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 さて、本日は二回目の統計学の授業であります。乙女ゲーム内の先生の設定につい表情が固くなる私へ、様子くらい見に行ってやろうか、とセドリック様が声をかけてくれたけれど、カイルとナキアもいるし、対策はばっちりなので心配ご無用だ。

 そう、たとえまったく前知識のない攻略キャラにぐいぐい来られたとしてもね!

「リーゼリット嬢……すごく、待ち遠しかった……」

 今日も今日とて先生のキラキラの余波がすごい。

 すさまじい風圧を感じるけれどだいじょう、これは単なる敬愛だから。

 視覚フィルタをオンして耳としっをつければあら不思議、美青年わんこのできあがりだ。

「私も今日を楽しみにしておりましたわ。本日は調査期間と保清の具体策について確認をしたいと思っておりますの」

「うん、すぐにでも始めようか」

 応接ソファへ促すと、先生は尻尾を大きく振り回……したように見えた。

 頰を染め、どこかはかなげな笑顔を向けるこの方は、実はだいな人物だったりする。

 レスター・フォン・ローバー、現在十八歳。乙女ゲームの攻略キャラ。

 原作小説では主人公とのせっしょくはほとんどなかったが、周辺国の国力を数量的に比較する、いわゆるせい算術を行っていた方だ。

 彼の情報をもとに国が戦争の方策を決めていたはず。

 優秀な方とは思っていたが、まさか将来の国政に関わる人物だとはね。

 そんなじんが今まさに、小娘の脳内でわんこにされちゃっているとは誰も思うまい。

「データ採取六ヶ月のうち、最初のひと月は何も行わない調整期間とし、保清の実施は二ヶ月目からと考えています。この方が検証前後の変化を示しやすいかと思いまして」

「調整期間は可能ならふた月分ほしい。一ヶ月目が必ずしも平均的な数字になるとは言いきれないからね。ただ、調整期間が長くなれば検証結果がそろうのが遅くなってしまう」

 懸念しているのはそこかな、との投げかけに頷きで返す。

 ふた月とれるならそうしたいが、その分実施期間を短くしては意味がないし、いたずらに期間を延ばすのも、この先を思うと……。

「過去のデータをさかのぼることはできるのかな。それなら調整期間はひと月ですむ」

 さかのぼると言っても、はたしてこの世界にカルテの保管義務があるかどうか。

「そのあたりも一度伺ってみます」

 ヘネシー卿に相談する事項が増えるな。

 セドリック様の状況を思うと、すぐのらいは難しいだろう。

 必要事項を確認し、企画書を書き上げ、企画が通り、実際に行動に移れるのはいったいいつになることか。検証結果が出たとして、それが世に認められて現場に導入されるのは。

 勘当騒ぎさえなければ、あの不用意な言葉さえなければとは思うが、今さらどうなるものでもない。

 メモを取っていた私の髪がはらりと下りたのを、先生がすくい取って耳にかけてくれた。

「何か、あせってる……?」

 心配をかけてしまったのだろう、覗き込むその瞳にはいたわるような色が乗っている。

「やりたいことが、多すぎるのですわ」

「大丈夫、僕がいるよ」

 真摯なその声はとても小さい。耳を澄まさなければ聞きのがしてしまうような。

 それでも、先生の言葉は本当に頼もしく心に響いた。

 じんとみ入り俯いてしまった私の頭を、おずおずとだが優しく撫でてくれる。

 うう、泣いてしまいそうだ。

 しばらくされるがままになっていたのだが、額にそっと掌以外のかんしょくがして顔を上げた。

 先生の顔がありえないほど近くて、思わず後ろに飛びすさる。

「……っ??」

 驚きすぎて涙も引っ込んだわ。

「……あの、先生……?」

 今、何をなさいました?

 いや、ナキアとカイルのきょうがくぶりを見れば聞かずとも察することは可能か。

 おそらくはくちびるが触れたであろう額から、じわりじわりと熱が広がっていく。

「えっと、ごめん。なんだろ……その、なぐさめたかったん、だけど……」

「は、はあ……」

 しどろもどろな先生の顔も赤く、ついには二人で黙り込んでしまった。

「…………………………」

「……、…………っ、…………」

 時計の針の音だけがみょうに響くこの空間。

 ……じょには無理、えられない……っ!


「私が間違っておりましたわ、どうか助けてくださいませ……!」

「………まあ、そんなことだろうとは思ったがな」

 その姿を見るなりテーブルに突っ伏した私を、冷ややかな目が迎える。

 私を見下ろしているのはセドリック様ではない。

 セドリック様に助けをおうと部屋を出て、待ち構えていた従僕フットマンについていった先で、なんとギルベルト殿下が優雅にお茶をかたむけていたのだ。

「合わない相手に学び続ける必要があるのか」

 ……はあ? ……何言ってくれちゃってんの?

