第2話 時ちゃんの事情

秋子サンはガーデンマンションのパート清掃員である。

前職はホテルのいわゆるメイクと言われる客室清掃員であった。

しかし寄る年波には逆らえず60歳を過ぎた頃に辞める機会を伺っていた。

そしてこのコロナである。

全く団体客がいなくなり暇になったのをきっかけに綺麗にスッキリ辞める事にした。

そして今は比較的身体が楽なガーデンマンションで9時から13時まで清掃している。


世の中はまだコロナ禍の真っ只中である。秋子サンも感染は免れたが、この町外れの新しい職場で思いがけずコロナ騒動に巻き込まれた。

その時の会社の対応のお粗末さにアカシア管理会社に対する信頼はゼロになった。

パートのおばちゃんになんて、そんなものかと落ち込んだが住民の皆さんに暖かく励まされて、また家庭の懐事情によりいまだ働き続けている。

コロナはアカシア管理会社よりタチが悪い。

政府が宣言やら、措置やら方策やらを繰り返す度に感染者と重症患者は多少減ったり、どーんと増えたりを繰り返している。 

今はワクチン接種が最後の希望とされているがワクチン争奪戦に負けた日本人はワクチン難民とまで言われていた。

だが目前に迫るオリンピックを前にあれよあれよと言う間にワクチン万歳となり各製薬会社のワクチンにびっくりするほど、どんどん認可が降り短期間で日本国内に大規模接種会場もあちこち設置された。副反応の心配の声は半ば掻き消されひっそり心配するしかなくなってきた。大丈夫か?

ワクチンを接種するのは怖い。がデルタ株とやらも出てきた。しないのももっと怖い。オリンピック開催だって

怖い。まじでやるのか、日本よ。


憂いながらも時間は過ぎていく。

今日は5月最後の日だ。

秋子サンの住む街はまだ寒いながらもリラが満開で風に乗り良い香りがあちこちからやってくる。

この街は秋子サン自慢の花の街だ。


先週末にはマンション周りの花壇にも住民有志と管理員、清掃員の秋子サンも混じって雨降る中を植えた花苗達が寒いだろうに健気に凛として頑張っている。


さてお掃除に出発しよう。

こんなお天気もぱっとしない日はエントランスのガラス扉くらいピカピカに

磨いておかないと住民の気も晴れないに違いない。

それに先週末、小雨の中をマンション花苗隊の有志の方達が長靴で作業しているのでエレベーターホールや玄関前が多少とも泥で汚れているだろう。

本来ならワックスのかかった床を濡れたモップで拭かない方が良いのだが今日は乾拭きのモップの他に濡らして固く絞ったモップも持ち準備満タンやる気もりもりだ。

エントランスのガラス扉は通常の汚れを消毒液と古タオルを利用してざっと磨いていく。一度中性洗剤で汚れをしっかり落とした後はこれで充分ぴかぴかを保てる。

雨の日は湿気でどうやっても筋が残り綺麗な見た目にならないのでガラスに絶対手を出さないのが身のためである。毎日短い時間の中でも掃除のおばちゃんは工夫している。

日本の綺麗は政治家ではなく秋子サン達みたいな綺麗好きの国民が最低時給で頑張って保っていると言っても過言ではないのだ。

せっせとエントランスの清掃をしている所にA棟501号の高田さんがエレベーターで自転車と一緒に降りてきた。

高田さんはお坊さんのように綺麗なつるつる頭だがまだ73歳の元気なご主人である。

いつも自転車でお出かけで秋子サンを見かけると遠くからでも

ご苦労様!と声をかけてくれる。

元気で明るい言葉は魔法のように秋子さんも元気にしてくれる。

高田さん60歳で定年退職した年に奥様を亡くしている。が、秋子さんにしてみたらその年齢で何とびっくり、インターネットゲームのチャットとやらで気の合うご婦人とご縁があり再婚されて幸せな毎日である。奥様は小柄な柔らかい雰囲気の魅力的なご婦人だ。

今時の60代もやるもんだ。素晴らしい。


午後になると今度はB棟801号に住んでいる時子さんとすれちがった。

時子さんはとても話の面白い魅力的な女性で秋子サンと同じ歳なのもあり親しく話すようになった。と言っても掃除の合間のコソコソ話なので、もっと聞きたくても明日のお楽しみとなる事が殆どだけど。

住民の皆さんにも人気があるらしく

親しみを込めて住民の皆さんからも時ちゃんと呼ばれている。

このマンションで働く時に管理会社から過度に住民と親しくならないようにと注意を受けている。

住民はいわばお客様なので特定の人と仲良くならずに公平に、と。なるほどね。

特にここは退職され外出の少ない高齢者が多い。長々と話していれば自然と目につき仕事もせずにお喋りばかりと言われかねないのだ。

だか、いつ頃からか時子さんを親しみを込めて時ちゃんと呼ぶようになってしまった。


時ちゃんはいつも発言が面白すぎる。

そしてお洒落だ。いつ会ってもきちんとマスクの下はお化粧しているし

服もいつも個性的で雑誌の表紙に載るマダムみたいである。経済的に裕福なのが見た目で分かる。で、言う事する事に全く嫌味がない。

その時ちゃん、高校卒業して18歳で結婚したと言うから驚きだ。

本物の幼妻である。古っ!

