二章 夜告鳥(ナイチンゲール)をめざすにあたり
2-1
バーンと
お父様とベルリッツが
「お父様! 私に統計学の家庭教師をつけてくださいませ。ああ、医学についてはあてがございますからご安心を。それからこちらを」
「おまえは何を考えているんだ? 第二王子の
「まあお父様、よくご覧になって?」
指し示す先には、それはもう達筆な
「ギルベルト殿下ご
このたびお父様に提示したのは、その名も『衛生環境の改善による効果実証』の草案だ。
要するに、かのお方に
かのお方は、統計を
生家に軍上層部へのつてがあったわけでも、医学に
医療改革に統計学という手法をとったのは、効果を立証して有用性を知らしめることに加えて、実績をあげ協力者を広く
習った当時はピンとこなかったけれど、その立場になってみるとよくわかる。
医学の
今の私がかつての医療知識をもとに、いい方法がありますよとピョンピョン飛び
そんなわけで作成した企画書なのだけれど、立証方法はこれから
使えるものは何でも使う。たとえ無理やり
「殿下との明るい未来のためにも必要なものですの。
そうして私は借金の取り立て屋よろしく机に身を乗り上げ、にっこりと
「リーゼリット様、今日はまたとびきり生き生きしていらっしゃいますね」
それもそのはず。なんと早くもお父様から効果実証の許可を取りつけることに成功したのだ。そして今日はさっそく統計学の教師をお招きするとくれば、心も
「お茶の用意はぬかりない? ドレスはこれで派手すぎないかしら、っとと」
つんのめったところをカイルに支えられる。もうこれで何度目になるのか。
「ありがとう、カイル」
「かまいません。色味が落ち着いていて場にふさわしい
さっきからソワソワしてしまってこんな
なにせ、先生は学園の上級院を首席で卒業されたたいへん
ちょっと
少しでも早く効果実証に着手するため、
ああ、いったいどんな方がお見えになるのかしら!
「レスター・フォン・ローバーです」
よろしく、とぼそぼそ
そう、若い。上級院を出たばかりなのか、おそらく十八歳くらいだろう。
どこか
……さて、能力のほどはいかほどか。
「さっそくですが、先生に見ていただきたいものがありますの。こちらですわ」
簡単に挨拶をすませた後、席に着くなり草案を取り出した。
第一
一定期間保清を行った
というのも、この世界は衛生
使用人を抱える裕福な家でもなければ、
病院で
レスター先生は草案に目を通すと、独り言のようにぶつぶつ
必死で耳を
『同規模の病院の中からランダムで選んだ病棟二つに対して保清を行う』との記述が引っかかっているらしい。なんでそこに注目するんだ。
「すべての病院で同一の調査を行えば、
「なるほど……言われてみればその通りだ。なぜ誰も思いつかなかったんだろう」
……なぜ誰も、だって?
まさかとは思うが、ランダムサンプリングの
「つかぬことを
二群間の比較はもとより、オッズ比も相関係数もない。
かろうじて正規分布の概念はあるものの、そこで止まっている。
ここでアンケート調査なんてした日には……結果は散々なものになりそうだ……。
表計算ソフトも統計ソフトもない中でどうやって計算したものかとは思っていたけれど、考え方自体ないなんて想定外だったわ。
いい統計手法があれば
かのお方は、清潔の効果を死亡率で示した。
問題がないわけでもないんだよね。主に、私の
「清潔にするだけで死亡率が減少するものなのかな。少し
「死亡率はあくまで補足の判断材料ですわ。メインはこちら、平均在院日数です。不衛生から
「平均在院日数……退院患者の入院日数の合計を、退院した患者数で割るのか。この指標は初めて見るけれど、死亡率と合わせることで入院期間の短縮が死亡によるものでないことも判断できるというわけだね。ただ、この計算方法では長期の入院患者に適さない」
「ご
平均在院日数の算出法は二種類あるのだが、よりこの検証に適している方がどうにも思い出せずに困っていたのだ。
先生がご存じならと思っていたが、そうか……この指標もないのか……。
先生はふむと口に手を当て少しの間考え込んだ後、まっさらな紙にペンを走らせた。
「これはどうだろう。月ごとの入院患者数を、その間新たに入院した患者数と退院患者数の平均で割るんだ。月ごとの患者数には、その期間入院も退院もしない、変動のない人数が
どうかなと小首を
初めて見る指標の欠点を一目で
「私……先生をお招きできて、本当によかったですわ……」
心が
「僕もだよ。こんなに有意義な時間が過ごせるとは思わなかった。リーゼリット
「はい」
「
先生も心なしか
気づけば先生との
「こんなに楽しいのは生まれて初めてなんだ。もし君がよければ人生を共にしたい」
…………えっ、え? こ、これってプロポ……ひええ?