 言葉にせずとも、院生時代にめまくったしんさん表情かおに表れていたのだろう。

 悪かったもう言わないと告げる殿下はずいぶんと引いた表情をしていた。

「自由にしろとは言ったが、何事もほどほどにするんだな。ロータスはくしゃくから嘆きの声が届いている」

「そうは言っても、この国とあなたを守るためですもの」

 ぐ、ごふっ、ごほごほ。

 おお、王子ともなるとむせ方も上品になるらしい。

「まったく関係性が、見いだせないんだが。そもそも、なぜ『国』と『俺』なんだ」

 むせた加減か照れているのか、口元をかくしながら憮然と呟く、その頰はじんわりと赤い。

「なぜって、私は今、殿下の婚約者でしょう」

 原作小説とは開始時の状況が異なってはいるが、医療系の試練がなくなるわけではない。

 ギルベルト殿下の婚約者となることをせんたくしたからには、殿下の負傷や国へのがいはもれなく訪れると思って、早めに対策しておいた方がいい。

 対策といってもやれることは限られているし、めざす人物は医師でなく看護師だけど。

 ごくまじめに答えたというのに、殿下はどこか不満げだ。

「自覚があるのはいいことだが。……おまえの夢はそれか?」

 まだ頰に赤みの残る殿下に問われ、かのお方がボンと出てきて思わずうなってしまう。

「まあ……そういうことになりますわね……」

 本来なら、かのお方ナイチンゲールをめざすこと自体おこがましいというか、レベルが違いすぎてずかしいくらいなのだけれど。

 なんとも歯切れの悪い私に殿下はため息をつき、組んでいた足をほどいて立ち上がった。

「乗りかかった船か。おい、まだ授業中なんだろう。俺を連れていけ」


「この資料では、保清の実施ひんは週一回となっているが、何か理由があるのか?」

「たとえ良い結果が得られたとしても、高頻度では現場の導入は困難となるでしょう。効果が見込め、かつ手をばしやすい頻度としましたの」

 可能ならもう少しひんかいに行いたいが、この世界の常識から考えればこのくらいが妥当だろうしね。まずは清潔の必要性の概念が定着することをメインの目標に据えたい。

「ふむ。その保清とやらは、全部おまえ一人で行うつもりか」

「いいえ。病院側からすれば通常業務にプラスする形になりますから、伯爵家でスタッフをやとう予定です。ボランティアの修道士に依頼することも考えましたが、短期で変則的とはいえ働き口を増やせるならそれにこしたことはないかと。調整期間中に実施方法を指導し、手順の統一化をはかりますわ」

「令嬢にあるまじき現場主義だな。どんな生き方をすればこう育つ」

「……恐れ入ります」

 ふいに逸れた殿下の視線を追って顔を上げてみるが、向かいのソファに座る先生はいまだ固まったままだ。

 部屋に戻った私を一目見るなり、真っ赤な顔で俯いてしまって。

 以来一言も発せず、あんなにうるさいほどだった視線は一度も合わない。

「だそうだが、殿でんから何か意見はないのか?」

 たまりかねた殿下が資料を見つつ声をかけてくれたのだが──

「……とても、良いと……思います…………」

 の鳴くような声が聞こえたかと思うと、またしんと静まり返ってしまった。

「イエスマンなだけの教師が、おまえの好みか?」

「まさか。ついさきほどまで的確なご意見をいただいておりましたわ」

 先生の様子がおかしいのは、さっきのデコチューが原因だろう。

 ただ、ちょいと長すぎないか。まあ、こっちも殿下のおかげで落ち着いたようなものだから、人のことは言えないのだけれど。

 もし二人きりならずっとこの調子だったのかと思うと……。

 お、恐ろしすぎでしょ……私じゃ日が暮れる時間になっても何もできないってば。

「……、すみません……大丈夫と、言っておきながら……僕にも、なんで、こんな……」

 先生も現状に動揺しているのだろう、苦しげに寄せられた眉根が心情を物語っている。

 手のこうで目元をおおい、細く長くき出した息も震えがちだ。

「先生、どうかお気になさらないで」

 声をかけた私を指の間から見やるなり、湯気でも出ているんじゃないかってくらいにで上がってしまった。

 たとえぐいぐい来なくても、私にはこの状態の先生をどうしたらいいのかわからない。

 ふがいない私を許してくれ……。

「あの、…………今日は……出直して、きます……」

 先生のおぼつかない足取りに、見送りに立とうとしたところで腕を引かれる。

 殿下は首を横に振るだけだったが、ついていかない方がいいということだろう。

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