第七話
「よう、今日も一人か?」
救世主の登場に、セラフィーナは心の中で絶叫した。もちろん、顔にはその焦りは全く出ない。昨日に引き続き、今日も来るなどと思ってもみなかったが、フランセスから自分を遠ざけようとしているならば、致し方のない事だと諦めた。そんな重い心を引きずりながらセラフィーナはその場に立ち、挨拶をしようとする。だがその前に救世主はどかりと椅子へと腰かけた。
距離が近い。非常に近い。
「今日も精霊の本か?」
昨日とは違う書物を持っていることに気づいた救世主は、今日は精霊の本ではないだろうなと思いつつも、聞いてみることにした。
「はい」
短く返って来た返事に、「どんだけ精霊好きなんだよ」と突っ込みをいれた。とはいえ、精霊に関する本を読んでいるのを知ったのは昨日からなのだが。
「そういえば、ハドリーの奴があんたに惚れてるらしいぞ」
昨日最期の挨拶をしに来たハドリーの言葉を思い出し、救世主はセラフィーナの顔色を見ながらそんなことを言った。もちろん、セラフィーナの表情は全く動かない。
「そうですか」
それ以上に答えようがなかった。初対面にもかかわらず、『人形』と言い放ったハドリーの第一印象は、それはそれは最悪なものだった。そんな男に惚れられたと言われたところで、信じられるわけがないとセラフィーナは苦い思いで救世主へ顔を向けた。
「なんだ、嬉しくないのか? 玉の輿だろ?」
にやにやと言う救世主の底意地の悪さに、セラフィーナは心の中で溜息を吐いた。
フランセスの取り巻きをやめさせたいのであれば、直球で言ってくれた方が良いのにと思ってしまう。どうして強者とは、こんなにも弱者をいたぶるのが好きなのだろうと、いつも陰口を叩かれているセラフィーナは項垂れた。
「玉の輿には、興味はありませんので」
無表情でそう言うと、救世主は「なんだ、つまらん」と昨日の呪いの一件のときと同じように残念そうに呟いた。結局、虐められる玩具が欲しかったのだろうと、セラフィーナは納得した。ならばこちらからフランセスの側を離れるべきだろうと、決意する。
だがそんなセラフィーナの決意とは全く関係のない方へ、話が進んだ。
「なあ、普通貴族令嬢ってのは学園を卒業してどっかの貴族に嫁ぐものなんだろう? あんたはそこのところどうなんだ? 婚約者とかいるのか?」
突然の話に、セラフィーナは驚くが、救世主が今現在伴侶を探しているならば、そういう話を振られるのも必然なのかもしれないと思った。昨日の昼休みも、フランセスと一緒にいるものだとばかり思っていたが、実際は候補者達の品定めをしていたのだと聞かされた。 そんなことを考えつつ、フランセスとの仲はどうなっているのかと、つい興味が湧いてしまう。セラフィーナもお年頃なのだ。
「婚約者はいませんが、卒業したらすぐに他国へ渡る予定です」
「他国! ってなんで他国に行くんだよ?」
フランセスの側を離れるのだと暗に言ってみたのだが、そこには気づかず、『他国』に反応をした救世主に疑問を抱いた。今ここにいるのは、自分をフランセスから引き離す為ではなかったのかと。それとも、それ以上に他国へ行くことがそこまで珍しいことなのかと、セラフィーナは世間を知らなすぎる自分を嫌悪した。
『他国になぜ行くのか』、この問いかけには明確な返事が出来る。だが、それを話すと必然的に自分の『秘密』を話さなければならなくなるので、セラフィーナは真実を交えつつ、適当に答えた。
「行ってみたいからです。それに、父の仕事も関係しているので」
父親の仕事と聞いて、救世主は首を傾げた。聞くところによると、精霊から奪った種で奇跡の実を育て、売っている。そんな感じの印象だったが、何か別の仕事をしているのだろうかと疑問に思う。
「あんたの親父って、何の仕事してるんだ?」
「研究者です」
「何の?」
「主に、薬です」
「どんな?」
「怪我を治す薬です」
「他には?」
「魔力を回復させたり、体力を回復させたり、色々な薬を作っています」
