第35話 アーデルハイト帰還。

 そして次の日の朝、冒険者ギルドの二階の寝室でエーファは目を覚ました。

 恐らく、宴会の後でデルフィーヌたちが放り込んだのだろう。二日酔いの頭痛に悩まされながらも、カーテンから差し込んでくる朝日に、エーファは慌てて起き上がる。


「……うう。朝日がまぶしい……。そうだ。早起きしてお嬢様の朝ご飯の支度をしなくては……。」


 頭痛に悩まされながら、何とか起き上がったエーファは、胸元に何か柔らかい感覚がる違和感に気づく。

 そして、そっと下を見てみると、そこにはエーファに抱きしめられながらすぅすぅと安らかな寝息を立てているエルネスティーネの姿があったのだ。


「~~~~~!!」


 エーファの声にならない悲鳴が、部屋に響き渡った。


 そして、その後、目を覚ましたエルネスティーネから事の次第を聞かされたエーファの落ち込みようといったらなかった。

 仕えるべきお嬢様に酒の勢いとはいえ、そんな事をしてしまってのは、メイド失格であると考えているからである。

 とぼとぼと、しょぼしょぼのしわくちゃ顔でエルネスティーネの後ろで歩くエーファはどこぞの映画に出できたキャラを連想してしまう。

 とんでもない事をしてしまった、と思い込んでいる彼女は、覚悟を決めた顔でエルネスティーネに言葉を放つ。


「あのぅ……。お嬢様。昨日は酒で酔ってしまって私はとんでもない事を……。

 この非礼は、自害することでお詫びを……!」


「しなくていいしなくていい。昨日の事は酒に酔った事の無礼講。

 お互いに忘れた、という事で、ね。」


「わ、分かりました……。」


そんなこんなで、ようやく自分たちの屋敷に戻ってきたエルネスティーネは、ふう、と思わず一息つく。


「ふう、何だかんだでようやく戻ってこれましたね。」


 冒険者ギルドに立ち寄ったエルネスティーネとエーファは、デルフィーヌたちと別れそのまま自分たちの屋敷へと戻ってきていた。

 チェインメイルで武装しているエルネスティーネの姿を見て思わず驚く市民もいたが、そもそも領主であるアーデルハイトがフルブレートアーマーを装備して、剣を振るい、この領地を守護している事を思い出すとそのままスルーする者たちが大半である。


「はあ、ようやく戻ってこれましたね。激戦やら何やらと忙しかったですし、数日間ぐらいはのんびりしても罰は当たらない……。」


「あら、ティネ。戻っていたの?ちょうどいいですわね。」


そんな風に自分の部屋に戻ろうとしていたエルネスティーネに向かって、長身で奇麗な金髪をたなびかせながら、ドレスを身に纏いエルネスティーネに似た女性。

エルネスティーネの姉であり、この領地を守護する辺境伯領主、アーデルハイトである。王都に向かっていたが、どうやらつい先日帰ってきていたらしい。

アーデルハイトは、エルネスティーネにそこにいなさい、と指示して、自らは一度奥に引っ込むと、手に大量の羊皮紙を抱えながら帰ってくる。

そして、どさどさ、とアーデルハイトは、エルネスティーネの前の机の上に大量の羊皮紙の山を作り上げる。


「あのぅ……。もしかしてこれって……。」


「ええ、貴族の令嬢たちからの石鹸の注文書の山ですわ。どこの貴族の女性も貴女の作った石鹸は引っ張りだこ。私も鼻が高いですわ。

 今まで我が家を辺境の蛮族だと陰口を叩いていた者たちも掌をひっくり返して頭を下げてくるのは痛快の極み……おっと、あまりこれは言うべきではありませんわね。」


「あのぉ~。もしかして、これ全部やらなきゃダメでしょうか……。」


「当然ですわね。まさか出来ないとでも言う気?」


ジロリ、とこちらを睨みつけてくるアーデルハイト。

これだけの注文を取ってきて「できませんでした」では辺境伯としての風評に大きな傷がつくのも事実。アーデルハイトとしては、何としても仕事を行わせるつもりである。


「とは言うものの、これだけの量を一人で行うのは無理というのも事実。

 ウチのメイドたちで手の空いてる者たちを手伝いに向かわせます。

 それでも足りない場合は、人を雇ってもらって結構。給金は当家の自腹で出します。

 必要なものがあればすぐ言いなさい。こちらの方で手配します。」


 貴族にとって、名誉、信頼はいかなる事よりも大事である。

 この家が辺境、田舎者とごく一部でバカにされつつも、一方で辺境伯領主、国を防衛する盾として敬意を受けているのも、アーデルハイトが体を張って国境防衛を行っているからである。


