第九話
正午を少し回った時間に、救世主はまた学園へと足を運んでいた。いつもの校舎裏にある小さな庭に着くと、セラフィーナの姿を見つける。昨日のセラフィーナの泣きそうな表情を思い出し、ほんの少しだけ足を踏み出すことを躊躇した。
昼休みに入ったばかりなのか、セラフィーナは膝の上に小さな弁当箱を広げ、黙々と食事をしている。
一人でいるせいもあり、その表情には感情は見て取れない。昨日のことは幻だったのではないかと思うほど、セラフィーナ自身に何も変化はなかった。
がさり、とわざと木々を揺らし、大き目の音を立てて救世主が一歩を踏み出すと、その音に気づいたセラフィーナが顔を上げた。そしてほんの少しだけ、驚きの表情を見せる。その表情に救世主は昨日と同様に目を瞠る。
セラフィーナは弁当箱をベンチへ置き、ゆっくりと立ち上がると、深く腰を折った。そして顔を上げる。強張った表情で「ご、ごきげんよう⋯⋯」と小さく挨拶をした。
その挨拶に救世主はまたもや衝撃を受ける。昨日までは全く抑揚のない、感情の欠片すら感じられない言葉だったのに対し、今紡がれた言葉はおどおどとした、如何にも慌てている様子の分かるものだった。
呆然とその場に立ち尽くしている救世主を見やり、セラフィーナは戸惑いながらも首を傾げた。それと同時に訝しげな、それでも心配そうな表情が混ざり、一歩救世主へと近づいた。
「あの⋯⋯どうかなさいましたか?」
おずおずと小さな声で問いかけてくるセラフィーナに、救世主はハッと我に返る。
セラフィーナの問に正直に答えてしまえばきっと二度と感情を見せてくれなくなるだろうと、救世主は言い訳を必死に探した。何でもないと軽く返しても良かったのだろうが、それでは余りにも味気ない。そんなことを考えつつ、目についた弁当箱に目を凝らす。
「その弁当、小さすぎだろう」
何とかその場を切り抜けようと、そんな言葉を漏らす。実際本当にそう思っているので、問題はない。
スタスタとセラフィーナの方へ歩み寄り、弁当箱を指差すと返事を聞くためにセラフィーナの方へと視線を向けた。
予想もしなかった救世主の言葉に、セラフィーナは思わずきょとんとしてしまう。その表情もまた、救世主を驚かせた。だが、何とか平静を装う。
「こんなんで足りるのかよ?」
上手く紡げた言葉にホッとしたのも束の間、弁当箱を覗き込み、救世主はぎょっとする。
「おい、こりゃなんだ? これ食い物なのか?」
救世主の目に留まったのは、赤、青、黄、緑の原色が縦縞に並ぶ丸い小さな果物の実のようなものだった。それを指さし、セラフィーナに再び顔を向ける。
「はい、それは奇跡の実です」
何度か耳にしたその果実の名に、救世主は顔を顰める。
「これが? この毒々しいのが?」
「毒々しいでしょうか? 私は色鮮やかで、綺麗な実だと思うのですけど」
そんなに驚くほど毒々しいだろうかと、セラフィーナは疑問に思う。セラフィーナにとっては、この傀儡魔法を継続するためには欠かせない奇跡の実は、とても大切なものであり、毒々しいとは思いもよらない言葉だった。
セラフィーナがフランセス達と食事を摂らない理由、それはひとえに魔力切れの問題からだ。
朝、学園に登園してから家に帰るまで、傀儡魔法を持続するのにはどうしても魔力が足りない。それを補うためには一度魔力の補充をする必要があった。それを自然に行うには昼食で口から摂取するのが一番だった。
回復薬をお手洗いで飲むことも考えたが、持ち歩くには少々大きすぎる。それに無口な自分が食事まで取り巻きとしてフランセスの側にいるのは得策ではないとの気持ちがあったから、一人で昼食を食べるのもまた都合が良かった。
王族に献上している奇跡の実を昼食の弁当へ入れていることが知られれば、それもまた問題となるからだ。そしてセラフィーナは知らない。まさかその傀儡魔法が昼休みには魔力切れを起こして、解けかけているということを。
「綺麗⋯⋯なのか?」
呟くように言ってから、首を傾げる救世主に、セラフィーナは薄く笑みを零す。
そんな些細な表情の変化にも、救世主はいちいち驚いていた。
椅子に置いていた弁当箱を持ち上げ、セラフィーナが救世主へと座るように「どうぞ」と勧めると、「おう」と少しばかりぎこちない返事を返す。その隣にセラフィーナもそっと腰掛け、弁当箱を膝に置いた。
「⋯⋯救世主様は、昼食はもうお済みですか?」
「ああ。今日は早めに飯にした」
「お仕事のご都合で、ですか?」
「まあ、そんなところだ」