立て続けに質問をする救世主に、淀みなく答えたセラフィーナは、ずいぶんと踏み込んで聞いて来るのだなと思う。色々と話を聞き、フランセスから遠ざけるべきかどうか思案しているのかと勘繰った。他国に行くと言ったのは、フランセスから離れることを意味するので正解だったかもしれないと、セラフィーナは少しばかりほっとする。
「それで、他国って、どこに行くんだよ」
だが、救世主の追及はまだ続いた。もしかしたら、この無感情の原因を探っているのではないかと、またまたセラフィーナは勘繰った。余計なことを言って感づかれてしまったらと思うと、気が気ではない。
「まだ詳細は決まっていません」
「いやいや、自分のことだろう。決まってないって、卒業まで半年もないんだろう」
「父の仕事の都合で、行く場所が決まります。実は複数個所候補があるのですが、どの国でも私の夫となる方を紹介してくださると約束してくださっています」
「ふ~ん。そんなんでいいのか? 自分の夫だろ」
「私のような者と結婚してくださるのですから、有難い限りです」
「だったら、ハドリーでもいいんじゃないか?」
「⋯⋯」
何も答えないセラフィーナに、救世主は顔を顰めた。納得がいかないという表情だ。ハドリーには決定的な『問題』がある。魔力の強い救世主ならばそのことには気づいているはずだ。分かっているはずなのに結婚を勧めるあたり、本当に意地が悪いとセラフィーナはただただ嫌悪感を募らせた。
「第一印象が最悪だったので」
「他の奴もそうだったらどうするんだ?」
「良い出会いがあることを願うばかりです」
ハドリーのことは第一印象の所為にして、何とか流した。これから会うまだ見ぬ相手には、実際、会ってみなければどう転ぶかはわからないので、思っていることを素直に答えた。
「良い出会いねえ⋯⋯じゃあ、行ってみたい国はどこだ?」
今度は行ってみたい国と質問をする救世主に、セラフィーナは驚愕する。もしかしたら、もう手遅れなのではないかと思ったのだ。救世主はこの国だけでなく、近隣諸国、南大陸以外の国を魔物の脅威から救っているのだ。どこの国へ行っても救世主の息はかかっている。もし、フランセスの側から離すだけでなく、この国から追い出すつもりでいたならば、そう考えて戦慄した。意地の悪い救世主のことだから、どの国も受け入れないように仕向けてくるかもしれないと、セラフィーナは最悪の事態を想像した。そこまでフランセスに嫌われていたのかと、セラフィーナは酷く落ち込んだ。
「なんだ? もしかして特にないのか、行ってみたい国」
何も答えないセラフィーナに、しびれを切らした救世主が再度問いかける。考え込んでいたセラフィーナは探るように救世主の顔を凝視するが、特に嫌悪している風でもなく、ただ単純に聞きたかっただけのような表情を浮かべていた。
「はい」
短く返事をすると、またつまらなそうに救世主は溜息を吐き出した。
だがそこで、ふと気づく。そういえば、救世主はこの国の出身ではないということに。東大陸に多いと言われている黒髪はこの南大陸では珍しい。救世主の髪色はまさに黒で、瞳さえも黒色だった。神秘的なその色合いに、セラフィーナは思わず見惚れてしまう。
「特にないのか。つまらん」
そうぼやく救世主に、セラフィーナは感情の上らない眼で問いかけた。
「救世主様は、東大陸の出身だとお聞きしました。東大陸は、どんなところですか」
抑揚のない声でそう尋ねれば、救世主は少しばかり苦い顔をした。
「どんなところって言われてもな⋯⋯俺はずっと山ん中で暮らしてたからな、よくわかんねんだ」
「山ですか」
「ああ、俺を拾ってくれた老人と二人でな」
『拾ってくれた』、その言葉にセラフィーナは大いに慌てた。聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと、直ぐに謝罪する。
「すみません。軽率な質問でした。謝罪致します」
「あ? 別にそんなこと気にしねえよ」