心臓が
だって、こんなド直球で。
「失礼。お嬢様はすでに婚約しておりますので」
カイルの声に先生は
「えっあ、そう、か。……っごめん。気を悪くした、よね?」
「い、いえ! 驚きはしましたが、気を悪くすることなどございませんわ」
赤くなってしまった
ド直球なプロポーズなんて私には
先生は人慣れしていないようだし、気分が高揚しすぎて振りきれてしまっただけなのだろう。今だって赤くなっているのは私だけだ。
気を取り直して授業を続けた後も、
教本もなければ使い慣れた統計ソフトもないこの世界で、先生を
「ええと、先生?」
「ん? なあに?」
呼びかけに応じる、小さくも甘い声。
いたってまじめな議論を
こちらを見つめる先生の瞳は私を優しく
まったく
このとろとろ具合、いたたまれない……っ!
「ちょっと……お
ふらつきそうになる足取りで
こんな状態でもつのか……主に、私の精神が。
とはいえ医療統計について、ここまで相談可能な人が他にいるとは思えない。
ここで失うわけにはいかないのだ。
「うう……でもどうしたら、どうしたらいいの……」
よろよろと廊下にへたりこんでいると、目の
「こんなところで、何をしゃがんでいる」
「ギルベルト殿下! お会いしたかったですわ!」
感動のあまり、勢いよく
「なっ、え? は、……っな、なん、」
「どうか、私とひと時
必死の
「……ま、まあおまえがそこまで言うならいてやらんこともないが。言っておくが、俺だってそこまで
ああ! この反応、心の底から安心する……!
「おかえり、リーゼリット嬢」
殿下を
部屋の中だというのに、ぶわりと風を感じる。思わず目をすぼめてしまうほどの。
「……………これは?」
「
「なるほど……。おまえにわずかでも危機管理能力が備わっていたことを喜ぶとするか」
あんまりな物言いだが、状況は理解してくれたらしい。
婚約者様として存分に働いていただくとしよう。
「先生。さきほどお話ししました、婚約者のギルベルト殿下ですわ」
「リーゼリット嬢が世話になっている。これからもどうか
なかなか演出上手な殿下により、ぐいと
同席についても
んん?
これはもしや、好意は好意でも
だとしたらこの状況もそれほど困惑するものではないのかもしれない。
……相も変わらず、先生の
「こいつのことをずいぶん高くかっているようだな」
「それはもう。リーゼリット嬢は
私を見つめる瞳はキラキラと輝き、いたく
やはり、当たりだ。これは、敬愛する同士や主人を
私が先生へと尊敬の
正しくは私個人というよりも前世の知見を、だけど。
なーんだ、この視線もかわいいワンコの
それならば、
「殿下、お
安心しきった表情の私を、なんとも
「……
失礼千万な殿下を送り出し、その日の授業を無事に終えた私は、すっきりした心持ちでベッドに体を投げ出し──先生が原作小説に名前だけ出演していた、
このとき部屋の外まで響いた
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