二章 夜告鳥(ナイチンゲール)をめざすにあたり

2-1

 

 バーンととびらを開け放ち、ヒールを鳴らしてしつしつへと上がり込む。

 お父様とベルリッツがおどろいた顔をしているけれど、知ったこっちゃないわ。

「お父様! 私に統計学の家庭教師をつけてくださいませ。ああ、医学についてはあてがございますからご安心を。それからこちらを」

 わきかかえていた紙束を執務机にどさりと乗せると、口ひげをたたえたお父様はただただ目を丸くした。

「おまえは何を考えているんだ? 第二王子のこんやくしゃになったばかりだろうに」

「まあお父様、よくご覧になって?」

 指し示す先には、それはもう達筆な殿でんのサインがしたためられている。

「ギルベルト殿下ごすいせんかくしょですわ」

 このたびお父様に提示したのは、その名も『衛生環境の改善による効果実証』の草案だ。

 要するに、かのお方にならったばんと人脈、資金作りを始めようってわけ。

 かのお方は、統計を使して野戦病院のりょう改革をげ、当時うとまれる職業だった看護師へのにんしきくつがえし、看護教育のばんを整えた立役者だ。

 ゆうふくな家の出であり、ポケットマネーで野戦病院に不足物資を届けたという美談もあるが、病院や学校の設立など事業すべてを自身でまかなえたわけではない。

 生家に軍上層部へのつてがあったわけでも、医学にぞうけいが深い家柄でもなかった。

 医療改革に統計学という手法をとったのは、効果を立証して有用性を知らしめることに加えて、実績をあげ協力者を広くつのることができ、資金も調達できるというさんびょうそろった最も効率の良い方法だったからだろう。

 習った当時はピンとこなかったけれど、その立場になってみるとよくわかる。

 医学のけんでもない家のれいじょうにできることなど、たかが知れているのだ。

 今の私がかつての医療知識をもとに、いい方法がありますよとピョンピョン飛びねてみたところで、だれいてはくれない。その有用性を示さないままではね。

 そんなわけで作成した企画書なのだけれど、立証方法はこれからめていくとしても、私のさんと資金えんじょの許可をもらわなければ話にならない。

 使えるものは何でも使う。たとえ無理やりごうだつした殿下のサインだろうと。

「殿下との明るい未来のためにも必要なものですの。しょうさいを煮詰め、正式な企画書は追って提出いたしますわ。……お父様、許可をいただけますよね?」

 そうして私は借金の取り立て屋よろしく机に身を乗り上げ、にっこりと微笑ほほえんだのだった。


「リーゼリット様、今日はまたとびきり生き生きしていらっしゃいますね」

 それもそのはず。なんと早くもお父様から効果実証の許可を取りつけることに成功したのだ。そして今日はさっそく統計学の教師をお招きするとくれば、心もはずむというものだ。

「お茶の用意はぬかりない? ドレスはこれで派手すぎないかしら、っとと」

 つんのめったところをカイルに支えられる。もうこれで何度目になるのか。

「ありがとう、カイル」

「かまいません。色味が落ち着いていて場にふさわしいよそおいかと」

 さっきからソワソワしてしまってこんなありさまだが、どうか大目に見てほしい。

 なにせ、先生は学園の上級院を首席で卒業されたたいへんゆうしゅうな方らしいのだ。

 ちょっとちからわざだが、さっそく効果実証に用いる統計手法をかくにんする予定だ。

 少しでも早く効果実証に着手するため、からの学び直しにかける時間はないってのと、それに応えられない先生なら時間のだしいらないからね。

 ああ、いったいどんな方がお見えになるのかしら!

「レスター・フォン・ローバーです」

 よろしく、とぼそぼそあいさつをした先生は、くろかみにアーモンド色の目をした若人わこうどだった。

 そう、若い。上級院を出たばかりなのか、おそらく十八歳くらいだろう。

 どこかうれいを帯びたような表情で、挨拶の場だというのに視線は合わず、学習室への道すがら何度か転びかけては無言をつらぬいている。

 きんちょうしているためかもしれないが、人慣れしていない様子からも、教師としての技量にやや不安を感じてしまう。

 ……さて、能力のほどはいかほどか。

「さっそくですが、先生に見ていただきたいものがありますの。こちらですわ」

 簡単に挨拶をすませた後、席に着くなり草案を取り出した。

 第一だんの題材はせい──いわゆるせいしきとシーツこうかんとしている。

 一定期間保清を行ったびょうとうと、そうでない病棟の入院かんじゃの変化を見るというものだ。

 というのも、この世界は衛生じょうきょうにやや難ありでね。

 使用人を抱える裕福な家でもなければ、せっけんで体を洗うのは週に一度がせいぜいらしく、ごろらしたスポンジでぬぐうだけですませているというのだ。

 病院でいだあのムッとするにおいを思うと、満足に動けない病人はそれすらもままならないのだろう。日本と気候が異なるとはいえ、この状態で療養にいいはずがない。

 レスター先生は草案に目を通すと、独り言のようにぶつぶつつぶやきだした。

 必死で耳をますと、どうやら調査対象の選び方について論じているようだった。

『同規模の病院の中からランダムで選んだ病棟二つに対して保清を行う』との記述が引っかかっているらしい。なんでそこに注目するんだ。

「すべての病院で同一の調査を行えば、ばくだいな予算と人員、年数を必要としますわ。かといって的に選んだ病棟で行えば、結果のかたよりを生じます。この方法であれば短期間でじっ可能な上、しんらいせいのある結果が得られるかと」

「なるほど……言われてみればその通りだ。なぜ誰も思いつかなかったんだろう」

 ……なぜ誰も、だって?

