序章2

(悪魔が消えても交流が続いているなんて、とても素敵なことだよね。これからも、天使と人間が手を取り合っていけますように……)


 メイは胸の前で指を組むと、創造主に祈るようにしてそっと瞳を閉じた。


「メイ様」


 ちょうど瞳を開いた頃合いで、地下室に続く扉が開いた。

 そこから顔を出したのは、涼やかな奥二重の、青い瞳を持つ少女だ。白えりのついた紺色の質素なワンピースに身を包み、黒に近い灰色の髪を一本の三つ編みに束ねている。


「ご出発の前に、少しお話ししたいと思って。……よろしいですか?」

「もちろん。わたしもステラちゃんとお話ししたいと思ってたの」


 澄んだ薄茶色の瞳を細めてメイが微笑むと、少女――ステラは「よかった」と表情を和らげた。彼女は、人間界でできたかけがえのない友人だ。

 二人は自然と長椅子に隣り合って座ると、思い出話を始めた。


「最初は不安でいっぱいで、お別れの日が来るなんて想像もできなかったけど……あっという間だったなあ」

「そうですね。明日からはメイ様にお会いできないなんて、信じられません」


 そう言い、ステラが寂しげに瞳を伏せる。


 シスターは基本的に教会に居住しており、駐在する守護天使の身の回りの世話をすることを主な仕事としている。このル二カ教会にはシスターが他に二人いるが、年が近いということで、一七歳のステラがメイの担当として一連の雑務をこなしてくれていたのだった。

 人間の生活習慣や言語の読み書き、食の大切さ、体のもろさ――。食料の摂取を必要とせず傷の治りも早い天使であるメイにとって、ステラから教わることは全てが新鮮だった。

 そしてそれ以上に、勤勉な彼女の姿勢から学ぶことは、とても多かったように思う。


(ステラちゃんは誰にでもいつも親切で、清らかな心を持ってる……わたしより、天使みたいな女の子だ。『勇者』の娘なのにおごらないところも、とても素敵だと思う)


 打ち解けてから本人が教えてくれたことだが、彼女は、魔王を討ち滅ぼした英雄――『勇者』と崇められる男性の娘なのだそうだ。このことはシアン牧師やシスターたち、そして古くから教会に通う顔なじみの人々しか知らない。

 さらに驚いたのは、彼女の母親が守護天使だったということだ。


 天界に存在するのは、人間でいうところの女性だけ。恋に落ちる相手は同性であり、添い遂げる相手との間に子を授かることはない。

 天使はみな、天界に咲く花の蕾から生まれてくるのだ。


 そのため、天使に生殖機能は必要ない。自分たちが胎内たいないに子をもうけ育てることができるなんて考えもしなかったため、ステラが天使である母親から生まれたという事実は、メイにとってあまりに衝撃的だった。

 天使長をはじめとする高位の天使たちは知っていることなのかもしれないが、少なくともメイの周囲でそのような話題が出たことはない。


 そして、人間と体の交わりを持ったことが原因なのかどうかはわからないが、ステラの母親は数年前に亡くなってしまったという。年齢を聞いたが、不老長寿である天使の寿命としては考えられないものだった。


 母親が亡くなり、悪魔討伐を生業なりわいとしていた父が多忙を極めていたことで取り残されたステラは、母が守護天使として駐在していたこの教会に正式に引き取られ、シスターとして生きてきたのだという。

 亡き母を敬愛している彼女は、これからもここで天使を信仰していくと揺るがない瞳で語ってくれた。


(またここに帰ってきて、ステラちゃんと一緒に過ごしたいな)


 出会ったころ。天使信仰に厚い彼女は、「もっと砕けた態度で接してほしい」と何度頼んでも、頑なに丁寧な姿勢を崩さなかった。

 今でもそれは変わらないが、自然な笑顔を向けてくれるようになったし、他愛ないお喋りもできるようになった。それに、両親にまつわる打ち明け話までしてくれたのだ。

 その変化の過程が、本当に……たまらなく嬉しかった。


「ステラちゃんがいてくれたから、わたし寂しくなかったんだよ。天界に帰りたいって泣き言を言わずに済んだ。本当にありがとう」

「とんでもない。メイ様がいらしてからの日々は、私にとっても、本当に楽しいものでしたから」


 心から伝えてくれた言葉だとわかったからこそ、ズキンと胸が痛む。微笑みに影があるように感じるのは、彼女が抱える苦悩を知っているからだ。


 魔王討伐の褒美として、勇者が王から広大な土地を与えられたことはあまりに有名な話であり、現在そこで暮らす彼は、故郷に――娘の元に帰ってきていない。

 そしてステラには双子の弟がいるというが、彼もまた一年ほど前に教会を出たきりなのだと聞いた。


(……わたしには、なにもできないけれど……)