セラフィーナの緊張が救世主にも伝わってくる。恐らく昨日も一昨日も同じように緊張していたのだろう。感情が見えなかったせいで気づかなかったが、今現在、セラフィーナの手は震えている。
だとしたら、一昨日などはきっと卒倒しそうなほどだったのではないかと、今更ながらに心配してしまう。
そしてふと気付く。
なぜ今、自分はそう思ったのかと。
人間として昨日までのセラフィーナは『有り得ない』状態だった。今、この時の彼女の方が『普通』なのだろうと。だとしたら昨日までの彼女は何だったのか。そして今日の彼女は何なのか。
救世主はまじまじとセラフィーナの顔を見てしまう。それに気付き、セラフィーナは目を合わせて話さないといけなかったと思い出し、慌てて救世主の方へと顔を向ける。
セラフィーナの陰りのない瞳とかち合い、救世主はドキリとする。直視出来ずに、つい目を逸らし、ぶっきらぼうに言葉を零す。
「飯、食っちまえよ」
「はい。ありがとうございます。では失礼します⋯⋯」
そう言って、小さな口でもそもそと食べ始めたセラフィーナに目を向けそうになり、救世主は慌てて視線を前方へと向けた。ただでさえ緊張しているのに、じっと見られていたら食も進まないだろうと配慮した。
「そういえば、明日、あんたの親父さんに会うことになった」
「え! 父にですか?」
心底驚いたというように、少し大きめの声を上げるセラフィーナに、またしても救世主が目を瞠る。先ほどよりもずいぶんと感情が豊かになっていることに、逆に不審に思ってしまっていた。
「新しい薬の説明会だそうだ。その名も万能薬。失った腕や足が元通りに治るんだと。凄えよな」
「万能薬の説明会でしたか。確かに、凄いですよね。副作用も一切なく、元通りなのですから」
「なんだ、効果をその目で見てきたような言い方だな?」
「⋯⋯はい、実際にその薬を飲んだ方にお会いしましたので」
「そうか。そいつは喜んでたか?」
「はい、とても。足が治った翌日から、仕事に復帰されたそうで、とても生き生きとされていました」
その人物のことを思い出しているのか、目を伏せたセラフィーナを、救世主はじっと見つめた。表情は柔らかく、先程まで震えていた手も今は収まっている。故意に父親の話を出して正解だったと、満足気に頷いた。
「それでよ、何か土産みたいな物を用意しようと思うんだが、何が良いのか聞いときたくてよ」
今日ここに来たのは、それを聞くためなのだと、言外に匂わせる。連日、用もないのに会いに来ていると思われていたら心外だと、自分に言い訳をするように救世主はこの行動を正当化した。
「お土産など、そのようにお気遣い頂かなくても大丈夫だと思いますよ。それに皆さん、結構好みがバラバラで⋯⋯」
セラフィーナの中で、お土産というとついお菓子を思い浮かべてしまう。薬学部の面々は甘党と辛党の両極端なので、毎回差し入れをするときは、両方を用意している。
セラフィーナとしては、それを救世主に求めてしまうのは余りにも図々しいと首を振る。
「他の研究員に、会ったことがあるのか?」
「はい、何度か。放課後に奇跡の実が足りなくなりそうだからと、届けに行ったことがあります。その時に、いろいろとお話をさせて頂いたり、実際に薬を見せてもらったりしました」
随分と興味を示す救世主に、強制的に働かされているとはいえ、父親の仕事を認めてもらえたようで、嬉しさが込み上げる。
一般的に、研究者は変人扱いされがちだが、人を助けるために日々精進しているのだと、理解して欲しくなってしまう。
「既存の万能薬は貴族の方でも手に入れるのが困難なほど高値で希少ですが、今回の万能薬は同じ効能で気軽に使用できるのですから、軍部の方でも重宝するのではないでしょうか」
救世主の目をしっかりと見つめて、そう力説すれば、少しはこの想いが伝わるのではないかとセラフィーナは意気込んだ。だが、救世主の表情は余り冴えない。それに少しがっかりして、強く握っていた手をセラフィーナはゆっくりと解いた。
「万能薬は、どうしたって認可は下りねえだろうな」
「え! 何故ですか?」
とても意外だというふうに、セラフィーナが驚きの声を上げる。
「軍でもそれなりの人数が腕や足を失っている。だがそれで元通りになったとして、軍に戻れるわけじゃねえ。一度植え付けられた恐怖ってのはそう簡単に拭えねえし、誰かがいなくなったお陰で出世出来た奴もいる。それより質が悪いのは、軍に寄生する貴族連中だ。籍だけ置いて戦場には出ずに金だけ貰うって輩が出てくる。そういうのを阻止するためにも、認可は下りねえだろうな」
