2-2
翌日、なぜかうっすらと
向かう先は王都の東側に位置するヘネシー
ヘネシー卿とは、以前お父様に告げた医学のあて。誰あろう、自国医療の第一人者だ。
この国の医療水準を確かめようと王立図書館を
将来を
ものすごい幸運。
しかも
末永くおつきあいいただけるよう、印象を良くしておかねばね!
名家の令嬢よろしく、カイルに手を取られてしずしずと馬車から降りた私を、ヘネシー卿はご家族総出で迎えてくださった。
「このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
「ようこそおいでくださいました。妻のアイーダと
「主人からお話を伺い、楽しみにしておりましたの。どうぞおくつろぎくださいね」
「どうも」
同い年だというご子息は、柔らかそうなブルネットの髪に、眼鏡の奥には
ヘネシー卿はやはり
印象良くするぞと心中で唱えて笑顔を向けると、ふいと視線を逸らされる。
うーん、ちょっとばかり、
「さて、何からお話ししましょうか。将来を見据えた医学の勉強をなさっているとのことでしたが、気になっていることがありましたら先にお聞かせください」
カイルを
その背後の
背表紙をざっと見る限り、ここでもやはり異国の書物がほとんどを
母国語で書かれた医学書はこのヘネシー卿の著書が多く、あとは
比較的近年発行された異国の書物が多いことから他国の医療を積極的に吸収する風土が見て取れたが、翻訳には時間がかかるため、原著を読めなければ話にならないのだ。
「ありがとうございます。多々ございますが、まずは薬学と医学ではどちらの国の医療を多く取り入れているのかお聞きしたいですわ。最新の医療を正しく把握できるよう、語学の勉強を同時に進めたいと考えておりますの」
私の言葉にヘネシー卿は満足げに
「
ヘネシー卿
辞書らしき読本をぱらぱらと拝見したが、残念ながらすぐにマスターできるような
また、内科や
検査技師などの専門職もなく、病院に勤務するのは医師・事務員・看護師、それに修道士だという。修道士が
専門職も専門診療科もないなら、この国の医療水準は
「手術後の経過はいかがでしょうか。たとえば、死亡率などは」
「そうですね。術式にもよりますが、
よ、よ、よんじゅう…………。想像をはるかに
前世でその周術期死亡率を
患者だって
早めに手術室の環境や
「遠くからでもけっこうですので、手術の見学をさせていただくことは可能でしょうか」
私の言葉にヘネシー卿は目をしばたき、まなじりを下げた。
「もちろんですよ。お望みとあらば、見学の手配をしましょう」
あっさり許可が出たことに驚いていると、ヘネシー夫人が小さく
医学生でもない会ったばかりの令嬢がするには、やはり無茶なお願いだったか。
「アイーダ。学びの場に早いも
委縮しそうになっていた私の想いを
ヘネシー卿、人ができすぎている……っ!!
「他にご要望はございませんか?」
再びの促しに、手元へと視線を落とす。実は、効果実証の草案を持ってきているのだ。
この草案を読めば、私の興味が看護師や修道士に向いているとわかってしまうだろう。
これほどヘネシー卿が親切なのも、私が医師を志していると思っているためだとしたら気を悪くされてしまうかもしれない。
とはいえヘネシー卿以外につてなどないし、協力を
内心ドキドキしつつ、草案をヘネシー卿にお
「これはおもしろい。全部リーゼリット嬢が?」
「統計手法については先生をつけていただいております」
「ふむ。……あなたの年齢で衛生学にも造詣が深いとは驚きましたな」
どこか残念そうに微笑んでいることからも、私が
「もしよろしければ、対象病院の選定にご助力いただきたいのです」
「同程度の規模の病院ですな。リストアップしておきましょう」
どっしり構えて大きく頷く様が本当に頼もしい。なんていい方にお会いできたんだ……。
「セドリック。どうだ、たいへんに
「……はい」
ヘネシー卿の言葉に、その存在を忘れていたことに気づく。
夫人は時折
少しくらい話をふるべきだったか……気がきかなくて申し訳ない。
「我が家は医学に通じた
今さらながら愛想をふりまいてみたが、セドリック様は口元をわずかに上げるだけだ。
お、おう……目が笑っていない。
「さて、私はそろそろ失礼します。少し仕事を残しておりまして。お招きしたというのにあまり時間が取れず申し訳ないですが、どうぞゆっくりしていってください」
「十分ですわ。貴重な時間をありがとうございました」
慌てて立ち上がりお礼を言うと、ヘネシー卿も腰を上げ、柔らかく微笑む。
「セドリック、おまえに
ご子息にも穏やかに声をかけられ、執務室へと退室されたのだった。
セドリック様の部屋に案内された私は、おしゃべりに興じる……なんてこともなく、並んでソファに腰かけたまま、ひたすら教材とにらめっこしていた。