ご主人は大地主の土建会社の二代目として育ち宅地開発で土地を手放したのも相まって継いだご実家は相当な資産家らしい。

時ちゃんご夫妻は御立派な実家ではなくこのマンションで別居して暮らしていて女、男、女の子の3人の子供がいた。ご主人には姉と妹がいるのだが

これがなかなかの曲者らしく結婚してもなお毎日のように実家に来た。姑小姑、更にその子供達のお世話相手に時ちゃん疲れ果て実家を飛び出して家族でマンション住まいをしているらしい。


そういう時ちゃんも3人子供がいる。子供と言っても一番下の次女が30歳を超えている。その次女が特に可愛いいみたい。手元から遠く離れた千葉で就職、結婚したのもあるのかも知れない。

次女夫婦は2人ともに小学校の教員である。この次女も3人の子供をもうけ仕事や家事育児に大変かも知れないが普通に暮らしていれば収入も充分心配無いと秋子サンは思うが、この娘夫婦、3人の子供を連れて春夏秋冬最低でも年に4回は飛行機で大移動里帰りしてくるのだ。時ちゃんは口を開けばこの次女が苦労が多くて可哀想でと言う。いや、時ちゃん、お嬢さん見るからにお肉たっぷりのお身体にヴィトンのバッグを下げいつも子供達はブランド物のお洒落な子供服だ。

それに比べご主人上はユニクロ下はジャージという格好だよ。優しそうな感じに見えるし、ぱっとみ可哀想には到底思えないぞ。

秋子サンが働き出してから何回この千葉娘家族と会っただろうか。聞かなければ隣町に住んでいると思ってた。

しかも一旦来たら半月はいる気配だ。なんでも関東は暑いから可愛いそうだからだと言う。冬は子供達に雪を見せてやりスキーをさせてやりたいと。このコロナ禍でも大型連休と言う事でまた来てる。

小学校の先生なのにウイルス持って帰り職場で広めたら責任問題なんじゃ。

時ちゃんは大丈夫。学校には内緒だから。って。

ふーん。先生と言ってもそんなもん?

ただこの次女さんも明るくて面白い。時ちゃんに一番感じが似ている。そこだけ見れば小学校の先生って、ピッタリだ。だけどね。


このマンションは広めの3LDKだが普段夫婦2人の所に子供3人大人2人、5人増えるって密になって大変だと思うけど。

時ちゃん、だから何日かは温泉宿を取ってやり追い出して休憩するのだそうだ。そんなにして他の子供達から苦情は来ない?と聞いたら長女夫婦が婿入りした三代目のご主人を留守番させて

意地でも参加するわと笑う。勿論お金は親持ちだ。飛行機代も喜んで出していそうだ。

ちなみに長女夫婦に子供はいない。

長女は次女夫婦の子供を可愛いがっていても、度ある事に時ちゃん夫妻が出費するのを面白く思ってないらしい。その分自分達にもくれとはっきり口にするそうだ。すぐ不公平だと怒るのよねーと嬉しそうだ。お金に困らない人はこれだ。

一方実家を継ぐ事に興味のない長男は普通に銀行に就職して隣町でサラリーマンになった。これまた普通のサラリーマンの家庭に育ったお嬢さんと結婚して2人の男の子がいる。時どき家族で時ちゃんちにやってくるがお嫁さんのきいこさんは感じの良い控え目な人である。きっと時ちゃんに媚びて金銭的に甘えるのは恥ずかしいと思う人だと思う。時ちゃんはきいこさん家族を温泉に誘った事は無いそうだ。

時ちゃん曰く甘えないから可愛いくない、息子が銀行で忙しく夏休みだって取れないのに、嫁と子供を遊ばせる訳にいかないという理由らしい。


おいおい、時ちゃん、それは立派な姑根性だよ。と思うが勿論口には出さない。時ちゃんは自分の子供達には自分の心に曲がってようがくねっていようが正直だ。時ちゃんがどうしようと秋子サンには被害は無いから良いが側から見ても娘と嫁にそんなに扱いに差をつけたら後々大変な事にならないかと余計な心配をする。

がこんな話しはふんふんとうなづいて、へーとかあら、とかに止めるに限る。秋子サンの秤で時ちゃんを諫めでもしたら、そこで時ちゃんの面白話しはもう聞けないに決まってる。

時ちゃんだって秋子サンに意見を聞きたい訳じゃない。ただ聞いて欲しいだけだと思う。その辺は秋子サンも時ちゃんも利口だ。


しかしコロナ禍の過ごし方ひとつにしても千差万別だ。秋子サンはTVで言われている過ごし方を極力守るのが当たり前だと思うが周りの皆がそうではない。時ちゃんの千葉から来る娘家族だって2人して小学校の教員であれば

ウイルスを知らず持ち帰り職場でクラスター発生させたら、と危惧しないのかな。

その行動や発言から改めてその人がどんな人間なのかを知る機会にもなった。勿論どれが良い、悪い、とは言い難い。正解はわからない事が殆どだ。

だいたいにおいて、あの人ならそうだろうなに加えて、えーっ!そんな人だったんだ、というのは出てきた。


コロナの恐怖をよそに今日も北国らしい爽やかな天気だ。

今日も秋子サンの努力によりマンションはピカピカだ。

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