2-3


「よし、これでいいわね。ヘネシー卿のお屋敷に届けてちょうだい」

 まだインクのにおいのする便びんせんを確かめ、真っ白なふうとうふうろうをしてナキアへと渡す。

 本日届いたばかりのお手紙には、めいわくをかけてしまったことへの謝罪と、勘当の件は息子の意思を尊重すること、しばらくの間息子をお願いしたいというむねが書かれていた。

 文面から察するに、いっぱくおいて冷静になられたか、私への無体云々の誤解は解けたようだけれど、いかんせん、こうなった原因の本質はセドリック様側にありそうだもんなあ。

 あのかたくなさだと、一筋縄ではいかないだろう。

 セドリック様がたいざいして早三日。

 その間、語学を教わっているが、さすがはあのヘネシー卿のご子息と言うべきか。

 主要な言語はすべからく頭の中に入っているようで、まさに生き字引と化している。

 現在この国で医学の基礎となっているのはユナニ医学というものらしいが、それが記されているアラビア語と思わしき言語はまったく解読の余地がないのだ。

 それにラテン語、ヒンディー語かな。私には入門書を開いただけでの境地に入れる。

 環境なのか素養なのかは知らないが、この言語量をマスターするって相当だぞ。

 同い年でこの語学力はやばいし、これでなぜあんなにくつなのかなぞでしかない。

 父親が優秀すぎて比べられてしまうのかしら。二世の宿命というやつか……大変だな。

「ちょっと。聞く気がないなら、もう僕部屋に戻るけど」

「えっ、まさかそんな。この単語には複数の意味があるから注意、でしたよね?」

 ちゃんと聞いていましたよ、と慌てて笑顔で返すと、短いため息が返ってきた。

「……次ぼんやりしてたら二度と教えないからね」

 セドリック様は眼鏡のふちをくいと持ち上げ、入門書のページをめくる。

 この数日でわかったこと、その二。

 はなすような言い方をするけれど、その実とてもめんどう見がいいのだ。

 一時間ほど頭をこく使した後は、お茶とおで至福のひと時に興じる。

 おいしい……つかれた頭とこわばった体にお茶がみるわ……。

「統計には明るいらしいのに、こっちはずいぶん苦労してるよね」

「まったく未知の領域なんですもの。まあ、これほど難しいとは思わなかったわ」

 言葉のかべもそうだが、ユナニ医学が前世の医療知識とかけ離れすぎているのだ。

 でもまったくの別物というわけでもないのがやりにくさにはくしゃをかけている。

「……医者をめざすなら必須事項なんだけど」

「あら、私は医者になるつもりはないわよ」

「めざしているんじゃないの?」

「医者を志す者が、あの草案を作ると思う? ヘネシー卿も気づいていらしたわ」

「…………へえ、そう……」

 や、やってしまったー……っ!