 まさかとは思うが、ランダムサンプリングのがいねんすらないのか? 基本中の基本だぞ。

「つかぬことをうかがいますが、かく検討に用いる統計手法には何がございますか?」

 おそおそたずねてみたが、結果はさんたんたるものだった。

 二群間の比較はもとより、オッズ比も相関係数もない。

 かろうじて正規分布の概念はあるものの、そこで止まっている。

 ここでアンケート調査なんてした日には……結果は散々なものになりそうだ……。

 表計算ソフトも統計ソフトもない中でどうやって計算したものかとは思っていたけれど、考え方自体ないなんて想定外だったわ。

 いい統計手法があればえるつもりだったが、これは予定通りにした方が無難か。

 かのお方は、清潔の効果を死亡率で示した。こくかんきょうにある野戦病院での結果だったから、いっぱん病院での調査にそのまま用いるのをけ、ひとふう入れてはみたが……。

 問題がないわけでもないんだよね。主に、私のおくりょくのせいで。

「清潔にするだけで死亡率が減少するものなのかな。少しやくしすぎでは」

「死亡率はあくまで補足の判断材料ですわ。メインはこちら、平均在院日数です。不衛生からかんせんしょうへいはつすれば、りょうにかかる費用もかさみますし、じゅうしょうすれば予後にも病院の評判にもえいきょうしますわ。病院と患者、そうほうに有用性を示すには最適かと」

「平均在院日数……退院患者の入院日数の合計を、退院した患者数で割るのか。この指標は初めて見るけれど、死亡率と合わせることで入院期間の短縮が死亡によるものでないことも判断できるというわけだね。ただ、この計算方法では長期の入院患者に適さない」

「ごねんの通りですわ」

 平均在院日数の算出法は二種類あるのだが、よりこの検証に適している方がどうにも思い出せずに困っていたのだ。

 先生がご存じならと思っていたが、そうか……この指標もないのか……。

 先生はふむと口に手を当て少しの間考え込んだ後、まっさらな紙にペンを走らせた。

「これはどうだろう。月ごとの入院患者数を、その間新たに入院した患者数と退院患者数の平均で割るんだ。月ごとの患者数には、その期間入院も退院もしない、変動のない人数がふくまれる。それに対して、入退院数の平均を変動する人数とするならば、その誤差分を平均在院日数として算出できる。これなら懸念していた分をカバーできるよ」

 どうかなと小首をかしげる先生がかがやいて見える。もう一つの計算方法、まさにこれだよ。

 初めて見る指標の欠点を一目でき、その解決策をすぐに提示できるなんて。

「私……先生をお招きできて、本当によかったですわ……」

 心がこうようしているのが自分でもわかる。

「僕もだよ。こんなに有意義な時間が過ごせるとは思わなかった。リーゼリットじょう

「はい」

けっこんしてほしい」

 先生も心なしかうれしそうで、この感動を共有できていることが……って、……んん?

 気づけば先生とのきょがほど近く、しかもいつのまにか顔の前で両手をにぎられている。

「こんなに楽しいのは生まれて初めてなんだ。もし君がよければ人生を共にしたい」

 しんな色をたたえたうすちゃひとみが、まっすぐに向けられる。

 …………えっ、え? こ、これってプロポ……ひええ?

 心臓がはやがねを打ち、まともな返事もできずに固まってしまった。

 だって、こんなド直球で。

「失礼。お嬢様はすでに婚約しておりますので」

 カイルの声に先生はあわてて手をはなし、小さくかしこまる。

「えっあ、そう、か。……っごめん。気を悪くした、よね?」

「い、いえ! 驚きはしましたが、気を悪くすることなどございませんわ」

 赤くなってしまったほおの熱を冷ますように、しきりに手を替えあてがう。

 ド直球なプロポーズなんて私にはげきが強すぎたけれど、こんな優秀な方からあのように言われれば嬉しくないはずがないのだ。

 先生は人慣れしていないようだし、気分が高揚しすぎて振りきれてしまっただけなのだろう。今だって赤くなっているのは私だけだ。どうようしてしまって反省しきりだわ。


 気を取り直して授業を続けた後も、ぜつみょうをいくつもいただき打ちふるえる。

 教本もなければ使い慣れた統計ソフトもないこの世界で、先生をむかえられたことは私にとって最上の幸運だろう。……ある一点を除けば。

「ええと、先生?」

「ん? なあに?」

 呼びかけに応じる、小さくも甘い声。ほおづえをつき、やさしくのぞき込むくりいろの瞳。

 いたってまじめな議論をわしていたというのに、なぜとろけそうながおなのか。

 こちらを見つめる先生の瞳は私を優しくとらえ、その中にひそむ感情をにょじつに伝えてくる。

 まったくおさえられていないあたり無意識なのかもしれないけれど、てきすればやぶへびになりそうで何も言えないし、かといってこの空気をずっとスルーできるスキルなんて私は持ち合わせていない。

 このとろとろ具合、いたたまれない……っ!

