第52話 人手が足りないので会社を作るしかありません。

「ぬぅ~っ、人手が!足りません!!」


 屋敷の空き部屋を専用の研究室へと作り変え、その中に蒸留器などを設置してもらったエルネスティーネ。その中で、彼女は机に肘をつき、頭を抱えながら叫んでいた。

 エルネスティーネ自身も多忙を極める中、さらに手間のかかるノイエテール水の作成を平行して行ったりと手一杯で、新しい本の作成に取り掛かれるほどの余力は到底ない。

 石鹸作りの方も同じ状況だった。

 今までは、手の空いたメイドたちに手伝ってもらっており、彼女にとってもいいアルバイトであったのだが、流石にメイドたちも手が一杯一杯になってきたのである。

 あくまでエルネスティーネの手伝いはアルバイトであり本職ではない。

 これでメイドの業務がおろそかになっては、それこそ本末転倒である。

 注文通り完成した貴族の女性たちから注文された石鹸は、次々と作成され、彼女たちの手元へと輸送されていく。

 だが、石鹸というのは当然使えばすり減っていく物。

 すり減っていくのを恐れ、備蓄するために注文の量も多くなっていってしまう。

 それらに対応するためには、空いた手で行っているメイドたちのみだけでは、労働力が足りないのだ。

 こうなってしまっては、アルバイト感覚のメイドたちではなく、石鹸作り専門の労働者たちを雇うしかない。


「本格的に人材を募集するしかありませんが……さてどうしたものか……。

 あ、そうだ。エーファ。小姉様はいつもの所?」


 悩んでいるエルネスティーネに対して、紅茶を入れてきたエーファは、エルネスティーネの疑問にスムーズに答える。

 エーファ自身も何かと忙しい身の上ではあるが、何かあった時のためにできる限りエルネスティーネの護衛兼メイドとして傍に寄り添っていた。


「ええ、おそらくそうでしょう。」


「なら、伝えてきてほしい事があるの。千歯扱きの実用化で職を失った人のリスト作ってきて。それと、今度の新事業でその人たちを優先的に雇い入れるって伝えておいて。きっと小姉様も喜ぶわ。」


 エルネスティーネの提案した千歯扱きは、長い目で成果を見なければならない農業と異なり、構造も簡単ですぐに実用化できる。

 だが、この農具によって、今まで非効率な扱箸によって穂を挟んで籾をしごき取っていた未亡人たちの貴重な収入源が断たれる事が問題になる事も目に見えていた。

 それら貴重な収入源を絶たれた人たちを、労働力を求めているこちらの石鹸作り事業に雇い入れようという計画である。

 未亡人たちは絶たれた収入源が復活し、こちらは喉から手が欲しい労働力を賄う事ができる。実質的な公共事業と同じである。

 もちろんメイドたちも労働力として働いてもらおう。

 だが、そうなってくると問題は、働く場所や器具や寮などやるべき事は山のようにある。

 きちんと雇った人数分の給料の支払いなども行わなくてはならない。


 石鹸が、貴族社会に対して大きな影響力を与えている以上、アーデルハイトから金を引き出せる算段は十二分にある。そのためなら、初期費用やら土地や道具やらもある程度は用意してくれるだろう。