そうは言うが、セラフィーナの気分は沈んでしまう。拾われたということは、救世主が孤児だということ、そして育ててくれた老人は既に他界しているのだろうと予想し、益々居たたまれなくなってしまう。そして気づく。言動こそ荒々しいものだが、元帥にまで登り詰めるのにもきっと大変な苦労をしたのだろうと。だがそのセラフィーナの顔には悲痛な感情は欠片も表れない。
「山で育ったせいか、初めて海を見たときは感動したな。じじいから海の話は聞いてたけど、あんなにデカイとは思ってなかった」
「そうですか。私も見てみたいです」
とてもそうは思っていない、社交辞令だとも受け取れないほどの抑揚のない言葉に、救世主は顔を顰めた。セラフィーナが海を見たところで何も感じないだろうと、想像する。だからといって特に何も思うところもないと救世主はまた息を吐き出した。
「山を下りたのは十三の時だ。じじいが死んで、山で暮らすのも飽きたし、他の人間がどんな生活をしているのか、興味があった」
実際人々の生活を見てきたが、最初こそ興味津々だったが、直ぐに飽きてしまう。魔物が闊歩していた山とは違い、日々何の刺激もなくただ時間が無駄に流れて行くようで、救世主は早々にその国を後にした。
それでも一つ心残りがあった。
「国を出るのは別に構わなかったんだが、じじいのことだけがどうにも引っかかる」
黙って救世主の話を聞いていたセラフィーナは小さく首を傾げた。無表情だが美しい顔で愛らしい仕草をするセラフィーナに救世主はドキリとした。それを悟られまいと、慌てて続きを話し出す。
「じじいが本当に死んだのかどうか、わからないんだ」
え? とセラフィーナは心の中で疑問符を浮かべる。
「昼過ぎに川魚を獲って小屋に戻ったら、じじいの姿がどこにもなかった。じじいが消える三日前から風邪を拗らせていたんだが、歩ける状態じゃなかったし、布団もそれなりにそこに寝ていたであろう痕跡は残っていたんだ」
神妙な面持ちで語りだす救世主に、セラフィーナは酷く戸惑った。昨日少し話した程度の間柄で、かなり重い身の上話をされ、どうにも居心地が悪かった。
「いつ頃出かけたのかと、寝床の温度を確認しようと思って掛布を剥いだら、そこにはじじいが着ていた服とずっと肌身離さず首にかけてた首飾りがあったんだ」
セラフィーナはその話を聞いて既視感を覚えた。それは髄分と昔、幼少の頃からずっと聞かされていた『精霊』の話そのものだったからだ。
「なぜそれが残っていたのか、まるで身体だけが消えてしまったような状態に、未だに納得が出来ないままなんだ。結局一月ほど探し回ったが、見つからなかった。それでまあ、死んじまったんだろうな、とは思ってるんだが」
悲壮感は特にないように見えた。まだどこかで生きているのかもしれないという気持ちもあるのだろうと、セラフィーナは逡巡する。育ての親と二人きりで山に籠もっていたとしても、人が亡くなったらどうなるのかは知っていたのだろう。山に薬草を取りに来たり、動物を狩りに来る者もいる。山では魔物も出るだろうし、死んでしまった人間が消えてしまうなどとあり得ないことだと救世主はちゃんと理解していた。だから、人が死んで消えてしまうことを受け入れられないのは当然のことだった。
「ただ、そんなことってあるのかって、考えちまってよ」
薄く笑んだ救世主を見やり、セラフィーナは父親から聞いた話をここでするべきかどうか大いに悩み、下を向く。
「⋯⋯おそらく、その方は精霊族だったのだと思います」
「精霊族?」
こんな話を信じる訳がないと、セラフィーナはお伽噺を語るつもりでゆっくりと話を始めた。
「私が生まれる数年前、父は自分の家の庭に、一人の少年が倒れているのを発見しました。歳はだいたい十歳くらいで、とても衰弱していたそうです。父は自分の持てる限りの魔力を使い、懸命に治癒魔法をかけました。魔力が枯渇する寸前で、少年はようやく目を開けました。そして荒かった呼吸が次第に収まり、助かったのだと思ったのですが、まるで風に溶けるようにその姿が透明になり、やがて消えてしまったそうです。その少年が消えた後には、少年が着ていた衣服と、少し大きめの植物の種が残されました。その種を植えて育った木に生った実が、奇跡の実です」