 ヘネシー卿の名前を出してしまったせいだろう、部屋の空気がどんよりと暗くなる。

 勘当を言い渡されたこの状況で明るくいられる人なんてそうはいない。

 無理に聞き出さないといった手前、私かられることはできないし。もどかしい……。

 ええい、家の中でうじうじ考えていたって仕方ないわ。天気もいいし、こんな日は。

「外に行きましょう!」

「勝手に行ってくれば」


 家の者に簡単なお弁当を用意してもらって、木製のテニスラケット片手に訪れたのは、屋敷からほど近い場所にある大きな公園だ。

 領地にある本宅とは違い、タウンハウス──王都にあるべっそうのようなもの──の庭では満足に走れないと来てみたのだけれど、けっこうにぎわっているのね。

 ちょっとした大道芸も見られるようだし、小さな屋台なんかも出ている。かれるものを感じながらもしばのコートを見つけた私は、さっそくテニスを楽しむことにした。

「さあ、行きますわよっ!」

「…………いや、意味がわからないんだけど」

 じゃっかん引き気味のセドリック様をよそに、元気よくジャンプサーブをり出す。

 一度バウンドしたボールはセドリック様の真横をすり抜け、後ろにいたナキアのところまですっ飛んでいった。

 ちなみに、私の後ろにはカイルが控えているため、どんな返球が来ようと対応可能だ。

「セドリック様、動かないとテニスになりませんわよ?」

 ナキアからのゆるい返球を受けている間に、次弾を待つはずのセドリック様がこちらにずんずん近づいてくる。

 今動く必要はないのだが。

「ちょっと君、僕を殺す気なの」

「まあ。そんなつもりは毛頭ございませんわ」

 お怒りのご様子っぽいのだが、思い当たる節はない。

「テニスって、もっとこう、ゆうにするものなんじゃないの」

 見てみなよ、とラケットで示された向こうには、ラケット片手にキャッキャうふふしている男女がいた。もはや違うスポーツだ。

「あれがテニス? そうとは知らず……うちの領地ではこうでしたもので」

「……君のところは前衛的すぎるよ」

 セドリック様は大きなため息をついた後、項垂れた首を戻した。

「テニスをするつもりならあれで。それ以外は認めないから。あとそのしゃべり方、とりはだが立ちそうだからだんどおりに戻してくれる?」

 半眼でそう言い放つと、元の場所へと戻っていった。

 鳥肌とな……。そりゃあ、私だって気にせずしゃべりたいけれど、誰がいるともしれない外で素をさらすわけにはいけないのよ。

 それでも、やめたもう帰ると言わずにつきあってくれるのがにくめないところか。

 今度は大きく山なりのボールを放ち、また山なりのボールを受ける。

 キャッキャうふふとはならないが、まあ形にはなっている。

 たまに来る意地の悪い返球につい本気打ちしそうになりながらも、示されるラケットにハッとなってしぶしぶ山なりに返す。

 そんな、なんとも言えない時間を過ごしたのだった。


「とてもつまらないわ」

 ひとしきりラケットを振り回し、かげきゅうけいを取っているのだが、テニスしたって気がしない。

「君にはそうだろうね」

 芝生へと足を投げ出すセドリック様の表情は、心なしかやわらいでいるように見える。

「セドリック様はいかがでしたか?」

「……まあ、ちょっとは気晴らしになったんじゃないの。君のその、せないって様子がおかしくて」

「…………意地が悪いわ」

 こちらはかんぜんねんしょうだっていうのに。

 後でカイルとテニスし直そうかしらと思いながらサンドイッチをほおばっていると、目の前で小さな子が頭からすっころんだ。

 体を起こして服のよごれをはらうと、膝をりむいたらしく血が滲んでいる。

「まあ。びっくりしたわね。泣かないの? えらいわね」

 傷口を洗えそうな水場を探すが、近くには見当たりそうにない。

 どうしたものかと考えていると、慌てて駆け寄ってきた母親の方へと元気にすっ飛んで行った。あの分なら大事ないだろう。

 親子を見送り木陰へと戻ると、今度はセドリック様がひどい顔色をしてうつむいている。

 な、何事?! さっきまではなんともなかったよね?

