのだ。


「うそうそうそっ! 嘘でしょ!?」


 きっと、教会に忘れてきてしまったのだ。ありえない。うっかりにもほどがある。


(急いで引き返さないと!)


 メイはきびすを返すと、無我夢中で駆け出した。

 しかし、それが大きな間違いだった。

 道を大きく外してしまったらしく、いっこうに森の出口が現れない。途中、生い茂る木々の向こう側で松明たいまつが揺れた気がしたため、メイははっと立ち止まった。


(誰かいる! 道を教えてもらおう!)


「――生け捕りにするって言うけどよ、こんな時間に現れるのか?」

「さあな。とりあえず張っておくようにっていう指示なんだから、従うしかねえだろ。金のためだ」


(猟師さん……? 獲物を追いかけてるみたいだから邪魔しちゃうけど、なりふりかまっていられない!)


「あのっ!」


 茂みの向こうまで届くようにと声を張り上げた時、ちょうどカラスが大きく鳴いて飛び立っていった。「ひっ!」という男性の声が聞こえてくる。


「心臓にわりいなあ……。おい、さっさと行こうぜ!」


 足音があっという間に遠ざかっていく。頼みの綱を失ってしまったメイは、途方に暮れた。


(どうしよう)


 降り積もった雪の上で膝を抱えるようにしてしゃがみ込むと、教会の家族の顔が思い浮かんだ。今すぐみんなに抱きしめてもらいたい、そんな情けないことを考えてしまうほど心細い。

 泣き虫なメイは、鼻をすすりながらのろのろと立ち上がった。


(……とりあえず落ち着こう。ゆっくり進めば、きっと森から出られる)

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