 メイは思い切って口を開いた。 


「お父さんと弟さんに会えるように、わたし、天界で祈ってる! だから……一人じゃないよ」


 腕を伸ばして、大切な友人をぎゅっと抱きしめる。

 耳元で、息をのむ音が聞こえた。


「ありがとう、ございます」


 遠慮がちに抱きしめ返された細い腕に、「メイ様も」と力が込められる。


「一人じゃありませんよ。辛いときには、どうか私のことを思い出してください。この透明な翼もとても綺麗で大好きですけれど、白い翼を授かれるよう地上から応援していますから」


 天使の血を引いているためだろう、ステラには蕾の子の翼が見えるという。

 そっと体を離した彼女が背中に生えた翼を撫でてくれた気配がして、メイは泣き笑いような表情になった。


「……ありがとう」  


 見つめあい、潤んだ瞳を細めて微笑み合う。


「わたし、ステラちゃんに出会えてよかった」 

「私も。メイ様に出会えてよかったです」

「必ず、また会おうね」

「ええ。もちろん」


 固く誓い合ったところで、シアン牧師とシスター二人、そして守護天使二人――半年間共に過ごした五人の家族たちがこぞってやってきた。


「メイ、そろそろ出発した方がいいわ。あなたはおっとりさんなんだから、余裕を持っておかなくちゃ。歩いている途中に満月が隠れたら大変よ?」

「その通り。天使長から手助けは不要だと言われているからついていけないけど、『扉』の場所はちゃんと覚えてる? 派遣初日から迷子になったこと、忘れたとは言わせないからね」

「はは、先輩方は心配性でいらっしゃいますね」


 シアン牧師の冗談めかした声に、シスターたちがくすくすと楽しげに笑う。

 指摘を受けた赤とオレンジの珍しい髪色をした女性――守護天使たちが、「そりゃあ可愛い後輩だもの」と両脇からメイを優しく抱きしめる。

 彼女たちの背中から生えた純白の翼が、頬に触れてくすぐったい。


(ああ、わたし幸せだなあ……)


「やだ、メイったら泣いてるの?」

「だって、みなさんと離れるのが寂しくて……」


 守護天使たちが、顔を見合わせて笑う。


「全く、泣き虫なんだから。守護天使に任命されたあかつきには、天使長に、メイの配属先をここにするよう頼んであげる。まあ、あの方が聞き入れてくださるかはわからないけどね」

「それじゃあ、帰って来られないじゃないですかあ……っ」

「そのときはそのときよ。あなたが相当な方向音痴を治せたのなら、人間界に降り立ったときまた会えるわ。気晴らしにでも遊びに来なさい」

「……そう、ですね。そうします!」


 しみったれた気持ちで別れるなんてもったいない。メイはローブのすそで涙をぬぐうと、にっこり笑った。それを見て、みながほっとしたような笑顔を返してくれる。




 そうして家族そろって教会の外に出ると、藍色の空には変わらず満月が浮かんでいた。

 黄金色のやわらかな光の下で一人一人と抱擁ほうようを交わし、再会を誓ってゆっくりと歩き出す。最後に振り返ったとき、目が合ったステラが瞳に涙を浮かべながら微笑みかけてくれたため、胸が熱くなった。


(また、必ず人間界に戻ってこよう)


 一人前の天使になったからといって、必ずしも守護天使として人間界に派遣されるわけではない。天使たちの暮らしを支える仕事をしている者もいれば、天使長や副天使長など高位の天使たちの補佐をする者もいるのだ。希望が通る場合もあるが、どの役割を任されるのかは適正次第である。


 ちなみに、守護天使になるための最低条件は、『癒やしの力』と『光の力』の扱いに長けていることだ。


(わたしは絶対に守護天使になりたい。だから、訓練を頑張って力を磨かないと)


 決意も新たに、メイは雪化粧をした森へと足を踏み入れた。

 ローブの上から羽織った厚手の黄色いケープをそわそわと指先でもてあそびながら、白く染まった息を吐き出す。


 目指すのは、天界に繋がる『白百合の扉』が立つ湖のほとりだ。

 天使が人間界に向かえるようにと創造主が生み出したものであり、満月の夜に『鍵』をかざすことで天界までの道が開ける。『鍵』は人間界にたずさわる天使みなに異なる形状のものが授けられており、メイに与えられたのは、星形をした薄水色の花弁が愛らしい花――ブルースターがモチーフになったペンダントだった。


 ブルースターは、メイの命を運んできた花だ。

 ちなみにル二カ教会で世話をしてくれた守護天使たちはそれぞれ薔薇とマリーゴールドから生まれており、花びらの色が髪色になるのが一般的である。そして、天使長から授けられた『鍵』は、その花がそれぞれモチーフになっている。


 ペンダントやブレスレット、指輪など装飾品の形をしているのは、人間たちに『鍵』だという確証を与えないためだ。『鍵』を使ったところで天使以外に扉を開くことはできないため悪用される恐れはないが、念には念をというわけである。


(あのときみたいなことにならないように、ゆっくり進もう)

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