その話を聞き、セラフィーナは納得する。そう言えば、薬学部の意向は違うところにあるのだと聞かされていたのを思い出した。万能薬は軍よりも、一般の平民の方に使ってもらいたいと訴えていた筈だ。そして今回の説明会は、衛生部隊の強い要望から立ち上がった話だと、昨日父親から聞いたのだった。
「まあそれでも、平民の奴らは腕や足がなければ死活問題だからな。家族のお荷物になるばかりで働けないのは辛いだろう。そういう連中に薬が回るようにすることは出来る」
それは救世主の権限で、ということになる。柄にもなくそんな安請け合いをしてしまった自分自身に、救世主は驚いていた。
「あ、ありがとうございます!」
心底嬉しそうな顔で笑顔を向けてくるセラフィーナに、救世主は一瞬見惚れてしまう。そしてすぐに苦笑した。
一度口に出した言葉は消せはしない。救世主は仕方がないかと自分に言い聞かせた。
「今回、衛生部隊が随分と焦ってる感じだったが、何か親父さんから聞いてるか?」
救世主はずっと引っかかっていた疑問を口にする。別に軍での運用は今すぐでなくても良かった筈だ。止血や痛みは回復薬でも十分に対応出来る。内臓系でも然りだ。時間を置いても万能薬さえあればその後いつでも治せるのだから焦る必要はない。
確かに腕や足がなければ不便だし、内臓系では寝台から降りることさえも出来ないが。一刻も早く、苦しんでいる人を救ってやりたいという気持ちも分からなくもないが、というのが救世主の本音だった。
「父共々、私達一家は半年後には国外に移住すことが決定しておりますので、その前に万能薬を大量に確保しておきたいというのが、焦っている理由のようです。認可が下りなければ、補助金も出ないし、大量生産も禁止されていますから⋯⋯」
「⋯⋯なるほどな⋯⋯」
国外に行く話は聞いていたが、永住するとまでは考えていなかった救世主は、セラフィーナの言葉に衝撃を受けた。実際、他国で結婚をするのだと断言していたのだから、永住するのは当たり前のことだと、改めて気付かされた。
「まだどこの国に行くかは決めてないんだろう?」
「はい。認可が下りないとわかった今、どの国に移住するのか、直ぐに話し合いになると思います」
「話し合いって、他国の連中とか?」
「はい。他国の薬学研究者の方達との話し合いで、父の研究に関し、より良い条件を提示して頂いた国へと渡るつもりです。またそちらで結婚相手もお世話して頂けるという話が出ています」
少しはにかんだような表情をするセラフィーナに、救世主は何故だか苛立った。その苛立ちが何を意味するのか、救世主にはまだ分からない。
「ということは、何ヶ国からか誘いがあるってことか?」
「はい、そうです。回復薬や万能薬はどの国でも欲しいでしょうから」
尤もな話ではあるが、何も国を出る必要はないのではと、救世主は首を傾げた。もっと効率よく薬を世に回す方法はいくらでもある。
「この国の連中は、よくあんた達一家が国から出ることを許したな。薬なら輸出すれば良いだけの話だろうに」
「国を出る権利は誰にでもありますから。それに、輸出は出来ないのです。他国に回復薬を何度か送ったことがあるのですが、この国を離れると回復薬はただの水になってしまうようでして⋯⋯なので、その原因を探るためにも他国へ渡らねばなりません」
水になってしまうのなら仕方がないのかもしれない。そんなことを思いつつ、では、この国に残された薬はどうなってしまうのか、きっとそれも研究対象になっているのだろうと結論付ける。だとすると、国外に出ることはやむを得ないのかと救世主は小さく唸る。だがしかし、それならば余計に国が反対しそうなものだと疑問を感じた。
「回復薬も万能薬も確か原料は奇跡の実だったよな? じゃあ、その奇跡の実はどうなっちまうんだ?」
「それも研究対象になります。実は奇跡の実は、摘んでしまっても傷んだり腐ったりせず、半永久的に存在し続けることが出来るのです。そこでこの地で私達一家が居なくなってもそのまま変わらず実が腐らないのかどうかと、その効能が維持出来るのかどうかを確認したいのです。それと、樹本体は、私達と一緒に他国へ渡ります」「え! 樹を持っていくのか?」
実がなる樹ならばそれなりに大きいのではないかと想像していた救世主は、セラフィーナの膝にある弁当箱に目を向けた。一口大の小さな実を見やり、大して大きな樹ではないのかもしれないと思い直す。
「はい。私達一家は、空間魔法が使えますので、運ぶのには大して苦労はしないので」
