第八話

 救世主は落ち着きなく、軍部の置かれた建物内の廊下をひたすらに歩いていた。目的地は特に定めておらず、あちこちの角を曲がり、階下に下りたり、外に出たりと忙しない。

 そんな行動の原因は、先ほどまで会っていた少女なのだが、彼女の涙に濡れた瞳を思い出す度に、また足を速め練り歩くという悪循環を繰り返していた。そんな奇妙な行動の合間に、救世主はふと我に返る。そして先ほど彼女に対し、何故育ての親の話まで持ち出してしまったのかと考えた。昨日少し話をした程度の相手に、それどころか今まで誰にも話したことのない身の上話を、何故と。

 考え事を始めたせいか、救世主の歩みは随分とゆっくりなものになっていた。そんなとき、思考に耽っていた救世主の耳に、声が届いた。


「元帥、書類に目を通して頂きたいのですが⋯⋯」


 救世主の直属の部下の一人、エグバートが書類を手に、後ろから声を掛ける。息が上がっており、救世主を追いかけて来たのが一目でわかった。


「おう、こんなところまで追いかけて来たのか? 机に置いときゃ、後で見たのによ」

「急ぎの案件です」

「へいへい。どれどれ⋯⋯」


 書類を受け取り、救世主はその書類の内容に首を傾げた。


「これが緊急の案件なのか?」


 そこに書かれていたのは、近く薬学部での研究発表を行うというもので、特に緊急性もなければ、軍にも然程関係がないように思われた。だが、書類のずっと下の方まで読んでいくと、非常に興味深い内容のものに変わっていく。


『万能薬』その文字と共に書かれている説明文は、その名の通り何でも治せる奇跡の薬そのものだった。だが既に既存の万能薬はある。ただ非常に高価で手に入りにくく、貴族ですら躊躇するほどだ。魔物との戦闘で失った腕や足、その他、内臓系の負傷でさえも、全てを治す薬、万能薬。その開発に成功した。それはすなわち、失くした腕は生えてくるし、腹に穴が開いても、これさえあれば元通りになるのだと言っているようなものだ。

 そして特に救世主の目を引いたのが、この万能薬は奇跡の実を使用して造られたものだということ。奇跡の実は先ほどまで会っていたセラフィーナの家で栽培しているものだと思い出し、益々興味を引かれていく。


「薬学部⋯⋯」


ふとセラフィーナの言葉を思い出す。確か彼女の父親は研究者だと言っていた。だとしたら、この研究発表はその父親が関わっているのではないかと勘繰った。

 何枚かある書類の最後の用紙まで捲り、一番下に書いてある研究についての責任者の名前を確認し、全てが符合する。『ジョナス・プラチフォード』そこに書かれた名前の姓を見て、救世主はやはりと頷いた。

 だがここで気がついたことがある。会って間もないセラフィーナの姓を覚えていたことに、救世主自身が驚いた。本来余り他人に興味のない自分が、名前ばかりか姓まで記憶していたことに疑問を抱いた。身の上話をしたことといい、一体何故と再び救世主は自問自答する。


「今回の研究発表の趣旨は、衛生部隊への説明会と聞いております。新しく開発に成功した万能薬や回復薬の、より有効な使用方法の説明だそうです」


 書類を見ながら黙り込んだ救世主に恐る恐る部下がペンを差し出しながら尋ねる。大柄な救世主を見上げ、部下は少しばかり青い顔で返事を待っていた。急ぎの案件だと言っていたことを思い出し、救世主はこの書類に署名が必要なのだと理解する。発表会の開催場所が軍本部であることと、開催日時も明後日と随分急ごしらえだと片眉を上げた。


「明後日か。何でこんなに急なんだ?」

「衛生部隊の強い要望だそうです」

「まあ確かに、こんな良い薬がただ同然で使えるんじゃ、今すぐにでも導入したいわな」

「ところがそう簡単にいかないようです。その為、わざわざ説明会を開いて導入に漕ぎつけたいというのが、衛生部隊の目論見です」


 その話を聞き、救世主は少しばかり苦い顔をする。


「承認が下りないってことは、それなりに問題があるからじゃねえのか?」


 もちろん、救世主にはその原因について心当たりがあった。だが、それとは全く違う理由で承認が下りないことを知る。


「それが、そうでもないようでして⋯⋯研究責任者のプラチフォード卿の噂が原因のようです⋯⋯」


 歯切れの悪いエグバートに、救世主は鋭い目を向ける。その視線を受けて、エグバートはおどおどしながら説明を始めた。


「プラチフォード卿の娘が、精霊の呪いを受けていることは元帥もご存知かと思います。その呪いを受ける切欠になった話も有名で、その方が作った薬、ましてや失くした腕や足を生やさせる代物に、難色を示す者が多いと聞き及んでいます」


 何を馬鹿なことをと、そして、そんな噂を信じているのかと救世主は呆れたように溜息を吐き出した。


「くだらんな、現に今現在回復薬は運用されているんだ。今更だろうに」


 薬学部では他にもたくさんの薬を作っていた筈だと、救世主は書類にもう一度目を向けた。その薬に彼が関わっていない筈はないと確信を持ち、細かいところまで読んでいけば、既に世に出回っている薬のことや、今回の薬についても既存薬の応用だと書かれている。

 確かに今回の薬は少しばかり異色ではあるが、魔物に腕や足を食いちぎられた者は軍人ばかりではなく、森や山近くに住む者も含め何十人もいるのだ。その者達からすれば、縋りたい程の薬だろうと、救世主は再度溜息を吐き出した。


「それに、研究者の方々の容貌が拍車をかけているのだと思います」

「容貌?」

「はい。彼らは皆、酷く痩せ細り、目は落ち窪んでいて、とても回復系の薬を作っているとは思えない程の有様でして。それが余計に不信感を抱かせているのではないかと推察します」

「まあ、研究者ってのはどいつも変わり者が多いんだろ? 研究に没頭するあまり、飯も風呂も睡眠さえも忘れちまうって話、誰かから聞いたことがあるが」

「その⋯⋯プラチフォード卿は特に、ご息女の呪いを解く為の研究を日々行っていて、憑りつかれたように研究に没頭していると専らの噂でして⋯⋯」

「どんだけ噂好きなんだよ」

「はあ⋯⋯それが世間一般の認識です」

「ふ~んそうか。よし、俺も説明会とやらに参加するから、特等席を用意しておけ」


 そう言ってエグバートからペンを受け取ると、署名をして書類を手渡した。


「はいっ」


 ビシッと姿勢を正し、腰を折った部下は「失礼します」と断ってから、駆け出した。その後ろ姿を見送りながら救世主はポツリと呟く。


「誰が呪いの話を言い出したんだ?」


 恐らくは妬みから来る話だろうとは思うが、まるで本当のことのように語られていることに疑問を抱く。だが、セラフィーナの普段の様子を知れば確かに呪われていると言われても仕方がないとも納得する。そして忘れかけていたセラフィーナの今にも泣きそうな表情を思い出し、救世主はまた忙しなくその場から歩き始めた。

 恐らく、自分だけが知っているであろうセラフィーナの真実を、誰にも知られてはいけないと、心に強く刻みながら。

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