さきほどの様子では打ち解けるには時間がかかりそうだし、話題なんて何も思いつかないし、時間は有限なのだ。
次はいつおじゃまできるかもわからないのだから、今はただただ集中したい。
こういうところが私の良くない部分なんだろうけれど、
三十分ほどたった頃だろうか。
「……もう何度も読んで覚えてるから」
「まあ、さすがヘネシー卿のご子息ですのね」
「はっ、……君、父様から聞いてないの? 俺が
この様子だと、どこかで父親の言葉を聞いてしまったのだろうか。
安易な否定はこの場合、逆効果になりかねないな。
「たいていの親は謙遜をするものですわ。私もお父様から何と言われているか
なるべく穏やかに返してはみたが、セドリック様の表情は硬いままだ。
「僕に君のような知性も熱意もないってことくらいわかるよ。……君みたいな子をよこして、あてつけのつもりなのかな」
「本の内容を暗記できるほど熟読するには、知性や熱意がなければ叶いませんわ。ヘネシー卿が私にお声をかけてくださったのも、セドリック様のよい復習になると考えてのことでしょう」
不信感や
思いっきり
この状態で私が何か言ったところで響くものはないだろうけれど、少しでも心が軽くなるのなら。そう思い、言葉を重ねる。
「もし本当にヘネシー卿がセドリック様のおっしゃるように捉えておいででしたら、こうして私に
「君に、何がわかる!」
ぐっと
とっさのことにバランスを
驚き仰ぎ見たセドリック様の顔は、
胸倉を摑んだままの指は白み、小刻みに震えている。
ああ……必死になって
よく知りもせずに言葉を
セドリック様が私の
「ッ、セドリック……! なんてことを……」
今の私たちの光景が他者からどう見えるのか、よく考えるべきだったのだ。
「セドリック! おまえは、なんてことをしたのかわかっているのか!」
セドリック様は
「あ、あの……」
「ああリーゼリット嬢、私がお招きしたばかりに……まさか息子が、このような、っ」
夫人は泣き崩れているし、ヘネシー卿も涙を滲ませ言葉を詰まらせているのだが……残念ながら私だけ置いてきぼりをくっている。
いったいなんでこんな大事に? 胸倉摑まれただけだよ?
頭にはてなマークを飛ばしながらおろおろしている私の前に、ヘネシー卿が
「リーゼリット嬢はまだお若いのでご存じないと思いますが、このことが
ん? これってまさか……殴るとかじゃない方の意味で
「ち、
自分で胸元を摑み再現しながら同意を求めて振り返るが、当のセドリック様はふいと視線を逸らせやがるではないか。
何無視してくれてんだ、このバカ息子ぉ……っ!
変に意地張るのは勝手だけどね、それだと私の傷物
「……おまえはもう私の息子とは思わない。この家から出ていきなさい」
「えっ!」
ううう、うそでしょ?!
でもこの場で驚いているのは私だけで、言われた当の本人は何の
ちょっ、おいおいおいおい、なんでそこだけ
わ、私のせいで
「お待ちください、本当に誤解なんです! どうか落ち着いて話し合いましょう!」
「リーゼリット嬢、あれに情けをかけることはおやめください。もう、私共に話し合う気など……っ」
……だめだ、これ以上話していてもらちが明かない。
ひとまず今日はお
車窓から街中に目を走らせていると、その背中はすぐに見つかった。
「なんで訂正しないの! 勘当を言い渡されたのよ?」
駆け寄る私には
また無視かこの
「もともと父様も見切りをつけたがってたし、いい口実ができてよかったんじゃない?」
ぱあんと大きな音を立て、両手でセドリック様の頰を摑むと、痛みのためだろう小さな声が上がる。少しは生気の戻った目を真正面からねめつけ、腹の底からどすをきかす。
「今からうちに来なさい。いいわね」
屋敷に着いた私は、とりあえずお茶でも飲んでなさい、と言い置いてセドリック様をナキアに任せ、お父様の執務室へ向かった。
事の
人様のお家事情をかき乱すなんておまえって子は、とずいぶん
うちのバカ
ちょっと……いや、かなり切ないけれど。
お父様からヘネシー卿へお手紙も書いていただけることになったし、ひとまずは安心か。
悲しいかな、こういうことは子どもが
なんて日だとばかりにソファに身を
「君だって巻き込まれたようなものだろ。怒らないの」
「まあ怒ってはいるわね。お
「別に何も」
……ちょっとくらいは優しく話を聞いたげようと思ったのに、これだよ。
「しゃべりたくないなら、何も聞かないであげる。その代わり、あなたは明日私と図書館に行くのよ。今日借りられなかった分の本を借りに行くわ。語学は
腰に手を当て、びしっと指をさした私に、君の素はそれか、と
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