「ちょっと……おはなみに行ってまいりますわ……」

 ふらつきそうになる足取りでろうに出るや、たましいまで抜けていそうなため息がれた。

 こんな状態でもつのか……主に、私の精神が。

 とはいえ医療統計について、ここまで相談可能な人が他にいるとは思えない。

 ここで失うわけにはいかないのだ。

「うう……でもどうしたら、どうしたらいいの……」

 よろよろと廊下にへたりこんでいると、目のはしに誰かの足元が映り込んだ。

「こんなところで、何をしゃがんでいる」

 はじかれたように顔を上げると、そこにはベルリッツに連れられたギルベルト殿下が。

 ごくに仏とはこのことか!

「ギルベルト殿下! お会いしたかったですわ!」

 感動のあまり、勢いよくって体当たりする。

「なっ、え? は、……っな、なん、」

「どうか、私とひと時いっしょにいてくださいませ」

 必死のたんがんに、殿下はこんわくあらわにして視線を泳がせた。

「……ま、まあおまえがそこまで言うならいてやらんこともないが。言っておくが、俺だってそこまでひまじゃないんだ。今日はたまたま、近くを通りかかっただけであってだな」

 ああ! この反応、心の底から安心する……!


「おかえり、リーゼリット嬢」

 殿下をともなって部屋にもどると、先生はそれはもう幸せそうな顔で迎えてくれた。

 部屋の中だというのに、ぶわりと風を感じる。思わず目をすぼめてしまうほどの。

「……………これは?」

たんてきに申しますと、私の学術意欲が先生のお眼鏡にかなったのですわ。たいへん良い先生なのですが、この状態では私には手が余りますの。どうかおそばにいてくださいませ」

「なるほど……。おまえにわずかでも危機管理能力が備わっていたことを喜ぶとするか」

 あんまりな物言いだが、状況は理解してくれたらしい。

 婚約者様として存分に働いていただくとしよう。

「先生。さきほどお話ししました、婚約者のギルベルト殿下ですわ」

「リーゼリット嬢が世話になっている。これからもどうかたのむ」

 なかなか演出上手な殿下により、ぐいとかたを引き寄せられる。

 同席についてもりょうしょうを得てみたが、はにかみながら返事をする先生は嬉しそうで、その表情がゆがむこともなければ落ち込む様子もない。

 んん? つう、結婚を申し込むような相手が他の男性と仲良くしていたら表情がくもるものじゃないのかな。

 これはもしや、好意は好意でもれんあい的なアレとは異なるものなのかな。

 だとしたらこの状況もそれほど困惑するものではないのかもしれない。

 ……相も変わらず、先生のねつれつな視線は私からまったく逸れないけれど。

「こいつのことをずいぶん高くかっているようだな」

「それはもう。リーゼリット嬢はな存在だよ。じゅうなんな発想にさいな知識、打てばひびくってこのことを言うんだなと」

 うでみした殿下がみするようにねめつけるのを、先生はゆめごこに返すばかりだ。

 私を見つめる瞳はキラキラと輝き、いたくかんめいを受けたとばかりに頰を紅潮させている。

 やはり、当たりだ。これは、敬愛する同士や主人をおもう忠犬のような、見返りを求めないな愛情というやつでちがいないだろう。

 私が先生へと尊敬のまなしを向けるのと同じように、先生も感じてくださっていたのだ。

 正しくは私個人というよりも前世の知見を、だけど。

 なーんだ、この視線もかわいいワンコの尻尾しっぽふりふりだと思えば、何の問題もないわ!

 それならば、いそがしい殿下の時間をこれ以上いていただくわけにもいくまい。

「殿下、おさわがせして申し訳ありません。この通りまったく問題なさそうですわ!」

 安心しきった表情の私を、なんともろんげな瞳が迎える。

「……ていせいしよう。おまえの危機管理能力をいっしゅんでも期待した俺が浅はかだった」


 失礼千万な殿下を送り出し、その日の授業を無事に終えた私は、すっきりした心持ちでベッドに体を投げ出し──先生が原作小説に名前だけ出演していた、乙女おとめゲームのこうりゃくキャラの一人であったことを、ようやく思い出したのだった。

 このとき部屋の外まで響いたうめごえゆうれい騒ぎを引き起こしていたらしいのだが、使用人たちの温情により、最後まで私に語られることはなかった。

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