「それと……。王妃様から直々にあのハンガリー水?というのをもっと生産してほしい、との正式な依頼がありました。王妃はあの香水が大変お気に召したらしく、王妃専用の香水とされるようです。ティネはこちらを優先なさい。

 他の仕事はできる限りメイドたちに割り振りなさい。領主の私の名を使ってもらってかまいません。」


 上質なハンガリー水を作り上げるのは、強い酒(蒸留酒)と新鮮なローズマリーが大量に必要になる。

 この土地は、混沌領域から流れてくる活性化された地脈の力と、地脈の力を制御する中立神の大神殿によって栄養豊富で植物や作物が育ちやすい肥沃な大地が広がっている。その影響により、新鮮なローズマリーはいくらでもこの領土に生えている。

 新鮮なローズマリーならば、花の部分だけでなく葉も使える事ができる。

 つまり、材料については問題はない。問題は、製造にかかる手間暇である。


「一応言っておきますが……まさか王妃への献上品に簡易品を渡すなんて、辺境伯領主の名前に泥を塗る真似は考えておりませんわよね?

 そんな真似したら、例え可愛い妹でも首と胴が泣き別れしますわよ。」


 ほ、本気だ、この姉本気で言っている。

 やるといったらこの姉は本気で「やる」そうでなければ、この領地を守護する事など到底できはしない。

 確かにハンガリー水は作るのに手間暇がかかり、大量生産に不向きなため、大抵はある程度の強さの蒸留酒に、ローズマリーのエッセンスを配合した程度のものである。

 だが、そんな手抜き品を王妃に渡すなど、無礼打ちされてもおかしくない所業である。アーデルハイトはそれを警戒しているのである。


「わ、分かりました。エルネスティーネ、拝命いたします。」


「まあ、手間がかかって大変というのは分かりますが……これはティネに対してもメリットがあるんですよ?らのべ?というのはよく分かりませんが、ティネの目的は書籍を広めたいのでしょう?そうなれば、問題は文字ですわ。我が国においても、この領土においてもまだ文字を知っている農民たちは少ない。これらを解消するためには教育が必要ですが……教育というのは手間も金もかかります。

 ですが、王妃様と貴族の奥様や令嬢たちの声があれば、教育に国費をさらに多量に注ぐ事が可能です。識字率が向上すれば、本を読む人も多くなる。そうなれば貴女の夢に叶うのではなくて?」


 確かに、アーデルハイトのいう事は正論である。

 いかに本を出しても、買ってくれる人がいなければどうしようもない。

 そして、読めない本を買う物好きはそうそういない。

 つまり、出した本を買ってもらうためには、識字率の向上がどうしても必要なのである。

 しかし、国家規模の教育など、到底エルネスティーネ一人でどうこうできるレベルではない。

 だが、王妃の後ろ盾や、貴族の奥方や令嬢たちの口添えがあれば、国を動かし、国家規模で教育の向上、識字率の向上に取り組む事ができる。

 未だに「市民や農民に文字など不要。我々のいうことを聞いていればいい」と考える貴族が多い中、それを行うのに王妃や貴族の奥方の後ろ盾は絶対に必要なのである。


「確かに……大姉様のおっしゃる通りです。分かりました。努力します。

 それで、大姉様。お話があるのですが……。」


 エルネスティーネの話は、混沌領域で発見した炭酸カルシウムの鉱脈である。

 この炭酸カルシウムの鉱脈は、エルネスティーネのみならず、このワーレンフェルス領においても非常に役に立つ物質である。

 この炭酸カルシウムがあれば石鹸を作る時に必要な、苛性ソーダを簡単に作成する事ができる。

 ここから作り出された炭酸ナトリウム溶液と水酸化カルシウム溶液を混ぜ合わせると、水酸化ナトリウム水溶液――つまりは苛性ソーダとなる。


 苛性ソーダは、取り扱いに注意が必要な物質ではあるが、貴族の女性から大量に注文が入っている現状ではいちいちエルネスティーネだけが取り扱っている訳にもいかない。取り扱い方をメイドたちにも教えて、彼女たちのみで注文された石鹸を作ってもらう予定である。