空間魔法と聞いて、救世主は良い顔をしなかった。その魔法は油断していると空間の歪に嵌り、抜け出せなくなることもある、とても危険な魔法だ。それを使って移動することを、救世主は危惧した。そしてなによりも空間魔法を使える者はごく僅かしかいないはずだ。それを一家全員が使えると言い切ったセラフィーナに、不審を募らせる。それは今日、ずいぶんと自然に表情を顔に上らせていることも相まって、セラフィーナの存在自体が酷く怪しく思えてならなかった。
「ところでよ、この国で作った回復薬が、全部水になっちまったらどうするんだ?」
「もともと奇跡の実を使用しない方法で、回復薬は作られていましたから、問題はないと思います。ただ、作る過程が複雑で、少々値が張るのが困りものですが。万能薬に関しては、この国を出る前に大量生産し、全てを使い切ってしまう計画です。手や足を失った人全てに行き渡らないのは、仕方のないことだと思っています。国が主導してくだされば、混乱もなく、必要な方の手に渡ると思いますし」
実際、既存の万能薬は希少で高価なものだ。薬学部の万能薬を手に入れられないのなら、治すことはきっと叶わない。だがそれも致し方ないことだと薬学部の研究員は割り切っていた。
「そうかい。まあ、事情があるなら仕方がない」
ため息混じりにそう呟いて、救世主は随分と話し込んでしまったことに気がついた。セラフィーナの膝の上にある弁当に目を向ければ、こんなにも小さいのにまだ食べきっていないことに純粋に驚いてしまう。救世主ならば一口で事足りそうだと思いつつも、セラフィーナに声をかける。
「そろそろ昼休みも終わる。弁当、食っちまえよ」
「はい、そうですね」
慌てた様子で残りを口に運ぶセラフィーナは、とても『人形』とは揶揄できないほどに普通に感情を表していた。一体何があったのか、それともこっちが本来の姿なのかと、救世主は混乱する。
急いで食べるセラフィーナはまるで小動物のようで、見ていて飽きないと、救世主はその様子に釘付けになる。そんな救世主に気付かず、セラフィーナは最後のデザートである奇跡の実をフォークで刺した。奇跡の実はフォークをすんなりと受け入れ、刺さった部分から甘い芳香が漂った。セラフィーナの小さな口へと運ばれ、ゆっくりと咀嚼する。と、ある変化が表れた。
先程までの焦っていたセラフィーナの表情はみるみる抜け落ち、瞳からは光が失われ、動作も酷くゆっくりなものとなる。
セラフィーナをジッと見つめていた救世主はその変化の一部始終を観察し、今日何度目かになる驚愕に目を見開いた。
「お、おい、大丈夫か?」
思わずといった感じで声をかけた救世主に、セラフィーナは殊更ゆっくりとした動作で顔を向ける。昨日と同じセラフィーナの動きに、思わず『元に戻ってしまった』と咄嗟に考えた。何故と口にしかけて直ぐに思い直す。それを聞いてしまったら、全てが崩れてしまいそうな得体の知れない不安に襲われた。
こちらを向いたまま、一言も発しないセラフーナに、救世主は取り繕うように言葉を付け足した。
「もっと早く食べないと間に合わねえぞ」
こくりと一つ頷いて、もう一つの奇跡の実を口へと運ぶ。そのゆっくりとした仕草を見つめながら、救世主の中で答えが見つかる。
無感情の原因が、奇跡の実にあるのだと。
そう確信し、救世主の中で奇跡の実は危険な果物なのだと認識された。だが、奇跡の実は王へと献上されている。末の第三王子は身体が弱く、何年も前から毎日奇跡の実を食べていた筈だと思い至り、逡巡した。
セラフィーナに直接疑問をぶつけては、もう二度と会えなくなるような嫌な予感が過り、先ずは王城へ行って確認をしなければと気が急いた。
「直に予鈴が鳴る。じゃあな」
セラフィーナが食べ終わったのを確認し、救世主は立ち上がる。それに伴いセラフィーナも立ち上がると、無表情のまま抑揚のない声で「お仕事頑張ってください」と腰を折る。
感情が抜け落ちてはいるが、先程までの他愛ないやり取りの延長のような言葉に、救世主は知らず笑みを浮かべた。ひとつ頷き返し、救世主は転移魔法でその場を後にする。
救世主が立ち去った後、セラフィーナは午後の授業に向けて校舎へと歩き出した。連日の救世主との会話は思った以上に楽しく、セラフィーナの心に温かいものが込み上げる。それが何なのか、セラフィーナもまた気付かないでいた。
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