 私も同じものを食べたし、何かにあたったというわけでもないと思うけれど……。

「少しはしゃぎすぎたのかしら。ひどい顔色ですよ、横になられませ」

「いらない……放っておいてよ」

 つっけんどんなのはいつも通りだけれど、声に張りがなくなっている。

 このまま引きずって帰ってもいいのだが、それで悪化させてしまうのもしのびないし。

「カイルにおひめさまっこされて帰るのと私のひざまくら、どちらを選ばれます?」

 にっこり笑って提案すると、セドリック様はじゅうに満ちた顔で横たわった。

 すぐにそっぽを向いてしまったが、髪の間からはほんのりと赤くなった耳が覗く。

 なんと、セドリック様も思春期の男の子だったか。

「帰ったら、……もう一時間だけ授業してあげるよ」

「まあ、それはありがたいわ。しっかり良くなってもらわないとね」

 よーしよしよしと頭をでてみたら、調子に乗らないでと手をはたかれてしまった。


 そんなわけで、顔色の落ち着いたセドリック様とともに屋敷に戻った後、再度入門書とかくとうすることとなった……のだが。

「……っ、あー……」

 指の先から滲んだ血が、つぷりと玉になる。紙の端で指を切ってしまったのだ。

 これ、傷は小さいのにけっこう痛いのよね。

 ナキアが手渡してくれたれを傷に当て、ふうと小さなため息をつく。

 この世界にはばんそうこうもないようだし、右手の人差し指じゃ何をするにも不便だわ。

 注意さんまんなんじゃない、とここぞとばかりに皮肉が飛んでくるんだろうなあとかくしていたのに、かたわらのセドリック様は思いのほか静かだ。

 めずらしいこともあるもんだと視線を向けると、ひどく青い顔をしている。

 ……なるほどなあ。現状と、さっきの公園での状況。いっするものは一つだ。

「あなた、血が苦手なんでしょう。こんなに優秀なのに、いつもぎゃくてきな理由はこれ?」

 無言でにらみ返してくるその目はするどく、こうていしているに等しい。

「なんてもったいない。あなたね、医者という職業がヘネシー卿の行っている形のみだと思っているの?」

 せんさくはしないとは言った。でも、だまっているとは言っていない。

 こんな理由で才能溢れる若者をくすぶらせるのも、親から必要とされていないと誤解したままなのも見過ごせるもんか。

「あれだけ各国の本を読むことができていながら、気づいていなかったとは言わせないわ。どの著者も一つ二つと分野をしぼって書かれているでしょう。それは、その方がより深い知見を得られるからよ。血を見ない医者なんていくらでもいるわ」

 この世界で医師めんきょを得るためにどんな試練があるかはわからない。

 それでも、資格さえ得てしまえばこっちのものだ。

 薬理学、生化学、せいぶつ学など、基礎医学にあたる分野につけば、目の前の患者を治療することはなくとも、目には映らない、より多くの人間の命を助けることができる。

「ヘネシー卿のような総合診療が行える医者も必要よ。でもそれが叶わないというのなら、その背中を追う必要なんてない。あなたは、国内初の専門医になりなさい」

 言いたいことを言いきったと、鼻息あらおうちする。鼻先にびしりと突き出したその指から、つうと血が垂れた拍子にセドリック様は倒れてしまったのだった。

 日頃のうらみだとか、決してそんなことは、……絶対にないですからね?


 その後セドリック様が語った話によると、昔見学した手術中に倒れ、それ以降血がだめになってしまったらしい。

 えーっと……十四歳の言う昔って何歳だ。大人でも見学中倒れる人もいるっていうのに。

 学ぶのに遅いも早いもないとはヘネシー卿の言だけど、さすがに無茶しすぎでしょう。

「以前は熱心に教えてくださったのに、倒れてから父様は何も言わなくなってしまった。手術中にそっとうするようでは医者に向かないと、呆れられてしまったんだと思う」

 あおけで目元にハンカチを置いたまま、セドリック様がとつとつと語る。

 いつもよりいくぶんか弱々しく感じるのは、布を一枚へだてているせいか。

 過度な期待を寄せられるのはつらいが、まったく気にかけられないのもこたえるものがある。

 特にこの時期の親からの関心というのは、子どもに多大な影響を与えうるのだ。

 そこに私がひょっこり現れたわけだもんなあ。

 その上、目の前で手術見学を自分から申し出れば、そりゃあてつけか、代わりの子どもを探してきたかとじゃすいもするよね。

「……私の存在はさぞ疎ましかったでしょう」

「まあね」

 言いよどみもせず、ずばっと答えるところはさすがですな、セドリック様よ。

 なんとも言いがたいものを感じていると、小さなきぬれの音が耳に届いた。

「……ねえ、君が医学の知識をつけようとしている理由は何? 医者になりたいわけでもないのに、必死になって学ぶのは」

 ハンカチを持ち上げこちらを見やるセドリック様の瞳は、いだ海のように静かだ。

 眼鏡を外したその目にはぼんやりとしたりんかくしか映っていないのかもしれない。

 すべてを打ち明けるわけにはいかないが、それでも、ごまかしたりうそをついたりはしたくなかった。

「穏やかな日常がずっと続くとは限らないでしょう? 私にできることは何か、さくしているのですわ」

 まっすぐ見返し答えた私を、その回答を、セドリック様はどうとっただろう。

「…………そう」

 セドリック様は一言だけ呟いて、再びハンカチを落とす。

 引き結ばれた口元は何も読み取らせてはくれないのだった。


◆◇◆


「あのバカ……っ」

 俺は報告書に目を通すなり、怒りのあまりぐしゃりと握りつぶした。

 紙面には、血のつながりのない同い年の令息を宿しゅくはくさせている上、公園で仲良くテニスに興じていたとある。あまつさえ膝枕姿を何人にももくげきされているというではないか。