ここまで話して、一度救世主の顔色を窺った。信じなければそれはそれで良かったし、信じたならば、最後まで話すべきかもしれないとセラフィーナは考えた。
「そいつが精霊族だったのか? なんで精霊族だってわかったんだ?」
「瞳が水晶で出来ていたそうです。私たちのように白目はなく、ただ琥珀色の水晶が目に嵌っているかのような、不思議な瞳をしていたそうです」
「ふ~ん。なんか、いまいちピンとこないな。じじいは普通の目をしていたしな⋯⋯」
セラフィーナは、その答えを知っていた。自分の母親もまた、精霊族であり、瞳を人間のように擬態できるのだ。父親が助けられなかった少年が、母親の弟だと知ったのは、ごく最近のことだった。弟の痕跡を辿って父親に会いに来たのが両親の馴れ初めだと知り、年頃のセラフィーナは甘酸っぱいはずの馴れ初めが、思いがけず重いものになったことに複雑な感情を抱いたのを覚えている。
「他に何かないのか?」
その救世主の言葉に、話すかどうか悩んでいたセラフィーナは、切り出した。だが、救世主のことを思うと、心は重く引きずられる。
「⋯⋯こちら側の世界に来た精霊族が亡くなると、精霊界に身体が還る為に消えてしまうのだと、他の精霊族の方に聞きました⋯⋯」
「⋯⋯身体が消える⋯⋯ふ~ん、そうなのか⋯⋯精霊族ねえ⋯⋯」
半信半疑といった様子の救世主に、これ以上は何も言うべきではないだろうと、セラフィーナは口を噤んだ。だが、今までのことを思い出している様子で、救世主は小さく言葉を零す。それは救世主の中で、折り合いをつけているようでもあり、納得しているようでもあった。
「⋯⋯そうか⋯⋯」
救世主はゆっくりと息を吐き出した。「そうか」ともう一度同じ言葉を繰り返し、首から下げていた首飾りに手をやった。軍服を着崩している救世主の首には、銀の鎖が見てとれた。先ほどの救世主の話しから、それが寝床に残されていた首飾りだろうと、セラフィーナは救世主の表情を窺う。育ての親が遺した形見を、その存在を確かめながら、死を受けとめているような仕草に、セラフィーナの胸は酷く締め付けられた。
救世主はそのまま人差し指に鎖を引っかけて、首飾りをセラフィーナに見せるように取り出した。鎖の先には、然程大きくはない銀盤が通されていた。
その銀盤を見たセラフィーナが、大きく息を呑んだ。
そして驚愕の色をその表情に上らせる。
強制的に感情が引きずり出されるような感覚と、内側から湧き上がる懐かしさと悲しみに、セラフィーナは声を上げて泣き出しそうになってしまう。だが傀儡魔法のせいか、声を出すことはなかった。それでも、銀色の瞳には薄く涙の膜が張る。
それを見た救世主は酷く驚き、目を瞠った。
セラフィーナの表情が、顔に表れたことに驚いたのだ。
今まで一度も見せたことのない『人間』の一面を見て、救世主は言葉を失った。それはほんの数秒の出来事ではあったが、今にも涙が零れ落ちそうな瞳は濡れて輝いて見えた。見目が良い分、その美しさは儚さを伴い、救世主の眼に強く焼き付いた。
声をかけそうになる。どうした、と。だがここで声をかけてしまったら、もう二度と感情を表すことがないかもしれないと、救世主はぐっとその言葉を呑み込んだ。
暫くお互いに口を開かずにいたが、やがて午後の授業が始まる予鈴が響いた。
「⋯⋯もうそんな時間か」
そう言って立ち上がった救世主はセラフィーナへと視線を向ける。いつもと変わらない無表情に光を映さない瞳を見やり、あの数秒がまるで夢か幻だったのではないかと思えてしまう。
「そろそろ仕事に戻るか」
セラフィーナの様子を観察しながら、救世主はそう言った。
「暗い話になっちまったが、じじいのことが分かってすっきりした。じゃあな」
何の表情も浮かべないセラフィーナを、もう一度探るように見つめても、得られるものは何もなかった。
セラフィーナが立ち上がり、深く腰を折ったのを見届けてから、救世主は転移魔法でその場を後にした。
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