 それに加え、今まで貴族たちからもらってきた石鹸の代金を使用すれば、当面の費用は問題ないはずである。

 もし、石鹸の需要が少なくなったとしても、その労働力は紙作りに回せばいいのだから問題はない。

 というか石鹸を作るのだけでなく、紙作りをやってもらえばエルネスティーネやエーファがわざわざ紙を作らなくてもよくなる。

 そうなれば、エルネスティーネの多忙さも少しは減らせ、その分をラノベ……もとい本普及事業に向けられるというわけである。


「しかし、お嬢様。見知らぬ者たちを大量に屋敷に上げるのは……。

 純粋に、作業スペースが足りませんし、お嬢様たちの安全も保てません。」


 今現在、石鹸作りは手の空いたメイドたちが行い、エルネスティーネの屋敷内部でスペースを作り行っている。

 いかにアーデルハイトが平民たちに対して偏見が少ないからと言っても、安全上の理由で見知らぬ平民たちを自分の屋敷に大量に上げるのは断るだろう。

 これは、純粋な保安・警備上の問題である。

 そこにアサシンやテロリストが潜入して、アーデルハイトたちの命を狙ったら、いかに武装したメイドたちと言えどアーデルハイトたちを守るのは難しい。

 それならば、専門の労働場所を作って、そこに労働者や未亡人たちを迎え入れて働かせるとなれば、向こうも反対はしないはずである。


「うん、大姉様に話して、適当な大きい空き家か空いてる土地がないか聞いてみましょう。最悪、建物作りから始める必要があるけど、大姉様なら納得してくれるでしょう。」


 事実上会社を立ち上げるとなれば、どうしても初期費用が必要になる。

 建物を建てたり、従業員に給料を払ったり、道具を用意するだけの大量の金をポン、と用意できるはずもない。

 貴族たちから貰った代金はそれなりの金額にはなるが、それでも会社を設立するには足りない。

 そのため、それら初期費用はアーデルハイトに出してもらうように頼み込むつもりである。こちらも砂糖やらスリヴァルディやらの向こうに大いに役に立つ開発を行っているのだ。いくら大姉様だろうが文句は言わせない。


 現代のように厄介な手続きや法の縛りやらは必要ない。

 資金力さえあれば、その日から会社を設立できるのである。


 石鹸の作り方は基本的にはメイドたちが作っていたやり方と変わりない。

 それをさらに大型化しただけである。


 だが、石鹸の需要が増えてくるにつれ、海藻や木から灰を作るだけではアルカリの生産が追い付かなくなってくる事も考えられる。

 伝染病や体臭、清潔さを保つためには、貴族たちだけでなく、一般市民たちにも広く石鹸を普及させなければならない。

 幸い、中立の神殿はキリスト教のように入浴を悪とする風習は持ってはいない。

 入浴と石鹸の使用を市民に広げてもらえば、伝染病などに対して大きな力となるはずである。


 そこで、アルカリが不足してきた時に作り出せる手段もエルネスティーネは考えておかなければならない。

 それは、食塩から硫酸ソーダを作り出し、それを石灰石と石炭に混ぜて加熱して炭酸ソーダを作り出す、ルフラン法と呼ばれるやり方である。


 だが、この方法には欠点もある。

 一つは危険で有害な塩化水素ガスが発生してしまうという事。

 だが、これは水に溶かす事によって貴重な塩酸ができるので、そこをうまく利用すればいい。(危険が伴うのには変わりないが)

 そしてもう一つは、廃棄物として大量の硫化カルシウムが発生し、これを放置すると有毒な硫化水素が発生する事である。


 これらのデメリットを考えると、このルフラン法を使用するのは控えたい。

 併用して塩酸を塩素ガズに変換し、漂白剤の製造を行えるディーコン法を使えば環境汚染は抑えられるが、やはりコストもかかるので現状ではそこまで考える必要はない、というのがエルネスティーネの考えである。


 ともあれ、貴族用だけでなく、一般市民たちにも手に入る手頃な石鹸を作り出さなくてはいけない。

 清潔さは疫病や病気などを遠ざける大きな力となる。

 どんな疫病でも、基本的な石鹸による手洗い、うがい、清潔さを保つのは極めて有効である。

 貴族用の石鹸は、通常に加えて香りをつけるためさらにコストが増してしまうが、一般人の向けの石鹸には、コストカットと大量生産の意味もあって匂いをつけずに、そのまま販売する予定である。

 このように、貴族用の高級品と市民たちでも安く買える石鹸を作り出し、この領地に普及するのが目下の目的である。さらに、貴族の令嬢たちに飽きられないように、彼女が興味を引く新商品を開発しなくてはならない。やることは満載なのである。


「はぁ……。私は本を作りたいだけなのに何でこんな……。」


 思わずエルネスティーネは大きくため息をついた。本、というかラノベを作りたいエルネスティーネにとっては今の状況は甚だ不本意ではあるが、これも本自体を普及させるための第一歩として耐えるしかない、と考えを改めて、彼女は再び自分の仕事へと取り掛かった。


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