 衆目の中、兄を助けるためにと何度も口づけするような令嬢なのだ。

 普通ではないと重々承知してはいたが、ここまでとは。

 めまいすら覚えて頭を抱える。どうしてこうもうまくいかないのか。

 国の平定のために俺をとして利用せよと、以前から陛下と兄には伝えてあるのだ。

 俺に近づく者や、俺が意図して近づく者に留意し、危険分子をあぶり出せと。

 ──傍に置けば必ず意識してリーゼリット嬢を見るだろう。黙っていようが、そう遠くないうちにあの日の恩人だと気づく。俺はそれまで、王太子としての適性を見つつ、あの無防備で無自覚な令嬢が他の男の手に渡らないようにけん制すればいい──

 そう考え、兄の前から姿をくらまそうとするリーゼリット嬢へ婚約を取りつけたのだが、今のところ少しも奏功したとは言えない。

 兄の記憶が戻る気配はなく、エレノア嬢をあの日の恩人だと疑ってもおらず、リーゼリット嬢にいたっては新作のしゅうぶんろうし続けているからな。

 なんとか印象を良くしようと働きかけてはいるが、当人たちが会う機会がないのではばんかいのしようもない。このままでは恩人と気づかせるどころか、要注意人物だと誤解されてもおかしくないというのに……よりにもよって膝枕、だと……?

 花畑でのんきに男とたわむれるリーゼリット嬢が頭にかび、再び腹の奥が煮える。

 あのふざけた令嬢には釘を刺しておこう。その滞在中の令息を早めにどうにかせねばな。

 おかしなうわさが立つ前に、貴族たちには殿でんからそれとなくフォローを入れてもらうとして、まずは兄にこの情報が渡らないよう、じゅうに手回しを──

 ノックの音に振り返ると、部屋の戸口に兄が立っていた。


「一度、リーゼリット嬢と話をしたいのだけれど」

 招き入れるなり切り出された内容と硬い口調で、兄の意図を知る。

 記憶が戻っていれば、もっと違った反応になるだろうからな。

「……どうやら勉学に忙しいらしく」

「他の令息と会うためでなく?」

 やはりな。しかも、すでに聞き及んでいるか。

 思わずまゆを寄せてしまうと、しょうがないといった風に兄の口からため息が漏れた。

「安心していいよ、何も頭ごなしに反対しようとしているわけではないんだ。ロータス家にしんな点は認められなかった。となれば、『あぶり出し』の意図ではないのだろう? ギルベルトが初めて自分の意志でほっしたのだからね。むしろおうえんしているくらいなんだよ。……ただ、そうだね。リーゼリット嬢には少し行動を改めてもらえたらと」

 これは、要注意人物だと誤解されなかったことにあんすべきなのか。

 こんな調子では、いつまでたっても本当のことなど明かせやしない。

 まずは兄のリーゼリット嬢への印象を変えなければ。

 だが登城させようにも、リーゼリット嬢の意思に任せていたら機会など訪れないだろう。

 いておいた種が芽を出すのを待って、陛下のこうたよるのがとうなところか。

「陛下から、近く登城の達しが届くでしょう。兄様とも会えるよう取り計らいます」

「それは父に直接頼んだわけではないのだろう? ……また何か画策を? 優秀なのはいいことだが、ギルベルトはいつも自分をないがしろにしがちだ」

 俺のことが心配だと、俺の頭を撫でる。

 かつてゆいいつのぬくもりだった、兄の優しいてのひらが。

「いまだに食事も一人でとろうとするし、たみの誤解を解くことすら避けているだろう。僕は、ずっとこのままでいいとは思っていないよ。たった一人の弟なんだ、ギルベルトには誰よりも幸せになってほしい」

 深いいつくしみと大きな度量。真摯な言葉は決して口先だけのものではない。

 誰もがこの人のためにじんりょくしたいと思わせる、王としての資質。

 俺のこの身はすべからく、この兄に報いるためにあるのだ。

 兄の言葉に応とも否とも返すことはせず、ほこらしい想いで静かに目をせる。

 その俺の様子を、兄が痛ましげに捉えているとも知らずに。

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