 今までは、遠くから貝殻などを輸入していたが、自前で賄うことができれば遥かに手早く石鹸を作ることができ、しかもコストカットすることはできるはずだ。


 しかも、炭酸カルシウムはそれだけではない。

 他にも、主な使用法としては、炭酸カルシウムは農地に巻いて農地の酸性値を整え、作物の収穫率を向上させる農業用石灰としての使用法がある。

 さらに炭酸カルシウムを高温で焼くと酸化カルシウム(消石灰)に変化する。

 消石灰は、消毒にも使用でき、病気の蔓延を防ぎ、遺体の腐敗臭も防ぐことができる。


 さらに、この石灰を利用する事によって火薬を作り出す事も可能である。

 バケツ数杯の石灰水を熟成させた堆肥にしみ込ませると、大半の無機物は堆肥の中に留まるが、カルシウムは硝酸イオンを捉えて排出される。この液体を集め、少々のカリを入れると、炭酸カルシウムと硝酸カリウムができる。

 この液体を濾過して蒸発させれば、硝酸カリウム、つまり火薬の原料が出来上がるのだ。


「か、火薬ですって!?マジですの!?」


 さすがにこの領地を守る辺境伯領主として、火薬の生産の話を無視できないのは当然である。現在この世界では銃は最新の兵器であり、どの国もその導入に力を注いでいる。だが、そこで大きな問題になるのが火薬の存在である。

 どの国でも喉から手が出るほどほしい火薬の生産をここで行えるようになれば、ワーレンフェルス領の防衛に大いに役に立つのは明白である。


「え、ええ。まぁ。火薬に必要なものは炭、硫黄、そして硝酸カリウムです。

 炭と硫黄は肥沃な大地のこの領地ならすぐに手に入るでしょう。

 問題は硝酸ですが、これは水に溶けやすいので、古民家の床下の土、家畜の糞尿が浸透した家畜小屋の土壁などが採取しやすいです。

 ……ああ、ダンジョンの下の地面なども溜まりやすいかもしれませんね。」


 ヨーロッパでは家畜の糞尿が浸透した家畜小屋の土壁から硝石を得ていたし、他にも、古民家の床下の土を集め、温湯と混ぜた上澄みに炭酸カリウムを含む草木灰を加えて硝酸カリウム塩溶液を作り、これを煮詰めて放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化すると精製された硝石となる。このような「古土法」といった方法も存在する。


「で、人工的にその硝酸?硝石?を作り出す手段もあるんですの?」


「はぁ、まぁ一応はありますが……。」


 硝酸カリウムを作り出すには、小屋に、木の葉や石灰石、糞尿などを土と混ぜて積み上げ、定期的に尿をかけて硝石を析出させる「硝石丘法」なども存在する。

 蕎麦、麻、稗などの硝酸基がより多く含まれる廃棄される植物と、麻畑の土を用意して、小屋の中で植物と土と人間の尿を混ぜて山にし、時々混ぜ返して空気を通して新しい糞尿を混ぜる。これを繰り返して数年で硝酸カリウムが出来上がるはずである。


 ただし、これは非常な悪臭と暑さに苦しめられる作業であり、作業を行う者たちには様々な利益があったとされる。

 例えば年貢免除のみならず、作業代も払われるなど、それほど大変な作業なのである。フランスに存在していた硝石採取人は、国王からあらゆる家に立ち入って床下を掘る特権を与えられており、あらゆる建物の下に潜り込み、その土をもっていくことを許可されており、しかも兵役は免除されていた。

 つまりそれほど大変な仕事だったのである。


「ふむ……。なるほど。貴重な情報を感謝しますわティネ。

 ともあれ、了解しました。その炭酸かるしうむ?の鉱脈は人を派遣して回収することにしましょう。……その功績に免じて、混沌領域に通じる道を吹き飛ばしたのは不問に処しますわ。」


その言葉に、思わずふう、と安堵のため息をついてしまうエルネスティーネであった。

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